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「性差の科学」の今後に期待することなど

筧 久美子氏 1998.3.1 奈良大学

1.はじめに

 私がかつて神戸大学の教養部で総合科目「男と女」の開講(1987年)を提起するに至ったのは、性差の問題を全く新しい視点から取り上げた大冊『女性とは何か』(シュルロ・チボー編。1976年のシンポジウムをもとに、『偶然と必然』という標題で出版。西川祐子・天羽すぎ子・宇野賀津子翻訳、人文書院1983年)のおかげである。どのくらいの回数をかけてだったか、それを記録していないのは残念だが、ほぼ2年間、当時の教養部の女性教員数人が事前に定めた章を読んできて、それぞれの意見を交わし合った。この時の会読は、心理・社会編のみで終わったが、それが直接の契機となって開講への下地が固まったのであった。

 こうした総合科目の実施にとっては、教養部という部署はきわめて有効な機関であった。文科系・理科系・体育系と多彩な専門家がいて、誰もが学際的講義の担当協力者になれたからである。その利点を生かし、1987年から92年までの五年半、1年に半年の休止を置いての八学期にわたって、性差に関する講義を意識的に組み込むことができた。特に男女の客観的性差について、心理学・体育学・生物学・科学史の分野からの講義は、事前に『女とは何か』を議論した私たちにとっては、興味深い講義であった。

 例えば、心理学実験分野で研究の成果として示されるさまざまな統計数値は、しばしば「男女には有意の性差があり、おおむね女の生得的劣性を説明する」らしいものとして教えられ、使われてきたものであったといえる。それに対し近年の研究は過去の定説を覆すデータを示すことも多く、データそのものの客観的根拠は必ずしも十全とはいえないこと、分析と解釈の面でも恣意的な観点が働きがちであったのではないかという、目から鱗が落ちるような指摘がなされた。これまで学問的「常識」といわれてきたことでも、科学的「真理」では決してないのだというのである。

 同時に一方では、生物体としての人間の性染色体の働きや、脳・神経系におけるいわゆる「性ホルモン」(今ではこの用語は厳密に使われている)の作用によって、胎児期などに男と女がどう分化していくかという面での研究が、着実に進みつつあることも伝えられた。とくに男児には一定の時期にアンドロゲン・シャワーと呼ばれる現象が起こるという話題は、学生にはもちろんそうした研究領域の知識に疎い文科系の私にとっても、新鮮かつ貴重な情報であったのである。その情報は、「性差などはない」と報告されるよりも、むしろ安堵と納得をもたらしてくれたといってもよい。フィジカルな外見が違うように、男と女には性の生得による具体的な違いは確かにあるのだ。ただそれは性の違いによる優者と劣者を意味するものではない。この単純明快な命題を当たり前の真理として承認するために、人類はどれだけ愚劣な回り道をし、女は不当におとしめられてきたことか。

 この方面での研究が更に進めば、「男女間に性差などは存在しない」と主張してきたフェミニズム論者の立場が危うくなるというのは杞憂にすぎるであろう。違いが「事実」としてあることと、違いが優劣を生得的に決定するという「観念」とを短絡させるのが、根本的な間違いだからである。それらの違いを科学として厳密に慎重に解明していけば、はるかに面白いことが分かるではないか。そうすれば対等平等の尊厳を保障されるべきすべての人間の共通性と異質性、とりわけ男と女という二つの異なる性が存在することの積極的な意義について、誰もが生き生きと豊かに語れるようになるであろうと、私は思ったものである。

2.「性差の科学」を読んで

 以上が、総合科目講座によって得た、私の初歩的な認識である。そしてこの度『性差の科学』(坂東昌子・功刀由紀子編、ドメス出版1997年)を初校の段階と今回の二度にわたって読む機会を与えられた。おかげで講座で学んだ「性差」存在の解明事実を再認識し得たのだが、この初が多くの人に問いかけている「学問とは、科学とは」というときの基本姿勢に、さらに多くを学んだことを特記しておきたい。

