論点1:
生と死の境界線が揺らぎだした今、「脳死は人の死」との認識も含め、 人の死を人が判断することについてあなたはどのように考えますか。


 

1)(97J女)
私は、生物学的なヒトの死は構造的不可逆であるということに対して全くの異論がありません。しかし、機能的不可逆がヒトの死ということは、頭の中で理解しているつもりでも、心の中では納得できていません。確かに現代医学の進歩によって、人工呼吸器や薬剤によって脳死という状態が作られたため、「死」をどこかで取り決めなければならないという事は理解しているつもりです。呼吸、心臓、脳機能の停止という死の三徴候説のような取り決めも仕方がないことであり、必要となることだと思います。しかし、どうしても、自分が診断される者もしくはその家族、友人であった場合を考えると、たとえ機械が心臓を動かしており、意識がないとしても体は温かいのですから、「取り決め」で診断された死は、絶対に納得できないでしょう。これは、きっと脳死判定基準(竹内基準)による判断でも同様でしょう。誰もが、簡単にここからは生きていて、ここからは死んでいると言われても「はい、そうですか。」と言うことはできないはずです。
 最近行われた4つの脳死判定により、数人の方が臓器提供を受け、生命を救われたことは知っています。そして、よかったなあとも思いました。しかし、自分がドナーに登録できるか否かの結論は出てきません。もとには戻らないだろう自分から、使える臓器を提供して、数人の人が助かることはすばらしいとは思うのですが、自分自身の「死」と思うと考えがまとまりません。
 

 (2)(99J男)
 前は脳死状態になってしまった時、少しはヒトの死とみなしていいと考えていた。しかし今は脳死は脳という体の一部分の機能が停止しただけなのでのうしをヒトの死とみなすことは極めてしてはいけないことだと考えるようになっている。
 今、生物学的なヒトの死の構造的不可逆については納得できる。死の三徴候説についてはこれは三つとも体の機能の一部なので、たとえ三つすべてが停止してもヒトの死と呼ぶことはできないと今は考えている。
 脳死基準については細かい規定があるみたいだが、何が原因で再びよみがえるかわからないからすべての体の機能停止して回復の見込みが全くない時にヒトの死と言えると今は思う。
 

(3)(97J女)
 医療というのは、人を生かしていくものである。しかし、人の死と言う限界点を移動させるという大業を成してでも、医療行為をすべきであろうか。人は自然にまかせ、死を迎え入れるべきである。脳死における臓器移植もそうである。もう再び目を開けることがないからといって、心臓が動き、温かい体を持つ患者に死を宣告し、臓器移植を始めるなど
ということはすべきではない。
 人の死の限界点を動かし、また人の死を人が判断するという今の医療には何かを見落としている感じがする。
 

 (4)(96J女)
 事故などでは、突然それまで全く信頼関係のなかった病院に運び込まれて、医師にしかわからない理由でもって死とするには、やはりきちんとした歯止めが必要だと思う。しかも、低体温療法によって、蘇生限界点を下げることができるという治療があるにもかかわらず、脳死状態になった人すべてがその治療を受けることができるチャンスがあるわけではない事実は、さらに生と死の境界線を複雑にしてしまっていると思う。死は納得とあきらめだと思う。植物状態の家族を少しでも長く生かしたいと考えるか、早く楽にさせてあげたいと考えるかでケース・バイ・ケースで対応していくしかないと思う。
 そこからいうと、アメリカはイエスとノーが明確なのだと思う。アメリカは、医療費が非常に高いそうだから、どうせ命が戻らないのなら臓器を提供しようという人も多いのだと思う。アメリカでも日本でも医師からしてみれば殺人として訴えられたくないから過剰医療になってしまうのだろうが、もしかしたら経済的な理由でもう少し生き延びることができても、無理だとあきらめることもいい境界線なのかもしれないと思った。
 やはり、生と死の境界線を見つけることは難しい。一人一人が自分は自分の脳死を認めるのかどうかはっきりさせておくのがいいのかもしれない。そして臓器提供を行うときにある地点に達したときにそれが死と見なすのも良いと思う。
 
 



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