トップへ「今までの活動」トップへ



第2回性差の科学研究会 (文責 功刀)

1.日時1997年11月29日(土)午後4時開始
2.場所愛知大学車道校舎 3号館 第3会議室
3.講師林 基治先生(京都大学霊長類研究所生理部門教授)
4.演題「サルの脳における老化とホルモン」


講 演 要 約
 年をとるにつれヒトにはいろいろな身体的、精神的変化が起こってくる。例えば歩幅は狭くなり歩く速度も遅くなる。手足の震え、視力の低下等が起こり、物忘れがひどくなったりする。会話も少なくなり、顔の表情も変化が乏しくなる。このような変化と脳の老化とはどのような関連があるのであろうか。  神経細胞はさまざまな生理活性物質を産成し、それらを使用して互いに情報伝達を行っている。従って老化に伴う身体的変化と生理活性物質の量的変化とは密接に関係していると思われる。  本研究会の講師は、種々の脳内生理活性物質の個体発達に伴う変遷について研究しているが、最近、マカカ属サルの脳内において老化に伴い著しい量的減少を示す生理活性物質を見い出した。これらの量的減少は、サルの脳での老化現象の原因なのか、あるいは結果なのかは、これからの研究課題である。

講 演 内 容
1.はじめに

 サルやヒトなど霊長類の脳を他の動物の脳と比べると、大脳皮質、なかでも特に前頭連合野、側頭連合野、頭頂連合野など連合野の発達が著しい。連合野では皮質ー皮質間の線維連絡が多いが、この皮質ー皮質間の情報連絡のやりとりは記憶や学習といった高次脳機能にとり重要である。
 また霊長類では、ヒトで約90年、チンパンジーで50年、ニホンザルやアカゲザルといったマカカ属サルでは30年といった比較的長い寿命をもっている。従来脳の重さと寿命には強い相関性があることが知られているが、最近になって種々の霊長類においても脳重量と寿命の間には比例関係があることが明らかにされた。霊長類の高度に発達した脳はさまざまな環境変化に対する柔軟な対応を可能にし、生存期間の延長に貢献したと考えられる。
 従来演者らはマカカ属サルの中枢神経系の発生発達および加齢に伴う種々の神経活性物質の変遷過程に関する研究を推進してきた。今回はサルの脳における老化と神経活性物質についての最近の研究を中心に講演する。

2.霊長類の脳の発生、発達、老化の特徴

 近年になって霊長類脳の発生発達および老化過程の詳細が解明されてきた。特にマカカ属サルの大脳皮質についてよく調べられている。マカカ属サルの胎生期間は165日であるが、大脳皮質の神経細胞は胎生40日から胎生100日までの約2ヵ月をかけて発生、増殖する。また神経線維の発達は脳梁部で明らかにされている。線維は胎生65日頃から観察され、胎生165日に線維数は最大となり、その後生後3ヵ月までに線維数は約1/4にまで減少する。一方シナプス数は、生後2ヵ月から4ヵ月に最大となり、その後は生後3年までに約半数となる。
 ところで加齢に伴う中枢神経系の変遷過程に関しては、霊長類ではデータが少ないため、解釈には注意が必要である。例えば大脳皮質の神経細胞数は、加齢に伴い減少することを多くのデータは示しているが、変化しないという報告も出されている。一方シナプス数や各種神経伝達物質やそれらの受容体は、減少するという報告もある。

3.老人斑

 脳が老化すると老人斑が大脳皮質に観察されるようになることが知られている。特にヒトでは、正常脳やアルツハイマー病の脳内に多数観察される。興味深いことに、老人斑は老化した哺乳類の脳では限られた種にしか観察されず、老齢の犬、クマ、リスザル、マカカ属サルとオランウータンで報告されている。最近になって原猿類のネズミキツネザルの脳に老人斑の存在が報告された。このサルは50ー100g位の小型のサルで、寿命は8ー10年であることからアルツハイマー病のモデル動物として注目されてきている。  また最近、老齢のニホンザルの大脳皮質においても老人斑が観察されている。老人斑にはβーアミロイドタンパクの蓄積が認められた。今後は、老齢のサルを用いて、脳の正常老化過程におけるβーアミロイドタンパクの形成過程を知ることが、アルツハイマー病の発病原因追及に必要と考える。

