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「労働の科学」53巻1号に掲載 1998年
 大竹美登利

 近年、女性問題に関する書は数多く出版されている。その論点の中心は性差であるが、多くは社会科学や人文科学によるジェンダー差(社会的文化性差)が論じられて、自然科学の分野から、女性論視点で性差を論じた書である。

 なぜ、自然科学領域から女性論視点で性差を論じた書はなかったのか?本書にも述べられているように、自然科学の研究者にこうした余裕や視野の広さが欠けがちであったこと、および自然科学の領域での性差の研究(「性差の科学」)は、今まで女性を差別し社会的進出を抑制する根拠とされてきたからであろう。「性差の科学」を正面から取り上げることは、進歩的な人たちの批判を覚悟せざるを得ないが、それにあえて本書が取り組んだのは、「女性解放や差別の撤廃に有利であろうと不利であろうと……現実を直視することから出発することこそ、真の解放への道を見いだす唯一の方法である」と考えたからである。

 出版の経緯に述べているように、本書は愛知大学の総合科目として1995年度に自然科学からみた性差を中心に行った講義の記録(第2部)と、1992年日中女性研究者シンポジウムを機に出会った研究者同士の3年にわたる議論の積み重ねを討論形式にまとめたもの(第1部)である。

 自然科学による実験や検証は厳密な仮定や限定のもとで行われるが、その結果が一般社会に伝えられるときは、かなり簡略化されたり歪められたりし、政治的に利用されたりする。わたくしたちも研究成果の一面を捉えて自分なりに解釈し、間違った思い込みをしてしまう。第1部の討論ではこうした誤りをしないためのデータの読み方を提供してくれており、女性論として「性差の科学」を論ずる要となっている。

 ここでは平均的性差とばらつき(個性は性差を超えるか)、人は一夫一妻制か、攻撃性に性差はあるか、脳の重さに性差はあるか、男は女より天才が多いか、言語能力は女が優れているか、男はハイリスク・ハイリターンに賭けるかなど、興味深い論点が並んでいる。その一部を誤解を恐れずに簡略化して紹介すると次のようである。

 たとえば、脳の重量と知能が関係ある事を証明しようと、1800年後半から非凡な男性の脳重量を測定したが、データが多くなるにつれ実証できなくなってきたこと、脳重量を身長との比率で比較したが、最近ではエネルギーの消費量(体重)に比例することが分かってきたこと、また、水分含量をどう見積るかでは値は変り、正確な脳の重さの測定はむずかしいこと、これまでは遺体解剖でしか測定ができずデータに制約があったが、断層撮影などの技術の進歩で生体の脳の大きさが測定可能となり、今後研究が進む可能性があることなどが紹介されている。

 また、日産自動車の差別定年制の裁判で、女性の定年が男より若くても合法であるという根拠に、女性のほうが長い寿命のデータは取上げず、1953〜1956年の農村での調査データに基づいて出された、男性の70歳と女性45歳の体力が同じであるという資料が提出された。しかし、1985年以降のランニング種目の世界記録(データの出自が不明確であるが)によれば男女の記録差は縮まっており、このままで行けば将来同じになる可能性も高い。為政者にとって都合のよいデータだけが科学性をもった裁判の資料として採上げられることが、今の社会の問題を示しているといえよう。

 第2部は講義録であるが、「性差の発現及びそれに及ぼす胎内環境の影響」、「脳の性差」、「性の分化はなぜ起こったか」、「体・体力差」、「性淘汰と性差の起源」、「性格の形成と判定」、「女性研究者はなぜ少ないか」をテーマとした論文集の体をなしている。

 編者らは、現在の生物学や脳生理学の成果をふまえた上で性差のシンポジウムを開きたいという希望をもっており、本書はこのシンポジウムに向けて、とりあえずこれまでの議論をまとめた覚え書きに相当する。すなわち本書は、「性差の科学」の完成品ではない。科学も進歩する。次のまとめにはどのような新しい知見が盛り込まれるか楽しみでもある。


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