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性差の科学と学術のジェンダー構造

池内 了

性差の科学

 「性差の科学」を読んで、エヴリーヌ・シュルロがジャック・モノーと組んで「女性とは何か」というシンポジウムを開いたことを始めて知った。自然科学の成果を下に、客観的なデータの分析を通じてあえて性差を明らかにし、それに基づいた女性論を組織的に展開することを意図したらしい。いわば、客観的・科学的な検証が可能なセックス・カテゴリーから出発して性差を明らかにし、それが社会的・文化的な衣を分厚く着込んだジェンダー・カテゴリーとどのようにつながっているのか、を考えようというものであった。性差の科学は私のような自然科学者にとってはわかりやすいアプローチであり、進化戦略として雌と雄に分化する道を選んだヒトという種は、両性が対等に揃ってこそ生物学的に自然であることがすんなりと飲み込める。つまり、セックス・カテゴリーとしては性差は当然であり、むしろそうであればこそヒトは生き残ってきたのである。だから、生物学的には、性差が価値序列(つまり女性差別)と結びつく根拠はあり得ないのは明らかである。脳や生理の近年の研究から、このような観点はますます明白になっているようである。

性差の科学の限界

 とすると、性差が価値序列に結びついてきたのはジェンダー・カテゴリーにあると言えそうだが、問題はそんなに単純ではない。空間知覚・言語能力・記憶力・数学的能力のような脳の機能に関係する形質に性差があるのかどうか、あるとしても、それらが果たしてセックス・カテゴリー(先天的あるいはDNA)に属するのか、ジェンダー・カテゴリー(後天的あるいは社会環境)に属するのかは論が分かれるし、証明しようがないからである。ヒトとして遺伝的に決定されている部分と、長い進化過程の中での自然的・社会的環境の影響で変化したり、現実の生活の中で刷り込まれたりしてきた部分もあるためで、2つのカテゴリーが重なっていて単純に切り分けることが不可能なのである。性差の科学の限界がここにあると思っている。ところが、このような形質こそが、性差の価値序列の理由となっており、「らしさ」の根拠となっているのである。

 はっきりしていることは、知的形質は、性差よりも個人差の方が圧倒的に大きいことである。ある種の能力を測ることができるとして、その能力について男性と女性の平均値を出したとしても、その差異は、私たちが毎日顔を合わせる個々人が示す能力の差異より小さいから、平均値で個人を判断することは間違いなのである。言い換えると、サンプルを適当に操作すれば、人為的に有為な差異を作り出すことができるし、差異がないとする結果も作り出すことができる。つまり、知的な能力を客観的に測りうるかどうかがまず問題であり、その数値を個人に当てはめることはもっと問題があると言える。脳の構造や体内分泌機能などを生物学的に調べることと、社会の中でのそれらの発現(働き)とは別であることをしっかり抑えておく必要があるだろう。

学術のジェンダー構造

 ところで、性差の科学について考えているうちに、これまで得られた生物の進化や機能の分化についての知見にジェンダー構造が隠れているのではないか、と疑うようになった。単純な例では、通常使われている実験動物(ラットやサル)は雄ばかりであり、そこで得られた結果は疑うことなく雌にも適用されているという事実である。一般に生物は個の多様性が大きいから、実験や統計をとるときのサンプルは血統や生育条件が一様であるよう注意深く選ばれている。その場合、生理状態の差が大きい雌はサンプルから外されることが多く、必然的に雄のみをサンプルとすることになるからだ。(その実験を企画実行するのも男性研究者がほとんどで、結果の解釈についてのバイアスもあるが、それについては触れない。)さらに、雄の実験動物の結果を、そのまま安易にヒトにまで適用していないかどうかの慎重な吟味も必要だろう。

 種として雄と雌の性差があるのが当然とすれば、食物や薬物を含めた外的環境への反応性は異なるはずであり、両性への実験が成されて同質性と異質性が一つ一つ明らかにされてこそ、その種についての一般的な知見が得られたとすべきなのである。さらに、その知見をヒトにまで適用しようとする場合は、常に、何を使った実験で、どのようなサンプルの結果であるかを明示しなければならないだろう。ところが、私たちは、そのような習慣を培ってこなかった。

 つまり、これまでに積み上げられてきた生物・生理科学の知見そのものに偏りがないかを見直す必要があるのではないかと思う。このような学術のジェンダー構造の見直しは、ジェンダー・カテゴリーにおいて文化や歴史などさまざまな分野で試みられているが、セックス・カテゴリーにおける生物学的な研究では非常に少ないと思われる。ジェンダー・カテゴリーからセックス・カテゴリーを洗い直す課題と言えるかもしれない。そのような視点からの性差の科学は、大いに進めるべきではないだろうか。

おわりに

 シュルロとモノーたちが試みたシンポジウムは、1976年以来、世界のどこでも開かれていない。おそらく、女性論の取り組みに自然科学からの発想が少ないためだろうし(女性の自然科学者が少ないことも原因だろうか)、性差を明らかにすることがかえって女性差別につながると危惧する向きも多いからだろう。「性差があるのだから、差別も仕方がない」と短絡する人が多いのは事実だから。そこで、性差は価値序列と直接関係しないことを明確にする一つの方向として性差の科学を捉えることを強調する必要があると思う。ジェンダー・カテゴリーとセックス・カテゴリーを明確に定義しつつ、それらのカテゴリーの決定的に異なる部分と、各々が互いに重なる部分を抑えておく必要があり、性差の科学がそのヒントを与えると考えるからである。それが脳の機能が持つ形質の性差であり、皮肉にも性差の科学の限界点でもあるのだが。このような限界を踏まえつつ、性差と価値序列の間にどのような論理の飛躍があるかを明らかにすることが性差の科学の重要な課題であると思う。さらに、現在の自然科学の構造にジェンダーが影響を与えていることが明らかになれば、新しい性差の科学の可能性もほの見えてくるかもしれない。


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