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【法学部研究懇談会】「ニクラス・ルーマンの法システム論」報告

2017年10月19日(木)13:30~17:50 名古屋キャンパスM2001会議室において、 本学法学部の山下和也教授(哲学)が、「ニクラス・ルーマンの法システム論」 というテーマで報告しました。

 

当日は、5名の教員と10名の学生が参加し、 闊達な議論が行われました。 報告内容につきましては、 当日配布のレジュメおよび松山真名居君 (法学部4年:山下ゼミ所属) のレポートをご一読ください。

 

 

次回は、2018年2月22日(木)13:30~ 名古屋キャンパスM2001会議室(本館20階) におきまして、 本学法科大学院の堀貴博教授 (派遣検察官:刑事訴訟法)の報告を予定しています (司会およびコメントは法学部の前嶋匠准教授が担当します)。
是非ご参加ください。

 

法学部研究委員 岡田健太郎

 

学生によるレポート

「ニクラス・ルーマンの法システム論について」

松山 真名居

(愛知大学法学部4年 2017年10月時点)

 

非常に難解なことで知られるニクラス・ルーマンの法システム論について、 山下和也教授による講演が行われた。

 

ニクラス・ルーマンはドイツの社会学者、哲学者であり、 オートポイエーシス・システムによる社会システム論の発案者である。 ニーダーザクセン州文化庁勤務をしており、官僚であったがアメリカに渡り、 ハーバード大学のタルコット・パーソンズに師事し、社会システム論を学ぶ。 その後同じくドイツの哲学者ユルゲン・バーバマスとの論争で有名になる。

 

山下教授によれば、 ルーマンの社会システム論を理解するためにはオートポイエーシス・システム論が理解されなくてはならない。 なぜならルーマンの社会システム論とは、 社会をオートポイエーシス・システムとして理解する理論だからである。 しかし、講演の中でも述べられていたが、 ルーマンの記述がオートポイエーシス・システム論としてあまり正確ではなく、 オートポイエーシス・システム論自体が非常に理解されにくいこともあってか、 他の先生方や学生からの反応はこの理論に対して否定的、 あるいは懐疑的なものが多かった印象である。 しかしこの事は、オートポイエーシス論がこれまでの理論と完全に断絶しており、 これまでの既存の理論の理解があまり通用しないというこの理論の本性でもあるのでしかたのないことではある。

 

たしかに画期的な理論であり、一度理解されれば後の理解は比較的容易になる。 しかし、理解されていない場合にはそもそも何についてルーマンが述べているかもわからない。 彼が主張している事の結論自体は非常に簡単な事実なのだが、 納得することが難しい。 山下教授によれば「体感とういうかコツのようなものが必要になる」理論である。 ルーマンの社会システム論による主張とは、結論として社会システム、 つまり我々が普段接している社会的なもの、 はコントロールすることができないということである。 社会も我々人間と同様の原理に従っており、 それぞれが自律的に動くので確定的なコントロールはできないということを強調している。 社会システムの機能システムである法システムも自律的に作動しているため確定的なコントロールができず、 この事は法学者やそれを学ぶ学生にとって少々ショックな事実を突きつけてしまう。 以下ルーマンの社会システム論及び法システム論について公演中の質問やコメントを交えながら概説をする。

 

ルーマンの社会システム論とは、 チリの神経学者ウンベルト・マトゥラーナの提唱したオートポイエーシス・システム論を社会学に応用する形で述べられている。 元々オートポイエーシス論は生命に関する理論であり、 マトゥラーナ自身も社会学への応用を試みたが断念しており、 ルーマンによってそれが達成された。 オートポイエーシス・システムとは産出・連鎖・循環・閉鎖のプロセスを連続的に行い、自己完結的に作動する閉鎖システムである。 自己を産出するネットワークの働きそのものであり、物質的なものではなく、 それらを動かす作動そのもののことである。 ルーマンによるオートポイエーシス論の定義は 「オートポイエーシス・システムとは、その構造のみならず、 システムがそれから成る構成素をも、 まさにこの構成素自身のネットワークにおいて産出するシステムである」 としている。山下教授によれば、この定義に問題はあるものの、 結論として述べられている事態は正しいのでルーマンの難解さに拍車をかけてしまっていると述べられていた。