4.神経ペプチド

 哺乳類の大脳皮質には約50種近くの神経ペプチドの存在が報告されている。演者らはマカカ属サルの大脳皮質における神経ペプチドの個体発生に興味を持って研究してきた。調べたペプチドは物質、ソマトスタチン、VIP,CCKである。これらのペプチドの中で大脳皮質で最も多く存在するのはソマトスタチンであった。また、このペプチドが成熟期のマカカ属サル大脳皮質連合野に多量に含有されていることを見い出した。本ペプチドはアルツハイマー病患者の大脳皮質で顕著に減少していることが知られており、ソマトスタチンが高次脳機能に関与することが示唆される。
 さらに興味深いことは、ソマトスタチン量やそれを含む細胞数が、胎生期に一過性に増加することも観察された。遺伝子発現を調べたところ、ソマトスタチン量とソマトスタチン細胞数の多い時期に、遺伝子発現も一致して高まっていた。ソマトスタチンの遺伝子発現とその量が増加している時期は、大脳皮質の神経線維数が一過性に増加する時期と一致しており、ソマトスタチンの霊長類大脳皮質の線維伸長や回路網形成への関与が考えられる。
 さらに、霊長類の脳老化とソマトスタチンの関連性について調べたところ、老齢のニホンザルの大脳皮質において変性したソマトスタチン含有細胞を多数観察した。前述のようにソマトスタチンは発達期では神経線維伸長や回路網形成への関与が考えられるので、ソマトスタチン含有細胞の変性は大脳皮質内の神経細胞の老化過程とも関連あることが予想される。

5.GABA

 γーアミノ酪酸(GABA)は、大脳皮質や小脳などの中枢神経系における最も重要な抑制性の神経伝達物質の一つである。マカカ属サルの大脳皮質領野では約25%の細胞はGABAを含有していることが報告されている。演者らもGABA含有細胞のマーカー酵素であるグルタミン酸脱炭酸酵素(GAD)を大脳皮質で測定したところ、各領野でほぼ均一に分布していること、また活性は発達にともなって各領域でほぼ一様に増加することを明らかにした。
 一方、GABAは小脳のプルキンエ細胞における神経伝達物質でもある。小脳の発達に伴うGAD活性の変遷を調べると、大脳皮質同様、成熟期まで順次増加した。ところが、老齢期ではほとんど認められず、脳の老化に伴ってGABAの発現が顕著に減少することが示唆された。

6.神経栄養因子

 神経細胞は胎生期に分裂と増殖の殆どを完了し、生後は分裂能をもたない極めて分化した細胞である。分裂能を失った神経細胞はどのようにして、ヒトで約90年、マカカ属サルで30年あまりも生存が可能であろうか。その分子メカニズムは従来ゲッ歯類を用いて研究されてきたが、神経栄養因子の発見はその重要な成果の一つであろう。つまり神経細胞は、神経栄養因子を取り込むことによってその生存が維持される。ところがこれらの因子は、胎生期の脳内ではきわめて微量しか分泌されていないので、それを取り込むために細胞間で競争が起こる。事実、作られた神経細胞の約50%が消失する現象が明らかにされてきた。この現象は「自然細胞死(アポトーシス)」と呼ばれており、神経系が作られるための重要な一過程と考えられるようになってきた。
 これらの因子のなかで、もっとも良く研究されてきたのは神経成長因子(NGF)であるが、1983年にBDNF(brain derived nerve growth factor)がブタの脳から抽出純化され、その後NT−3、NT−4、NT−5といった神経栄養因子類が次々と発見された。これらは互いに良く似たタンパク質であるが、演者らは特にBDNFに注目している。その理由は、BDNFが脳内で最も多く存在している栄養因子の一つであり、かつさまざまな神経細胞の生存因子であることが明らかにされてきたからである。
 BDNFのmRNAは、成熟後のマカカ属サルの大脳皮質や海馬で発現しており、特に海馬での発現量が多く、BDNFは記憶に何らかの役割をはたしていることが予想される。
 一方、老齢のマカカ属サルの大脳皮質ではBDNFmRNAの発現量は顕著に減少していた。最近アルツハイマー病患者の海馬でBDNFmRNAの発現が減少していることが報告されている。本因子と脳の老化との関わりは注目に値する。

7.おわりに

 サルの脳老化過程はヒトの脳老化過程のモデルとなるため、極めて重要である。霊長類脳の老化過程における神経活性物質に関する研究は、今後一層の発展が望まれる。

本 講 演 の 論 点
(1)脳の老化のメカニズム---脳の老化を制御する物質は存在するのか?

ヒトを含む哺乳動物では、「老い」と共に所謂老化現象と呼ばれる、身体的、精神的な衰えをみせる。この原因は、脳における中枢神経系の衰え、つまり「脳の老化」であり、具体的には神経細胞の変性および消失であることは、現在までに明らかにされている。
では、神経細胞の変性および消失の原因は何か。
神経細胞は、神経栄養因子と呼ばれている種々のタンパク質を、他の細胞から吸収することによりその生存と機能を維持している。このため、神経栄養因子の供給がとだえると、神経細胞は変性、消失する。つまり、脳の老化の直接的原因は、神経栄養因子の産成が減少することにある。

(2)では、神経栄養因子の産成が減少する理由は?

神経栄養因子は脳内に存在するグリア細胞と呼ばれる細胞で産成されている。グリア細胞は外部刺激を受けることにより神経栄養因子を産成することが報告されている。そこで林らの推測としては、老化に伴い視覚、聴覚等の外部刺激の受容が少なくなると、脳内における神経栄養因子の産成が減少する可能性は充分考えられる、としている。

トップへ「今までの活動」トップへ