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3月1日「性差の科学」討論会記録2、討論の部

[マネーのトランスジェニックその後]
 
根岸「岐阜大学で近現代日本文学を担当している根岸と申します。この、マネーの報告を初めてきいて非常に興味があるのですが、これはどこの国、アメリカですか、そこでの1973年の結論とは逆に現代の観点から私が疑問に思ったのは、この、ペニスの存在が外性器という事ですよね、そうなら外性器の状態(ペニスの欠損)と整合させるかたちで、戸籍の性別の方を変えてしまうというのは、今の私たちの感覚からいうと、非常になんか異質な感じがするんですが。これは感覚的な疑問なのかもしれませんが、1970年代、アメリカでは、わりに違和感なく元の生まれつきの性というものを抜きにして、その外性器の欠如によって戸籍の性を決めたということなのですか?戸籍の方をを変えてしまえばいいといったアドバイスがアメリカでは当時ごく自然に行われていたのでしょうか?」
宇野「そういう意味で先端的な取り組みに対して、割礼時の事故でペニスを完全に失って生れた男の子をどう育てるかと、子供の両親が悩んでた時に、ジョンホプキンス大学のマネーの研究室の取り組みを両親は知って、その生まれてから性を色々変えられるから、あるいは生まれてから最初生まれた時に認定された性と、特に生殖器の混乱みたいな形で中途半端なかたちで決めた性と、本来の性と違う場合、それを戻したという新しい取り組みのあることを聞いて、両親がマネーの所を尋ねて、結局マネーを含むそのチームは、この子は将来大人に成長した場合、ペニスのない男の子として生きていくよりは、女として生きていくほうが抵抗がないし、メリットが大きいだろうということで、その子を男の子から女の子に転換し、必要な時に必要な女性ホルモンの投与を含めて治療しようというプロジェクトを作って、その方針を決めたんです。これは、少なくとも、7から8才くらいまではそれで一見うまくいってたわけですね。ただ、もうちょっと経った時に、その彼か彼女、その段階では彼女として扱われてたわけですが、非常に自分自身、内から込み上げてくるものと、食い違ってきたわけです。子供のほうは、そういう経過は知らなかった訳ですよね。そして、自分はいったい何者なんだろうと思いこの子が混乱した時に、初めて両親はすべてを打ち明けて、その本人は結果として、やっぱり男として生きていく道を選んだ、というのが実状なんです。ただ、この結末は発表しなかった。マネーも色んな学会で7才くらいまでのところまではよく報告してたんです。ところが、それ以降、あれどうなった? って聞いても、マネーはしばらく10年以上語らなかったんです。家族との約束事とかあって語れないんですけど、ハワイ大学のMダイヤモンドとかが、この結果どうなったかということを、まあ、ごく最近に明らかにしたというのが実状です。だからこの話は、少なくともうまくいったという話で終わっていたんですが、違うということが、今頃になって出てきたというわけです。」
李玲「私、今、神戸市外国語大学の文化交流専攻の博士課程に在学中の中国留学生、李玲と申します。今マネーという人の例が挙げれらましたが、勿論我々人間としては、共通性があると同時に、それぞれ人間の個性があると思いますから、ここで挙げた例はあくまで1人の例ですね。もちろん私達はすべての人間を実験することは出来ないので、たくさん取り上げる事は出来ないんですけれども、この1人の人間だけでこういう結果になるというのは、必然性があったのか、あるいは偶然なのか、どうかなあと…。」
