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3月1日「性差の科学」討論会記録2、資料

(2)動物実験に対するコメント   功刀由紀子
ネズミからヒトへ---たかがネズミ、されどネズミ---

 生命科学や医学分野における昨今の急速かつ輝かしい進歩を陰で支えるネズミさん達には、その功績にもかかわらず「実験動物」という無機的な名称が与えられているのみである。

 科学的事実とは、同質の材料と同じ方法を用いれば、同様の結果が得られる、つまり追試可能な事象であることが第一の条件である。このため実験動物には、大量飼育が可能で安価といった経済的条件も必要ではあるが、さらに重要な条件として、時空間を隔てた個体間での均質性が挙げられる。このため、近親交配を繰りかえし、DNA遺伝型ができるだけ均質な集団を作り出すこと、さらに寄生虫や細菌、ウィルスなどからの感染を防止する飼育管理体制の容易さ等を考慮すると、小動物のうちでも特にネズミが実験動物として最適ということにる。また、個体でのホルモンバランス等の生理的均質性を考慮すると、性周期の存在しない雄が雌よりも使いやすく、実際、実験動物としてはネズミの雄が広範に利用されている。勿論、個体の行動を観察対象とするような実験では、雄雌区別して使用するが、DNAや酵素の抽出といった物質レベルでの実験では、雄のみを使用すると言っても過言ではない。

 ところが、実験動物の雄と雌で異なるデータが得られた経験を、少なからぬ研究者が持っているようである。しかし大抵の場合はそのまま放置されるか、あるいは周囲に提示しても「それがどうした!」との反応を返され、この場合もこれで終わってしまうのである。多細胞生物では、細胞内の物質レベルでの出来事に性差を見い出すことはおそらく困難であろうが、細胞や物質が有機的に構築された生体内での出来事には、性差の存在が予想される。今までの固定した視野は、面白い発見をさぞかし取りこぼしてきたのであろう。


 実験動物でさらに問題となるのは、ネズミの雄での実験事実がどこまでヒトに投射できるか、という疑問である。

 この点に関し、医薬品開発で重要な働きをしている「病態モデルネズミ」の存在が一つの指標を示しているであろう。新薬の効き目を評価するためには、患者の存在が必須であるが、いきなり人間で試すわけにはいかないので、病気を持った動物、「病態モデル動物」の存在が必要となる。モデル動物としては霊長類が最適であるが、上記の理由によりここでもネズミ達が活躍している。遺伝的に高血圧である高血圧ネズミや、免疫系に異常を持つヌードマウス(全身を覆う毛が全くないのでこのように呼ばれている)は、各々の疾病の新薬開発や病理研究に多いに役だっている。

 また、本来水の嫌いなネズミを長時間水中で拘束しておくと、ストレスに起因すると思われる十二指腸潰瘍が発生するデータもある。ストレスの要因は人間とは異なるが、結果としての身体組織損傷である十二指腸潰瘍、ひいては胃潰瘍の病態モデルとして利用されている。つまり病態モデルネズミの開発は、新薬開発や病理研究の第一段階として重要であり、現在有効な新薬の開発が遅れている疾病については、病態モデルネズミの開発が急がれている。

 しかしながら加熱ぎみの開発競争は、こんな事態も引き起こしている。HIVウィルスの発見者論争で物議をかもしたギャロ博士らは、HIVウィルスの一部遺伝子を持った遺伝子組み換えマウスの作成に成功したが、当然の如く倫理的懸念が寄せられ、実験は即座に中止させられている。また、現在世界中の研究者がやっきとなっている痴呆症のモデルネズミ開発では、ヒトの脳神経細胞をマウスと偽ったデータ詐称論文が、一流科学雑誌に掲載された事件は記憶に新しい。

 痴呆ネズミの開発競争は現在も続行中だが、痴呆症研究で有名な先生が、「もともとアホなネズミを、さらにアホにするなんて。」と言っておられた。ネズミ達の反論をぜひとも聞いてみたいものだ。



(3)「性差の科学」研究会での討論を終えて
司会担当  坂東昌子
1)「性差の科学」で触れていない重要課題

 西川さんや筧さん、そして宇野さんの3人がそろって指摘されたのは、産む性としての女性という視点であった。

 肉体的性差は、ある意味でははっきりしている。さらに脳を中心としたメンタルな性差があるのかどうか、われわれの性差に対する興味はむしろこの点に集中していた。しかし、もっと原点に戻って生殖機能の性差から始めるべきであった事は確かであった。現在、生殖技術が日進月歩で、産む性としての女性を定義づける意味が問われている段階である。この意味から、今回のこの本では生殖という面からの検討が完全に抜けていた。西川さんの指摘にもあったが、これこそジェンダー論に次のパラダイムシフトをもたらす側面であり、今後の課題としてわれわれも踏み込む必要がある事を痛感した。

