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筧 久美子氏

 「科学は、女を弱い性、劣った性とする神話や偏見からの開放を可能にする」(帯封)。本書はこの宣言をより広く着実にさせていくための、貴重な第一歩を記したものといえるだろう。

 真摯に科学的であることと「男女の性差が存在する」ことの間に矛盾することは何もない。優劣・上下、敵対・競争、利害・損得といった観点を持ち込んで性差の意義付けをしてきたこれまでの「学説」は、本書で示されるような批判検討を重ねていくことで一つずつ正当に駆逐できる。「性差の科学」はそういうことを説く本だからである。

 この書の紹介に先立って、特に記しておきたいことをまず述べておく。

 今も多くの大学人の記憶に強く残っているはずだが、1967〜8年頃から始まった全国規模でのいわゆる大学紛争は、大学全体にさまざまな揺さぶりをかけるものであった。その激動の波のなかで大学側もようやく「自主改革」を模索し始めた。例えば従来になかった新しい講義方式の創設を打ち出したのがその一つである。それが、「時代に即した魅力のある学際テーマ」を掲げて専門の異なる複数の教員が取り組むという「総合科目講座」であった。以来この方式がほとんどの大学で試みられるようになってほぼ20年が経つ。

 だが残念なことに、すべての総合科目講座が、所期の理念どおりに魅力ある講義を学生たちに提供しえているか、見るべき成果を上げているかといえば、必ずしもそうではない。むしろ形として開講しているだけという状況が少なくはないだろうと思う。いまなお試行錯誤の中で悩んでいる教員は多いはずである。講座の運営に活性を持続し学生たちに受講の喜びをもたらしつづけるのは、それほど容易なことではないからである。

 その総合科目講座を積極的に活用し、活気ある授業を展開しただけでなくテーマ講座としての重要なメッセージを討論形式で深め、さらに多くの人たちに伝えようとした編者たちのエネルギーに、心から拍手を送りたいと思う。その熱気のあかしともいうべき本書によって、より多くの大学人たちが多様な刺激を得られることを願わずにいられない。



 本書は2部構成をとる。その概略を以下に記してみよう。  第1部「性差をめぐって」。赤松良子(元文部大臣、文教女子大学教授。専門は主として女子労働法関係)、功刀由紀子(農学博士、愛知大学教授。神経生化学)、長谷川真理子(理学博士、専修大学教授。行動生態学)、坂東昌子(理学博士、愛知大学教授。素粒子論)という、それぞれ専門分野を異にする魅力的で気鋭の女性研究者四名の座談会記録。

 第2部「性差の科学」。愛知大学の総合科目で行われた講義のうち性差に関連した講義録6篇と第2部資料を収録。

 第1部は章分けとして1.性差とフェミニズム。2.攻撃性と性差。3.脳と認知機能。4.未来への展望。四つの表題を掲げた最後に「討論を終えて」として討論者それぞれのコメントを付す。1から4までは、関連するさまざまな理科系分野での通説を取り上げ、その是非を縦横に論じつつ従来の科学的実証性の如何を問うもので、話題は広範にわたる。論客ぞろいなのでどのページにも迫力満点の議論が飛び交うのだが、理科系の者でなくとも具体的に挙げられる例を自らに引き寄せて理解できることが多く、いろいろな情報を与えられるのが有り難い。分かりやすい例を一つ挙げると、(日本の?)これまでの研究に性差の視点があったのかといえば、例えば生物学の分野で正面から男女差をテーマにしている研究者はまだいない。それには研究者のほぼ98%が男性で占められていることがあるだろうといったふうに、研究の歴史・既出の学説・専門分野の現状の相互関連性が語られる。なるほど学問研究が偏向する根源にも連なる数字だなと思わせてくれるのである。

 男女の「性差」に関する研究は、近年の遺伝子やDNAの発見によって大きく進み、その後も性ホルモンや脳器官の機能にまで研究が及ぶようになっている。だが現在までの研究成果がどれほど日本社会の全般的な常識となっているかといえば、まだまだ充分ではないだろう。まして科学的学説と信じられてきた多くの通説が本当に妥当なのかどうかについて、改めて検証することさえ充分になされていないのである。とりわけ性差に関する旧来の常識は根強くはびこっているといえる。その常識を批判するにあたって、これまでのデータや定説を検討し「ここまでは分かった」「これはまだ分かってはいない」「この断定は尚早である」などなど、慎重な確認を行いながら議論を進めているところが、私には特に印象的であった。

 それとともに私が感心したのは、専門分野のそれぞれ異なる人たちが従来の多様な関連諸説を非常によく調べた上で議論を行っていることで、こういう議論ができるというその事に羨望すら覚えたほどである。誰もが科学の成果をもとに、このような着実な議論を積み重ねていけたならどんなに素晴らしいことだろう。

 後半第2部は、この書が作られるもととなった愛知大学での総合科目講義の中から、性差に関連したものを集め、「生物学的ならびに環境の影響を受けた性差を考える際に、必要と思われるいくつかの基礎的な知識やデータを紹介」する機能を持たせている。個別のテーマを記せば「性差の発現およびそれに及ぼす胎内環境の影響」「脳の性差−女の脳と男の脳」「性の分化はなぜ起こったか」「体・体力の性差」「性淘汰と性差の起源」「性格の形成と判定」及び「女性研究者はなぜ少ないか」である。

 特に教師としての私の関心からいうと、この総合科目の受講生たちがどのように講義に反応したかを伝えるコメント部分が大変面白かった。毎回の講義に対する学生からの質疑文を集め、それに講師の回答を求めて問答形式のプリントを作ったのは、アシスタントの院生だそうである。ごく一部しか採録されていないのは残念だが、教員からのメッセージをちゃんと受けとめている学生の姿がよく見えて、これもこの総合科目講座の優れた成果の一つに数えたいと思ったことを付記しておく。


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