宇野「例えば20年前に比べて今は、性が決定される時期はかなり早い段階だということはわかってきました。これは典型的な例の話ですが、同性愛者は少し前迄は社会的な影響で出現するといわれてきました。ところが、ドイツのダナーていう人が調べたんですけども、同性愛者は、第一次世界大戦後に生まれた人に多いという傾向があるといっています。それは、結局、当時の母親にかなり強力なストレスがかかり、脳の男性化に必要なアンドロゲンのシャワーが十分でなかったんじゃないかと推察されているんです。そういう子供がどういう風な性を選んだかということ、また、そういうような結果を色々トータルとしてみて、含めて、やっぱりお腹の中で浴びたアンドロゲンのシャワーっていうのが無視できないというのが最近の傾向です。つまり、少なくとも生まれた時点で、すでに性に関しては白紙の状態ではないのです。もちろん、外部性器とか、そんなかたちは、性差がはっきり表れているんですが、それを抜きにしても、心は白紙の状態で生まれてくるんじゃない、いうのが少なくとも20年前と今は変わってきています。もちろんこれも、ウエイトの差ですけれども。」
根岸「あの、それは遺伝子よりも、ホルモンの方が重要なのですか?」
宇野「ええ、ある意味ではそうともいえますね。いわゆる遺伝子はあっても、アンドロゲンのリセプターがないと、それは女性ということにないますね。というか男性とはならないといったほうが正確でしょうか。ただ現実にはこの場合も、外性器によって女性として認定されてるケースが多いんですけど。」
坂東「でも、そのホルモンがまた遺伝子に支配されて発現するという事も重要でしょう?つまり、アンドロゲンのレセプターの origin はどこかいうことまで考えんといけないのではないですか?」
宇野「まあね、その遺伝子がなければならないし。」
坂東「今でてきたマネーってどういう研究者なのですか?」
根岸「『Man & Women; Boy and Girl』(根岸注:これはバダンテー『XY』の注にあります。J.Money & A.Ehrhardt 『Man & Women; Boy and Girl』The Jhon Hopkins University Press, 1972)を書かれた人じゃないんですか。」
宇野「そうそう、ジョン・マネーです。心理学の研究者らしいですよ。」
坂東「心理学ですか? モノーとマネーとちょっと間違ってて、あれっと思ったんですが、この人有名なんでしょう?」
根岸「名前だけはよく聞いています。」
宇野「心理学者ですが、医学部所属だと思います。医者かどうかははっきりしません。」
坂東「この人の論文や結論、結構みんなが引用しているんですか?性の相対性ということを証明する材料として証拠にされているんだとすると問題ではないですか?」
宇野「そうですね。性が後天的だという典型的な例としてよく使われていますね。」
坂東「はい、わかりました。はじめに出した論文が間違っていたり、間違った犯人を報道したりという事はよく起こることですから気を付けないとないといけませんね。」
池上「あと一つ質問なんですけど、このSRY遺伝子いれて、性転換した試みは、そのあと、どうなりました。」
宇野「これはマウスの話ですからね。」
池上「性転換してオス化したマウスで、精子が出来なかったっという話を聞いてるんですけど、それちょっと、追跡できてないので、文献をもし知ってられたらと思って。この話は、だから、外見は男性化、オス化したんだけども、結局、機能まではオス化しなかったから、後天的に性転換した例としては使えないんじゃないかということなんです。文献をきちっと押さえられてないのでちょっと自信はないのですが・・・。」
宇野「ちょっとそこまで私もフォローしてなかったんだけど、ただ、最近SRYというのはかなりわかってきています。このいわゆるスイッチ的な機能を持った因子は、性分化のキイスイッチとはなるけど、それだけで全部決まってしまう訳ではないのです。性の決定に関わる遺伝子もたくさんあって、この次のまた別のスイッチという風に、次々と連動して最後にやっと、性が決定するっていうかたちになってるから、道は遠いのです。」