 総合講座で得た上記のような私の初歩的認識は、現在どれほど日本社会の全般に承認されているかといえば、まだまだ十分ではないはずである。その意味では従来「科学的」と信じられてきたことを、もう一度改めて検証することの必要性と重要性について討論者たちが要所要所で繰り返し強調しているのが、極めて印象的であった。ここまでは分かった、ここまでは分かっていない、この断定は尚早であるなどなど、慎重な確認を行いながら議論を進めているからである。それに加えて私が感心したのは、専門分野のそれぞれ異なる人たちが従来の多様な関連諸説を非常によく調べた上で議論を始めていることで、こういう議論ができるということに羨望すら感じたほどである。科学の成果をもとに、着実な議論を積み重ねていけることは本当に素晴らしい。この書がその貴重な先鞭となることを期待している。

 ただ討論の再現を活字にするという方法は、臨場感を伝えるのに効果的で一般読者にもとっつきやすくさせる半面、時に結論が分からないまま次の話題に移ってしまうこともあるため、消化不良の感じが残ることもあったことは否めない。今後の課題であろう。



 さて、以下は文科系の立場からの要望である。この書物では触れられなかった性差に関わる問題を、今後どうつなげていくかについて、思い付くことを述べておきたい。

 それは、男女という「性差」が存在することの意義をどう考えたらよいのか、何のためにその差が作られたのかという古くて新しい問題である。つまりこの書物の今回の目的範囲でなかったにせよ、今後は「性差と性愛の性行動」の関係について、どうしても論じなければならないからである。どういう角度から検証するかの項目を私なりに挙げれば、ほぼ次のようなこととなろうか。

1)いわゆるヒトの「性差」と「性愛」と「性行動」の関係について

 生物としての科学的・物質的側面の解明が進みつつあることを前提にして、他の動植物とは異なるとされるヒトの精神・情動との関係においてうえの三つを見るとき、どう説明できるだろうか。
 例えば、個人の「性」を従来どう説いてきたかを思い付くままに記せば、
  1. 「快楽」としての性→主として男のために必要な性の快楽という論調は、長く支配的であったといえる。それに対して女の性は本来的に受け身であるとされ、一方では人間だけが性愛と生殖を分離したという説がある。それらの通説に対して「性差」解明で説明できることがどれくらいあるのだろうか。

  2. 「排泄」としての性→男性の生理現象を処理するための性行動は不可避だとする論は根強い。いわゆる「従軍慰安婦」を徴発する発想も、それを隠蔽する論理もこの論に基づいている。女性の性は排泄を受容する道具として機能するだけのものとする論を、どうやって粉砕できるか。

  3. 「養生」としての性→古来、男性の健康維持に多数の妻妾を公認して当然とする論は一貫してある。それにひきかえ、性愛と養生の関係を女の場合に説かれることは一般的でない。その是非はどうなるのか。

  4. 「生殖」としての性→家と社会と国家にとって、「人口は力だ」という信仰は根強い。愛はないのに生殖の道具として女が枠組みに取り込まれてきた構図は、今もあまり変わっていない。性差の解明からその将来はどう展望できるだろうか。

  5. 「コミュニケーション」としての性→近年になって、開明的な論者の間で提起されるようになったものだと思われるが、その普遍的な実現性はどう保証されるか。

2)過去と現在と未来のそれぞれについての必要な再検討について

  1. 種族・集団・国家・社会・家族・個人と、その中に位置する男女両性にとっての性差の意義を、あらためて明らかにすること。

  2. 科学の問題として、ヒトは自らの性をどう自覚し、記録してきたかを系統的に解明すること。  例えば記録・遺物のない時代、あったものが抹消された可能性。記録や物が確認できる時代についても、誰が記録したか、その内容をどう記録しているかの検討。男性性と女性性に対する個別男女の自覚の実際。

3)現未来にかかわる性の問題

 例えば売買春問題(男女ともに)や、慰安婦問題に対する男の側が「必要悪」と正当化したがる論理に対して、有効な批判と反論を構築するためには?
 男女という両性以外の性行動としてある同性愛者の問題は?
 体外受精技術がもたらす新たな課題は?

 文学の主要なテーマとして最も大きいのは、男女の愛、言い換えれば性愛をめぐって生起する人間の喜怒哀楽の諸相だといえる。これからの私たちにとって、上記の問題が性差の解明によってどのように展望されうるのか、そして人間の「性愛」にどんな形がありうるのかを、是非総合的に論じてほしいと、私は願っている。

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