序章 本研究の課題と方法
1.チャン族と「西番」諸集団
チベット高原の東端、四川省西部の山岳地帯は、かつて幾つもの古代民族が移動と興亡を繰り返した地域である。そこには岷江や大渡河、雅?江などの大河が南北に貫流し、海抜高度1500〜4000メートルの険しい峡谷が形成されている。数千年前、中国西北部の古代民族「羌」の一部は故地を追われ、新たな土地をもとめてここを南下したという。
現在、この一帯に居住するチャン族やギャロン、白馬、ナムイなどのチベット族および雲南のプミ族は、この古代「羌」の末裔と目される人々である。その後、チャン族以外の諸集団は吐蕃に征服されてチベット仏教を受容し、1950年代の民族識別でチベット族とされ、13世紀に雲南に移った集団はプミ族となった。しかし人民共和国成立前、彼らは「西番」と総称されて他のチベット族とは区別されていた。彼らの言語や風俗習慣、信仰、巨大な石塔などの文化要素にはむしろチャン族との類似が濃厚である。
チャン族および「西番」諸集団の概況はつぎのようである。
チャン族は、漢族の史料には「羌」という名称で記され1)、長い歴史をもつ民族である。起源は殷代(〜B.C.1030)まで遡り、秦漢以降は「某羌」と称されるチャン族の諸集団が中国西北部を中心に形成され、広く活動した[冉光栄・李紹明・周錫銀
1985:17-213]。しかし数千年を経た現在、「羌」の名称をもつ民族集団は、四川省西北部の岷江上流域に居住する約20万のチャン族のみにすぎない。
2000年の統計によれば、総人口は30万6072人、55少数民族のうち第27位の中以下の民族集団である。しかし1980年代以降の人口増加率が高く、1982年に10万2768人であったのが1990年には1.93倍の193万8303人に、2000年にも1.54倍に増加した。この10年間の増加率は少数民族のなかで最も高い。これは自然増加に加えて人為的増加が多いことを示すものであるが、このような人為的増加は、かつて漢族を名乗っていたものが少数民族優遇政策開始にともなってチャン族に民族改正したことに起因する。
チャン族は、岷江(長江水系)上流域の、平均海抜高度2000〜3000メートルの峡谷地帯に集住する。主要な居住地は、四川省阿?藏族羌族自治州(以下、阿?州と記す)の?川、理県、茂?羌族自治県(以下、茂県と略す)、黒水、松潘の各県および綿陽市北川県である(図1)。このうち全国で唯一のチャン族自治県である茂県には約41.0パーセントが集中し、以下北川県に29.3パーセント、?川県に14.1パーセント、理県に4.2パーセント、松潘県に2.3パーセント居住する。
チャン族固有の言語であるチャン語は、チベット・ミャンマー(ビルマ)語群チャン語系に属し、大きく南部と北部の方言に分けられる。各方言にはそれぞれ5つの「土語」がある。自称は方言によって異なる。北部方言の黒水県や茂県では「?ma」、理県では「xma」、?川県では「ma」である。固有の文字はない。チャン族は漢族との交流の歴史が長く、また人民共和国成立後の漢語教育が浸透した結果、ほとんどの者が漢語を話し、理解する。しかしすでに40代以下を中心に、総人口の約45パーセントがチャン語を話すことができなくなっている。そこでチャン語の保存のために、1980年代後半から省人民政府や省民族事務委員会が中心となってチャン語のピンイン表記が検討され、1990年代前半には「羌族ピンイン文字方案」が作られた。
「西番」とは、単一の民族集団の名称ではなく、中国西部の一定地域に居住する複数の民族集団に対して用いられた名称である。また「西蕃」とも記され、包括する地域や民族集団について、狭義には四川省西南から雲南省西北にかけて居住するチベット族およびプミ族をいい、広義には歴史上の中国西北地区の少数民族をさす。
「西番」の語は、晋代・張華『博物志』異魯「蜀中南高山有西番部落」に初めて蜀の「番」として記された。以後の文献には、『宋史』巻49蛮夷4「至黎州……入西蕃求良馬以中市」に当時の沈黎郡、現在の大渡河流域の四川省甘洛県と漢源県周辺の「番」としてあり、元代・周致中『異域志』の「阿丹」には現在の雅?江流域の四川省塩源、木里、雲南省寧?一帯の「番」として記されている。このように宋、元代までの「西番」は、四川省西南部の大渡河流域と雅?江流域の、いわゆる「川西民族走廊地区」2)に居住する集団をさしたと考えられる[松岡
2000a:239-246]。