池上「だから、すごく派手に宣伝されはったのですが、その次のステップはあまりきちんとフォローされていないんですね・・・。」
坂東「いつもそういう感じで、いいかげんな情報が流れるのかな。クローン羊のドリーちゃんだって、追試が出来なかったらそうなるんですかね。(注:その後、ネイチャー紙上で、ドリーのお母さんは実は当時妊娠していたっていう話があり、実はやはり受精卵由来のクローンではないかと疑問がもたれ、それに対して、今度はロスリン研究所の方から、確かめたところ間違いなく、体細胞由来であったという報告も出た。)このような、事後報告はたいてい、小さな記事としてしか載りませんからね。ほとんどの人は見落としてしまうんですね。」
「うーん。」
功刀「SRY遺伝子について言うと、一番最初の段階で、DNAに結合するタンパクを作る遺伝子は、確かにSRYだけども、その次にDNAが折れ曲がって次のステップの遺伝子が発現するんですね。そこから、アンドロジェンとかテストステロンができるまでには、かなりのステップがあるはずなんですが、そこのところはまだ、確認されているわけではないんですね。マウスで今おっしゃったSRYを入れてトランスジェニックをつくってやったんじゃないかという話は、実はかなりいい加減なデータなんですよ。今のところ、それを認めるのか認めないのかっていうのはまだ、分子生物学ではちょっとまゆつばだな、ていうところあるんですよね。」
坂東「この辺の研究もまだまだこれからってとこなんですね。」
功刀「今とにかくトランスジェニックといって色んな遺伝子を入れて色んな変ったものを作るという方法が開発されています。要するに遺伝子組み替え動物を造っているわけです。その一つとして、分かった遺伝子がSRYというわけです。」
宇野「大きな発見は、みんなの目に見える、多分情報が行き届くので分かるけど、全部フォローしきれませんね。自分の気になっているところだけは、どうなっているかをフォローしているけど、マイナーの部分はわかんないんです。」
功刀「一つの遺伝子を入れた時に、あるところだけ変るんじゃないんですね。もう、全然そのあたりはブラックボックスのところがあるんですね。」
世谷「愛媛県の聖カタリナ女子大学で政治学を教えている世谷と申します。確認なんですけど、生物学的に見た場合、じゃ、その性的二型、つまり男か女か、オスかメスかていうのは、ここにあげてらっしゃる五つのレベルで、例えば、遺伝子的にはオスだとかメスだとか、脳の段階ではオスだとかメスだとかっていう風に考えるんですか? わかんないな。」
宇野「ただね、遺伝子レベルでも、こういう遺伝子があるかないかていう意味では必ず二者択一だけど、ジェンダーのレベルなってきたら、そもそも二者択一ではなく、どちらかというとオスだとかいった幅がありますから、どっちの傾向が強いか、ていうような形に考えなきゃならないと思います。いわゆる性というのは、あくまで相対的なものであるのです。トランスジェンダリズムをやっている人の表現で言えば、人間のセクシュアリティていうのは、男か女かという二種類じゃなくて、性的思考性とか含めて、多次元が組み合わされた結果として存在する、というグラディエーションで構成されているんだという、そういう表現をすべきかもしれません」
坂東「それは誰がいっている説ですか。」
宇野「埼玉医大のジェンダークリニックの仕事をやっている、心理学が専門の友人です。」
坂東「心理のとこまでいくと性的にも難しいですね。」
宇野「そう、だから特にジェンダーの倫理に関しては、男と女っていう、一応典型的な男、典型的な女ていうこういうのがあって、自分はこのどこに位置づけるかていうのは人それぞれであるということになる。」
 