2)シュルロ・モノーのシンポジウム以後の発展

 西川さんから、「私が『女性とは何か』を手がけたときから、どれくらい決定的な進展があったのでしょうか」という質問があった。それに対してもっとも顕著にいえる事は、『男と女の境界線は相対的である』という言い方よりも、はるかに進んだ段階の認識に立てるだけの材料はそろってきたといえるのではないだろうか。例えば、この討論会で問題になったマネーの性転換の話は、その後どうやら結論は、遺伝子できまる性差の方がより重要であったという結果になったようである。ジェンダー論との接点として、「境界線はあいまいなもの」というよりは、むしろ遺伝子の重要性が強調されたと言えるかもしれない。もちろん、一例でもって、遺伝子より環境の影響が大きいのだと決め付けるような軽はずみな結論にもいくべきではない。

 ただ宇野さんの話は、先端で今分かっていることを明らかにしてくれた。平均値と分散という話は、まだ全体の議論として共通の了解が得られていないようであった。性差にもさまざまな段階があるのだから、平均と分散の意味をふまえて論じる必要があろう。そういう精密科学的な議論ができる段階に今我々はいるのだという事なのである。先進国の思春期は25年に1年下がったといわれたが、女性のライフスタイルもこれに応じて変わるのは当然である。

 また先にのべた生殖テクノロジーの発展は、性差の定義を変えるかもしれない。細部の精密化とともに大きな変化が起こる可能性に注目していく必要があるだろう。

 25年の決定的な変化を知りたいという西川さんの質問に答えるには、「性の区別は相対的ではあるが、胎児の段階で越えられない境界線があり、かなりの性の決定が為されている事がわかってきた。」ということであろう。

3)「性差の科学というのはきわめてきわどいテーマである」

 池内さんからのコメントで、性差の科学というのはきわめてきわどいテーマである、というコメントに一言答えておきたい。

 確かに、地震の科学も性差の科学も、私の専門分野である物理の話に比べて、いろいろな段階でいろいろな影響があり、その結果としてある現象が起こるという意味では単純ではない。物理ではすぐに(といってももちろん、観測技術や測定技術が発展したあかつきに、という限定付きではあるが)追試でき、いくつかの複数の原因を排除してたった一つの原因を突き止めたとき、初めて法則として確立する。仮説の段階と、真実を突き止めたという段階とはきわめて厳密に区別されている。それが、科学ではもっとも重要な点である。こういう段階に達して初めて、科学の対象としてのテーマが成り立ちうるのである。しかしそれでは、例えば地震は科学の対象にはなり得ないかというとそれにはやはり、「なりうる」と答えるであろう。それは、池内さんもそう考えておられると思う。私は、複雑性の科学という言い方は好きではない。それは「複雑でわからない」対象に挑戦するという意図も感じられるが、逆に「わからないこと」を強調す言葉でもある。

 私たちが明らかにしてきた宇宙や素粒子も、かつては複雑な対象であった。それをできるだけかみ砕いて、対象を出来るだけ簡単な問題に還元し、そして自然の法則を明らかにする方法論を確立してきたはずである。生物学もかつてはもっと複雑であった。それをここまで人間の力で解き明かしてきたのではなかろうか。もちろんそれは、自然現象のほんの一部にしかすぎない。そして、もちろん、今対象にしている性差の問題は、まだ複雑系の域にも達していないかもしれない。

 ただ、私たちは「わかっている事」と「まだ未解明のこと」は明らかに違う事を知っている。それは、ある人が見たら真実でも、他の人が見たら真実でない、あるいは言葉とか表現によって、真理であったり真理でなかったりする、という不可知論とは違う。池内さんがそこをわかった上で、きわどいとか相対的だとか表現されていたのだと思う。しかし、社会科学や人文科学のような分野、より複雑な対象を研究している人々にわかってほしい事は、真理は相対的ではないのだという事ではなかろうか。むしろ、どこまでが真理となったか、それを科学は見つめてきた筈である。

 地震の科学も、「予知できない」というとき、それは何もわかっていない事とは違う。予知可能か不可能か、といった二者択一の答えを要求すること自体おかしいのである。天気予報だって昔は当たらなかった。そして、対象の情報とそこの法則がある程度明らかになって、今や100年先の地球の気温まで議論できる段階になったのではないか。どこまで明らかに出来たかという議論が出来てこそ、科学が科学として成り立つ基盤ではないだろうか。