 

ルーマンは、社会システムはコミュニケーションにおける二重偶然によって、 社会は人間の手を離れ自律的に作動しており、コントロールすることはできず、 コミュニケーションの連鎖こそが社会の継続であり、 近代の社会は高度に機能分化した相互補完的な社会であると主張する。 二重偶然とは、 もともとルーマンが師事していたタルコット・パーソンズの概念であり、 「行為者が自分の行為の仕方を他者の行為の仕方に依存させるとき、 これが逆方向にも起きることで循環が生じ、行為の規定が不可能になること」 であって、つまり、一方のすることが他方のすることの前提であり、 その逆も成り立つことで循環が生じて相手の行為を確定的に予測することができない。 この事は全てのコミュニケーションに言える事である。 そしてルーマンはこの二重偶然あってこそ社会は成立し、 社会システムとして誰の手からも離れて自律的に作動することを強調する。 つまり我々が普段行っているコミュニケーションは我々によって動いているのではなく、 コミュニケーションがコミュニケーションを再生産する作動として、 自律的にコミュニケーションがコミュニケーション自身を規定し、 次のコミュニケーションに連鎖することで存続している。 ルーマンによれば、「人間はコミュニケーションできない。 コミュニケーションのみがコミュニケーションしうる」とあるように、 我々の接している社会的なものは全て人間の手を離れ、 自律的に作動しているということである。 この事は全体社会システムの機能システムである法システムにも同じ原理として同様の結論を導く。 この説明に対して他の教授、学生は、 コミュニケーションによって社会が成り立っている事は納得できるものの、 コミュニケーションが我々の手を離れ自律的に作動していることに納得がいかなかったようである。 普段何気なく行なっているコミュニケーションに対して、 我々の視点からコミュニケーションを見た場合にはルーマンの述べていることに対して理解は進まず、 コミュニケーション自身の視点に立つことに努めなければ社会システム論は理解されないままになってしまうが、 ルーマンの記述が曖昧なこともあり理解することが難しく、誤解の多いところでもあった。

 

ルーマンによる法システム論は先に述べた通り、 法システムを全体社会システムの機能システムとして述べられている。 この理論は法とは何か?という問いにも直結しており、 法というものを原理的に扱える一方で、 山下教授も述べる通り法学者にとっては少々ショックな内容でもある。 それは、法は社会の中で社会の中でのみ生じるということである。 このことに対して反対やコメントはなかったものの、 何が法であるか言えるのは法のみであり、法は法源を必要とせず、 何を法源とするかは法が決めるという主張は法源概念を解体するものであり、 反論の多いところでもあるだろう。 またルーマンは法に対する説明の中で予期という概念を使い説明をしている。 予期とは二重偶然によって互いに相手の行為を規定できない状況ではあるのだが、 コミュニケーションの円滑な連鎖のためには互いにその行為を予期できる必要があるという意味においての予期である。

 

法システムもコミュニケーションによって成り立っており、 法システム特有のコミュニケーションが連鎖する事で存在し、 円滑なコミュニケーション連鎖のために法は予期できる形で提示されていなければならない。 このことは全ての法に対して言える事であるとルーマンは主張している。 具体的にいえば現代の刑法の原理となっている罪刑法定主義などであり、 手続法にしてもあらかじめ手続きが定められていなければ法はコミュニケーションを連鎖することが難しく、そうでなければ維持されえないからである。 他の教授からこの予期についての反論として、 法律を予期で説明することには無理があるのではないかという反論がなされたが、 ルーマンの主張は個々の法律の特性を予期によって説明する事ではなく、 その法律があり、 それに違反することは違法だと予期できる可能性がなければ法による統治や処罰はできないという意味である。 つまり現在の法律でも原則的に遡及的処罰は許されないように、 法的安定性の確保のためにもあらかじめ法は予期できる形で提示されていなければならない事と同様のことである。