[産む性としての女性と生殖技術]
 
宇野「この本に追加してほしいこととして、生殖と性差ということがありますね。フェミニズムの観点から言うと産む性としての女性があるような気がします。産む性って何だろうか、という視点がもっとあってもいいのではないかと思いました。今までは、産む性というと、家というものと関連して考えられてきました。不妊治療に駆け回る女性たちも家という縛りの中で論じられてきたきらいがありますが、今少し違ってきていると思うんです。女の中に生みたいという面もあるのではないかという観点が出てきたのではないでしょうか」
坂東「生殖の問題とか、性の問題は、確かに抜けていました。功刀先生がもっと早くきて下さっていたらできたかもしれませんが。産む性として女性を定義するということは、生殖という事と、遺伝子を交換することとの、違いを問題にする事も必要でしょうね。遺伝子交換のもっとも有効なやり方が、有性生殖だったわけでしょう? ただ、性と生殖とはちょっと話が違うのですね。そもそもは。」
A(?)「そうすると、今後クローン生物の技術が進んで、受精という過程を経ずに、子供が生れるようになると、性交渉による増殖も必要なくなり、さらに産む性としての女性の定義も変わるのでしょうか?」
坂東「さあ、そう簡単ではないとおもいますよ。クローンには、進化という観点から、問題がありますからね。」
功刀「無性生殖にもどるということですからね。進化に逆行する面もあります。」
坂東「もっとも、増殖と遺伝子交換とは、必ずしも同じではないんですが。例えば、ゾウリムシは遺伝子を交換するときは増殖しないんですよ。
A(?)[今の話はもう少し人間の問題と結び付けてできないんでしょうか。」
坂東「それはこれから深く理解していかなければならない問題ですね。まだまだこれからです。ゾウリムシと生殖技術はちょっとはなれた問題ですから。今新聞などでみるクローンの話は、受精卵由来の技術から体細胞由来、つまり遺伝子交換をしないクローンが可能かどうかという点が焦点です。つまり哺乳類で無性生殖が可能かという点が焦点ですね。そもそも、有性生殖は多様性をを保証するために、進化の中で発生してきたのですね。つまり遺伝子の組み替え、DNA交換をするために一番有効なやり方だったってことなのです。」
A(?)「じゃあ、遺伝子を交換できるようになったら、ほんとに女性が産む性でなくても良くなるのでしょうか?」
池上「ウーン、万というレベルでの情報をもっている遺伝子をそう簡単に操作できないでしょうし、それにその多様性は私たちの想像を絶するか数ですからね。これが生物の特徴でもあるのですから。」
宇野「遺伝子一個で決められてしまうわけではありませんからね。ただ、ある遺伝子がどういう働きをするか、といったことも段々わかってきているのです。ある環境、社会の中で、男や女という遺伝子を持った人が、育っていくので、その遺伝子のすべてが発現するわけではありませんから、環境に左右されて決まる部分もたくさんあります。ただ、10年ぐらい前に比べて、かなり遺伝子レベルで決まるものがある事が分かってきたという事です。でも、それでもなお、ウエイトの問題です。最終的には、遺伝子だけで決まるわけではないのです。確かに男性、女性が環境で決まる部分もあるのですが、しかし、胎児の段階でかなりのことが決まっていることもわかってきているってことです。」
池内(靖子)「白紙で生まれてくるんではないんですね。その意味では。」
 
[セックスアイデンティテイはどこできまるか]
 
池内「ところで、一度聞きたいと思っていたのですが、小倉千加子さんが、『セックスアイデンティテイは言葉から始まる』といわれたのすが、ちょっと面白いと思いました。彼女は『セックスの解体新書より』という本の中で、1799年ナポレオン時代、森の中で裸同然で発見された男の子の話を取り上げています。発見されたときは推定年齢13歳ということですが、ほとんど人間らしい性格を持ちあわせていない、嗅覚はちょっと発達しているけれど、いわゆる人間として発達していないんですね。それで、社会から切り離されたセクシュアリティというものはないのではないかというのが彼女の主張です。この男の子は、思春期で、もやもやを発散するとか、そういうこともしない。こういう野生児で発見されたのは、30件ぐらいあるそうですが、女の子は少ないらしいです。これは、女の子の方が早く死んでしまうのでそうらしいです。人間は、環境とか社会のなかで、男としてあるいは女として成長していくのだということを、私なんかは、よく講義で言うのですが、この本は自然科学者からみてどうですか?」
宇野「小倉さんの本は10年か前には良く売れた本ですね。先ほどもいったように、結局ウエイトの問題だと思うんです。最終的には遺伝子とかホルモンとか、胎児の環境とか、生れた後の環境とか、教育とか、いろいろなもののインテグラルで決まるのだということです。基本的には、ウエイトが違っているだけなのかもしれません。大人の性が決まるまでにはいろいろあります。最近の研究の成果としては、やはりホルモンのウエイトが大きいということがわかってきたんじゃないでしょうか。環境ホルモンの影響も最近問題が大きくなってきていますからね。」
竹内「性のことを社会化の延長としてあげていいのかどうかというのは私は疑問だと思います。発達を遂げたというのは、ある種のブラックボックスですから、何でもかんでもそこに押し付けるのはどうかと思います。」
 
[性愛と性差]
 
