論点4:
個人の意思と家族の意思をめぐり、自己決定権についてどのように考えますか。

(1)(98J男)
 アメリカではすでに「脳死」による移植医療は日本に比べ、なかば当然のように行われているようで、現在、日本もそれにならうように移植医療が進められていますが、倫理的にはいまだに重大な問題を解決しないまま、行われているのは大変危険だと考えます。つまり「人の死」ということがなんであるのかがしっかり議論されないまま、現実的な時間の流れの中、押し切られるように移植医療に踏み切った日本では、これから数が増えるに連れ、トラブルが出てくるのは目に見えるのではないでしょうか。できることなら、脳死移植は一度中止すべきではないでしょうか。

(2)(97J男)
 脳死という問題は、これからずっと論議されていくことだと思うが、倫理とか人間の生命の尊厳とかを考えると一定のラインを引くのは不可能であると思う。これから大切になってくるのは、事故とかで脳死状態にある人の意思を重要視することが一番ではないかと思う。その人本人の意思が移植を希望するものであったならば、家族の思いとかいろいろあると思うが、そこは周りの人の意見を大事にするという考えもあると思うが、生命に尊厳を与えるならば、脳死状態にある人の意思(生前の意思表示)を大切にするのが一番いいのではと思う。
 そして脳死の基準は世界一定の基準を設け、世界共通の脳死判定を持つべきではないかと思う。でもこの問題に関しては論議されなくなったときは人間の生命に対するとらえかたがいいかげんになって、人間らしさを失った時だと思うから、論議されていくことは、現場の人たちにとっては一番大変なことだと思うが一番重要なことだと思う。

(3)(99SJ女)
 死の三徴候の、呼吸停止、心臓停止、脳機能の不可逆性、つまり脳の器質死をもって「生物としての死」と考えるべきなのだろうか。しかし、現在、「人の死」を考える時、そこに遭遇する人の「哲学」、つまりその人が死をどう思いどう死に向かい合っているかが問われる。
 救急搬送された病院の医師の療法に「人の死・生」が預けられるのである。
 ある人は「脳死判定」を受け、死の宣告をされ、ある人は「低体温療法」により、生もしくは死に至ることになる。その周りにいる一般市民は、その意志に従わざるを得ないの
が現状であろう。
  私たちは、自分の死について方針を持つ必要がある。
1.「脳死判定を受けて、新鮮な臓器を提供する。
2.「低体温療法」によって自分の生を求める。(臓器提供が限られてくる。)
3.自然死を望む、など。
延命をするための処置も含め、選択肢はまだまだあるのであろう。
  
 
(4)(99SJ女)
  低体温療法で蘇生する確率が高いと言うことは、移植にも適した健康な臓器だという証にもなるので、移植医療と低体温療法医療は、どこまで行っても交わることがなく平行線をたどってゆくのではないだろうかと感じた。低体温療法には高度な技術力、人力、医療費がかさんでしまう。たまたま、低体温療法のできる施設に収容され、治療が開始され、
運が良ければ脳死でも生きながらえることができる。そうでない人は死んでゆく事実。人の命に、人間の力は大きく関与しているのだ。そして、幸運な人は生きることができる。人の死や命をどうとらえていけばよいのか考えさせられるビデオであった。
 アメリカの低体温療法は、48時間以内、感染症のことを考えている基準と言っていたが、アメリカ的合理主義が人の死にも影響を与えているのだと感じた。また人の死をどうとらえるかは、その国の文化が影響しているということがつくづく考えさせられた。
 



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