 

またルーマンは、法コミュニケーションとは、 その事についての合法不法を分けるコミュニケーションであるとし、 この事を法システムの二項コードという概念で説明している。 これは法特有のコミュニケーションであり、 法システムは合法と不法を振り分けることによりコミュニケーションを連鎖させる。 もちろんコミュニケーションなので何が合法で不法であるかを振り分けるのも法システムの自律的作動によってのみ決まる。 この事は法システムにとって、 合法と不法によらないコミュニケーションは法システムには属さず、 あくまで法システムに対する撹乱に留まることを意味する。 また二項コードはシステムを統一するものの、それを保証する最上位規範は存在しない。 なぜなら法コミュニケーションによって振り分けられた合法・不法コードを合法・不法で区別することはできないからである。 ルーマンは法の作動にヒエラルキー性は不要であると断言している。 山下教授は、この事は法の妥当を法外から根拠づけようとする議論から、 法の完全な実定化への移行をさせる根拠になるのだが、 多くの日本の憲法学者にとっては特にショックな内容であると述べられていた。 また、日本の憲法学者の中でのべられている憲法は自然法的な法であり、 国民に対して要求していることはないという主張に対して、 山下教授は、合憲か違憲を判断するのは最高裁のみであり、 最高裁が違憲とするまでは全て合憲として適用されており、 憲法は合憲ならば全ての法に従えと不文的に国民に要請していると反論を述べられていた。

 

法と道徳の関係性についてルーマンは、道徳は法にとって重要ではないとしている。 法システムにおいて道徳が直接妥当することは不可能であり、 道徳から区別されてこそ法であると主張している。 確かに道徳は法を非難することもできるし、道徳が法に服する必要もないのではあるが、 道徳的に悪である法律、つまり悪法も法として法が規定してしまえば法なのである。 この事は公演中最も白熱した議論を引き起こしたところであった。 ナチスドイツを例に挙げ、 ナチスドイツの行ったことを法的に正当化してしまうことと同様の結論を導いたことになるので、 この事に対する反論は厳しいものであった。 しかし、法をオートポイエーシス論で原理的に考えた場合、 その結論は避けられない事実である。 また山下教授は当時の法律に従って行動したものを後の法によって処罰することは法としては正当ではなく、 道徳の法に対する越権行為であるとして、法治国家である以上は許されないと主張する。 しかし、悪法を正当化する危険な理論であるとして依然として他の教授による反対は根強いものであった。 確かに法学者にとってみればショックな事ではあるのでしかたのないことではある。

 

また政治学の教授による質疑応答では、 ルーマンは政治と法の関係についてどのように述べられているかという質問に対して、 政治とは政治システムであり全体社会システムの機能システムという点で法システムと共通であり、 政治システムは法システムの作動が行われることを前提として作動しており、 その逆も成り立っているので相互に影響関係はあるが、 やはり法システムも政治システムも全く別々のシステムであるので、 原理的には政治システムの作動を法システムの責任にしたりすることはできず、 法システムの作動に関して政治システムが確定的にコントロールすることなどはできないと述べられていた。

 

ルーマンの法システム論は法とはこういうものだと原理的に規定できるのが強みである。 その一方でルーマンも著書で述べている通り、理解するのは難しくないが、 納得することが難しい理論である。そのため誤解も多いのだが、 法とは何か?という問いに対して根拠を持って規定することができる。 法学に限らず学問には様々な主張がなされており、対立もしている。 そのような状況の中でルーマンのように物事を原理的に解明しようとする姿勢は現代のように多種多様な主張がなされる時代にこそ求められることではないだろうか。

 

以上が山下和也教授による講演会の報告である。

 

報告者の山下教授(左側)とレポート作成者の松山さん(右側)

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