「以前、神戸大学で「女性とは何か」をテキストにして、同僚の女性教員たちと勉強して、その後で総合科目を始めたという経験があり、それでこの『性差の科学』については、おおいに興味を持って読ませてもらいました。そんなに深く読めたわけではありませんが、専門外からの感想で少しは参考になるとも思うことを、ちょっと述べてみたいと思います。『女性とは何か』の本で衝撃的に出されたテーゼ、問題意識のかなめであるのですが、たとえば『性差はある』ということを承認するか、しないかという問題ですね。それが今の日本全体でどの程度の認識になっているか、私もよく知らなかったのですが、そういう議論がいろんなところで存在していることを揚げられて、どても面白かったですね。それらをよく勉強して、精緻な討論を重ねてられるのにも感心しました。ただ、私は、文学、人文系分野の間なので、先ほどおっしゃった生殖という問題と、人の心の深層にかかわる愛とか恋とかが、生物としての性とどう関わるかという話が出てこないのが、どうももどかしいのです。この本の制約上やむを得ないのでしょうが・・・。」
坂東「すみません。それはあんまり取り上げてないんです。」
「それで、今後に期待することとしては、人の性差と性愛の関係について、もっと関わらせて論じて欲しいということです。私など、子供の時から女は本質的に劣性の存在だと聞かされつづけてきて、それを以下にひっくり返せるかということばかり考えてきましたから、この本で、性差についてはまだまだ分からない事も含めて、いろんなデータや考え方が出されているのはすごくありがたいことでした。だた、性と性愛の関係が、性差有無の証明とどういう意味づけで説明できるか。じつはそこが知りたいわけです。他の動物は、繁殖期しか交尾しないとされますね。その行為は本能としては説明されているけれど、ではそれが彼らにとっては楽しいのかうれしいのか、そこのところは誰もわからないでしょう?彼らは何も説明してくれないのですから。ところが、間は限定期なく性行為を追求するところがあるし、繁殖と必ずしもつながらない。それが何時そうなったかという問題もあるでしょうが。だから、人間の制というのは、単に自己遺伝子の優位伝承と本能として求めるとか、主の繁殖保存のためとかいった側面だけでは説明できないわけで、それで、単に、繁殖という面だけでは意味づけられないからか、たとえば快楽としての性とか、排泄としての性ということがいわれますよね。中国なんかは養生として捉えるのです、古典的なものですね、養生なんですよ。それはしかも男の側の養生ということになります(笑)。」
坂東「養生って、どういう意味ですか。」
「養命酒の養。身体が生まれてから老化に至るまでの生命体をいかに活性的にもちこたえて、長寿を保てるかというところに性存在の意義付けをみる、この観点が中国の古典的な性医学、性の教科書にあるのですね。だけど、現実の文学、たとえば『金瓶梅』のような小説では、びっくりするような、はちゃめちゃな愛欲のすがたが、これでもか、これでもかと出てくるわけで、そうしたことをどう考えたらいいのか、とても困惑してしまうのです。そういう脈絡でいうと、種族や集団や国家、社会、家族、個人において、もちろん男女の違いにおいてもですが、生殖と性愛との関係は、本来どういうものなのかを知りたいと思うわけです。それに、男の人は男の側の性愛というのをわりに書くのですが、女性は人としての女の性愛をどういう風にとらえて書いているか、私はあまり見たことがないんですね。」
赤松「アメリカの文学だったら女性の側から見たのがありますね。」