4)自然科学と社会科学との相違と同質点

 自然科学は、比較的簡単な対象から出発して現象の本質的理解を進めてきた。そして今や宇宙の始まりから生命の起源まで、ある程度の法則をつかむ事に成功した。この限りにおいては、そこで明らかにされた法則や確認された事実は、「客観的」といって間違いないということを確認して、次の課題に挑戦してきたはずである。つまり、イデオロギーや立場によって事実や法則が変わるものではないのだという「客観性」が存在するのである。この共通認識がないはずはない。それに対して「あらゆる法則や知識はすべて相対的である」という形で議論を始められると、いったい我々が積み上げてきた科学活動とは何だったのかあいまいになってしまう。逆に言うと、それをはっきりさせなかったら、議論したり論理をつめたり、実験や観測したりすることによって確かめたりすることはできないではないか。社会科学や人文科学がより複雑な対象を研究している分野である事は間違いないが、それでも自然科学がここまで追いつめてきた経験も認識してほしい。もちろん、だからといって今すぐ複雑な対象に迫る可能性が一挙に拡大するわけではないが、考え方、方法論には学ぶべきことがあるはずである。

 こうして初めて、真実とまがい物を見分ける目を持つ事が出来るのではないだろうか。たとえば、当日、生命倫理を中心とする哲学サイドからの「優生学」の話があったが、これはどう考えてもそれまでの人間の到達した真理の認識を越えて、政治的な判断を優先させて科学を歪めて普及した典型例であった。

 ダーウィンの進化論の確認は、当時の科学でもってしては不可能であり、仮説の域をでなかった事は明らかである。そのダーウィンが最初に「優生学」の可能性に触れた事も事実である。ところが、この進化論という仮説を、政治的に利用しようとした、あるいは善意であっても断定的に解釈し、断種法や優生保護法に適用するばかりか、ナチスに見られるような行為にまで行き着くよりどころを与えたことは、人類にとって余りにも犠牲の多かった非人道的な科学の悪用であったといわざるを得ない。私はこれを、単に「人道的な」倫理という立場からのみならず、むしろ、自然の法則にそむくという立場からも、もっとつめられるべき問題だと思っている。

5)教育との接点

 愛知教育大学竹内さんから教育の問題が提起された。この点について、ともかく問題の所在が有りそうな事、そしてそうなら、今後の教育方法論の1つの柱になるべき問題が含まれているかもしれないと考える。功刀氏がそれについてコメントされたが、これからの推移を見守りたいと考える。

6)DNA決定論と優生学

 1956年、ワトソンとクリックによってDNAが発見されたことは、その後の生物学に画期的なパラダイムシフトを生じた。「生まれつきか、環境か」という論争は生物学の懸案の課題であり、時にはルイセンコ・ミチュウリンの論争に見られるように、政治的な背景を伴って論じられてきた。これに決定的な一打を打ち込んだのがDNAの発見であった。環境と性差との関連で言えば、環境ホルモンの影響は性差の基本的なところで問題を投げかけている。男とは何か、女とは何か、それは単に外性器の問題ではなく、成長に伴って起こる性差のあらゆる段階を区別したときの厳密性自身が問題となってくる。

 ところで、今回、優生学の話がでてきた。性差を含めて遺伝子がすべてをきめるという説のキャンペーンは、むしろ科学の普及というより政治的に利用された。板井氏の話はその関連を提起してくれた。DNA決定論に対しては本の中でも述べているのだが、自然科学の成果の普及や社会的な影響についての歴史的な教訓を与えてくれている。「遺伝子がすべてを決める」という考え方が世を風靡したのは、DNAも発見されず、遺伝子の何かも人類が知り得ていなかった頃である。1902年、国際優生学会が発足したのだが、この時は、時の政府も出席したらしい。普通、新しい学問に関する学会が発足するとしても、そんな政治家が出てくるだろうか。この影響はスウェーデンやイギリスをはじめとする断種法の成立や、はてはナチスのユダヤ人や精神障害者の虐殺にまでつながる人類の悲しい歴史を作ってしまったともいえる。ところで、では、何が間違いだったのか。それは、「浅はかな知恵」で人間が人間の優劣を一方的に断定的に社会に適用することへの警告なのである。

 とはいえ、それを単に人道的な立場だけでヒステリックに反対するのだけでは十分ではない。もう少し自然科学の成果を踏まえ、その本質に根さして論理を展開すべきである。人間の知恵の浅はかさをいかに回避すべきであるかもまた、優生学の歴史から教訓として学ぶべきであると思っている。この討論会の最後のほうで、池上さんやや宇野さん、功刀さんなどからも議論がなされたように、性差という側面も含めて、遺伝子ですべてが決まるかという問題と、さらに、人間が現在の少ない知識の中で、そう簡単に人間の優劣をきめたり、ある種の遺伝病を撲滅するというような決定をなしうるか、という問題に行き着く。こうした問題を、「すべて相対的だ」といった大雑把な論理で対抗するのは、敗北を意味する。やはり事実は事実としてしっかり受け止めるときに、はじめて相手の論理の弱さをも見抜けるのではないだろうか。科学は、「こうありたい」目的に向かって武器を与えるのであって、それ以上でもそれ以下でもない。この出発点を共有してこそ、今後の議論が実りあるものになるではないだろうか。


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