「アメリカでもせいぜい最近のことではないでしょうか。それからもう一つ、我々が知っている歴史記述にしても、記録として征服した勢力のなかで作られた一方的な歴史でしかない。以前、総合科目をやっていたときに、ギリシャ科学史の先生から聞いたのですが、ギリシャが確立したとき、それ以前のものを全部抹殺した、それですべてがものすごく変わったはずだとおっしゃるのですね。だから、ギリシャ以前のことは、たとえば、女性の性はどんな位置を占めていたのか、それがどんなに大きく変わったのかは、もはや分からないと言うわけです。それらは、今のところ調べようがないとしても、では、記録とか遺物なんかが存在している場合でも、問題は大きいわけで、今に至るまでのほとんどが、男性だし、記録の観点も方法も、中国の養生に見られるように男性の立場からのがほとんどなのです。だから、男の側からの記録しかないということと、現実に生きていた女たちと男たちの実際をどうとらえるかということとの間には、分からないことがものすごくある上に、事柄の顛末そのものにも、性差だけではなく、かかわる男女れぞれの個体差だって影響するでしょうから、解析は難しいことだらけだと思います。ついでにいうと、性のアイデンティティの問題ですね。たとえば同性愛者ですね、ホモセクシュアルの男性同士とか、レズビアンの女性同士とか、有森裕子さんの夫のような両性愛?者のことをどう考えるかということがあります。性と性関係とは、人間にとって、一体どういう意味を持つ何なのかということを問題提起しておきたいと思うのです。それを問題にするのは、性と性行為にかかわる問題となると、混沌未文明な社会的「常識」が根強くあって、それが少しも変わっていない、だから、売、買春に関する議論は特に旧態依然だといえるのです。いわゆる従軍慰安婦問題を問われたとき、日本人(男性)のかなりの部分が、それを引きづっているのがわかります。昨年、アジア女性史国際シンポジウムで議論されたテーマをあげますと、タイでは売春業が多く、しかも少女売春が盛んだということ、男がそれに依存して暮らすケースが少なくないということが報告されました。すると、女性史研究者の数人が、『売春も職業の一つである。男の暴力から自由である為の武器として、生活する技術なのだ。』と主張し、議論の緊張する場面がありました。結局、平行線で終わりましたが、性行為の意味と位置づけについては、二一世紀の今ですら、古来よりなんの進歩もないといえるのではないでしょうか。一方、一般的に売春ツアーに行くのは男たちときまっていたのですが、この頃は、女もそういうケースが増えていると聞きます。例えば、ハワイの空港に降りた日本の女をめがけて、ハワイの男たちがよってきて、遊ばないかと誘う。若い日本の女性が、買春、売るんじゃなくて買う、男を買う。そういう状況が珍しくないとなると、男女お互いさまだとはいうものの、売買する性って、人にとって何なのだろうと。そういうこともよく考えておかなければ、という風に思うのです。」
坂東「そういう問題が中心課題やっていうのは、西川さんと筧さん、ならびに池内さん、もちろん宇野さんも一致しているわけですね。私たちの興味の焦点がちょっと違うようですね。もし中心課題っていう風に思っておられるなら・・・。」
西川「中心課題という風に言っていいかどうかはわかりませんが。」
坂東「違うかもしれない?」
西川「確かに、性愛に対する興味が異常に凝縮されているというのは、逆に近・現代現象なんですよ。近代においては、性愛やSEXが描かれていない説はないくらいなわけでしょ。それはそれで一つの偏り現象なんですね。でも、それの裏返しが、それを忌避するていう事なのでは、どちらも自然じゃないんじゃない?私らの場合、そこと連動しなければ、生産的でないというか、我々にとって自分の議論にならないという所があるんですね。」
坂東「なるほど。」
宇野「最後に1つだけ、性としては快楽としての性、コミュニケーションとしての性、生殖としての性という3つがあるというのが、私たちの学会の常識なのですが、筧さんの話には、コミュニケーションという面も重要ではないかなと思います。」
「そうですね。何かもう一つあったなあと思っていたんですが(笑)。」
 
[残った問題]
 
B(?)「二つばかり質問があります。一つは、教育の在り方に関わって問題になるのかどうか、よくわかりませんが、性差の問題を明らかにすると、女性に対する教育はこういう形とかいった、教育の方法論につながるのでしょうか。もう一つは、この本は、総合科目の成果として作られたというのは意味があるのではないでしょうか。そこで、お聞きしたいのですが、学生の反応はどうだったのでしょうか。それと、人文学的観点からの性差ことは何も述べられていないのですがちょっと片手落ちのような気がしますが。」
坂東「総合科目としては、前半と後半にわけて、前半は生物学的性差に重点、後半は、社会的な面、ジェンダー面、文学や法制度との関連で、国際比較などを含めて性差を取り上げました。でも、後半のほうは、よくとりあげられているテーマなので、この本は前半に絞ったんです。」
B(?)「ああ、わかりました。それで、学生の反応はどうだったのでしょうか?」
坂東「一番印象的なのは、個性を大切にすることを学んだという感想でした。もう一つ面白かったのは、1部と2部の受講生で、意見分布に差があったという事でした。2部は社会人が多いのですが、『男と女が違うと思う人』といって、分布をとったら、面白い事に2部のほうが圧倒的に違うと思う人が多かったのです。社会にでると、男女の違いを痛感させられるのでしょうかね。」
功刀「教育の方法論についての**さんの質問ですが、男女の教育方法につながるかどうかというより、つなげるかどうかではないかと思います。もし、男女で同じ到達レベルに持っていくのが必要だとしたら、やはり、個性に対応した教育方法が求められるべきでしょうね。でも、本当に同じ到達レベルに持っていく事が目標なのかは問題でしょうね。それから、ついでですが、個性に関連して、ねずみの実験が何度も取り上げられましたが、たかがねずみ、されどねずみなんですね。で、ちょっと、先ほどの池内先生のご紹介にあった田中さんの本ですが、その本で柔らかいえさを与えたら、脳の発達が早まったという話でしたね。ところが、私の関係している老人性痴呆症の事例の場合には、まったく反対の結論になるんです。ラットの歯をとって、もちろん柔らかいものを与えてやると、あごを常に動かして硬いものを食べているラットより、やわらかいものを食べていたラットのほうが、ボケが早く始まるのです、それで、近頃では老人ホームで歯の治療をしたら、ボケ症状が直ったという例があります。もっとも、咀嚼問題も、オスだけでやっているかもしれないですね。やはりねずみさんでもいろいろ個性があるんですね。科学といったときに、動物実験をやったというだけで、それが生物学的に意味があるんだとは、いえないのです。空間認知でも、性差があるということになっていますが、実際に確かめられているのは、心的回転問題といって、ブロックを想像し、それを回転させたとき、どのような形に見えるか、という問題だけです。」
西川「今日つくづく自然科学と社会・人文科学のあいだの異文化理解というのがなかなか難しいと思いました。でも交流を続けたいです。」
 
[まとめ]
 
坂東「残念ながら時間になってしまいました。それでは、赤松先生に最後にまとめをお願いします。」
赤松「最後のまとめを私にしろというのが坂東さんのたくらみですが、こんな難しい話とてもまとめられないと私ははじめから聞きながら思っていたのです。でもそういってしまっても無責任だから、何か一言。まず、科学的だとか客観的だとか言う言葉をイージイに使ってはいけないということですね。大海のなかで何かを釣り上げてそれだけで断定するというのは、常にその危険性がある事ですが、特にこのようなテーマの場合は、その危険性が大きいので、必ず歯止めを持ってやらねばならないでしょう。もちろん、これはどんな学問でもそうだけれど、こういう問題は余計そうなんだと思いますね。でも、つい最近までは、男性の視点からばかりからいわれてきたということも事実なので、私たちもわかっている事はわかっている事として、男性の側からだけでなく、私たち自身の目で見て認識しないといけませんね。先ほどの筧さんがいわれた「養生」という解釈なんかも、セックスってなるほど養生なのかと思ったのですが、これはまあ、男性的な見方なのかな?これはあとで筧先生といっぱい飲んで議論するのも楽しそうだなと思ったんですが。そういう考え方のアンチテーゼとしてこの本があるんですが、なかなかその意図は伝わっていないようですね。けっこう、布石は打ってあるのだけれど、それでもフェミニズムのごリごりの人から見れば、そんな事を言うのは危険だと思われるかもしれないと思います。結局、科学の名において簡単に結論を出すなというのはよく心得ておかねばならないと思います。それから、生殖についてはほとんど触れられていないという指摘は、そうかなと思います。しかし、はじめにもいいましたように、この本は完結しているものではなく、これから出発して、みんなで深めていこうというものですから、今後の課題としておきましょう。私たちは、たくさんのものをE.シュルロの「女性とは何か」から学んだのですが、私たちの本はそれを更に発展させていくことが目的であり、それこそ私たちの願いであるわけです。」
坂東「ありがとうございました。今日は活発な意見が沢山出て、有意義でした。この討論会は、これで終わるのではなくて来年には、もっと大きな会をやりたいなと思っております。その時にはまたお知恵を貸して下さい。これを契機にこれからもっと深い認識につながる議論をお願いします。また、男性の方もきていただきありがとうございました。準備していただいた、女性研究者の会の皆様にもお礼申し上げます。」
 
おわり

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