しかし明代になると、『明史』巻330西番諸衛に「西番即西羌、族種多、自并西歴四川雲南西徼外皆是也」とあるように、広く甘粛や青海、西藏などのチベット族も「西番」と呼ばれるようになった。ところが清代には、「西番」は再び宋元代までの狭義に限定され、西康省の「番」は、「西藏」とは別に「康藏」(カム・チベット族)とよばれた。『清史稿』巻525藩部8西藏および巻513土司2では、チベット族の総称を「番」としてそのうちの西藏のチベット族を「藏番」、成綿龍茂道の松潘鎮(現在の四川省阿?州松潘県)の土司を「西番」とし、乾隆年間編纂『西番訳語』3)では、四川松潘のアムド、カムを自称とするチベット族も「西番」とした[孫宏開
1989]。さらに民国時代の「全治人民可分為番、漢、彝、苗、西番五族……」[邊政設訂委員会編
1940e]では、「西番」は多数の「番」(ここではカム・チベット族)と区別されたうえで、5つの集団に分かれるとする。
このように「西番」は、明代には広義に用いられたが、清代、民国時代は、「番」をチベット系の総称として「藏番」「康番」「西番」などに下位分類され、「西番」内にはさらに複数の集団が認められている。ゆえに民族識別でチベット族とされた四川の「西番」諸集団は、外部に対してはチベット族と名乗るものの、「西番」内では固有の言語をもつ複数の集団がそれぞれの自称によって互いを区別しており、四川省木里県水洛郷東拉村のチベット族のように、現在も周辺の他集団から「西番」と呼ばれている人々もいる。
これに対して雲南の「西番」は、四川西部の西番の一部が13世紀半ばに元軍とともに雲南に入って西北部に定住した集団であり、先住のナシ族からは「巴苴」と称された[尤中
1980:369-375]。そして清代までには北勝(現在の永勝)や永寧[天啓『求志』巻30]、維西[乾隆・余慶遠『維西見聞録』]4)、麗江[道光『雲南通志稿』に引く『皇朝職貢図』]などに広く分布し、先住のペー族やナシ族、リス族等と共住した。しかし四川に近い寧?以外ではチベット族との接触が少なく、チベット仏教も受容していない。その結果、民族識別ではその自称に基づいてプミ族とされた。
以上により、本研究では「西番」を「羌」系チベット族の総称とし、「西番」諸集団に含まれる民族集団を四川のギャロン・チベット族、白馬チベット族、クィリャン・アルスー・アールゴン・ジャバ・ミニヤック・ナムイ・シシン・チユなどの川西南チベット族、雲南のプミ族とする(図1)。
「西番」諸集団の大部分を占める四川の「羌」系チベット族(以下、「西番」チベット族と記す)は、四川省・チベット族(以下、四川チベット族と記す)の総人口の約25パーセントを占める(表1)。
1990年の統計によれば、四川省のチベット族は、人口が108万7758人で、チベット族総人口の約25パーセントを占める。主に四川省西部の甘孜藏族自治州、阿?藏族羌族自治州、涼山彝族自治州木里藏族自治県に集住する。このうち甘孜州には62万7034人、阿?州に3万8555人、木里県に3万4616人が居住し、それぞれの州、県の総人口におけるチベット族の割合は、順に76、51、31パーセントである。彼らは各居住地域において最大人口を有し、ほぼ自民族だけで集落を構成する。そのため独自の言語や伝統的な習俗が根強く保持されており、チベット仏教に対する信仰も年配者を中心に篤い。
居住地域は、青藏高原東端に位置し、海抜高度3000メートル以上の高山の草原地帯と金沙江、雅?江、大渡河などの大河によって形成された峡谷地帯がある。スギ類やマツ類などの針葉樹を中心とした森林資源が豊富なことで知られ、居住区の森林面積は省の森林総面積の約60パーセントを占め、木材蓄積量は全省の約70パーセントに達する。
主な生業は、草原地帯ではヤクや羊、馬などを季節ごとに移動しながら放牧し、海抜高度3000メートル以下の山腹や河谷ではチンクー麦やコムギの栽培と家畜の飼育を主とした定住生活を営む。
四川チベット族は、集団の形成の歴史や言語などの違いからアムド、カム、ギャロンおよび川西南チベット諸集団(以下、「西番」チベット族と記す)の3つに大別される。
アムドは、自称は「ワ」「ワパ」、言語はチベット語アムド方言。居住地は、青海、甘粛の2省に接する甘孜州北部の牧畜区と阿?州北部。黄河系の河川が流れる全国でも屈指の大牧畜区と、長江系の嘉陵江・岷江・大渡河の上流域で海抜3000メートルを越える山岳、草原地帯が含まれる。ヤクを主とした牧畜を生業とする。春から秋にかけては数家族単位でテントを住居として草原で移動生活を行い、冬は河谷にもどる。刷金寺にみられるように、彼らは河谷の一定の土地に寺院を中心とした集落を形成し、そこを拠点に季節による移動を繰り返す。
カムパは、自称は「ポ」「ポパ」、言語はチベット語カム方言。吐蕃の末裔ともいわれる。居住地は、旧西康省5)の金沙江以東で、現在の甘孜州の中部および南部。金沙江、雅?江、大渡河の3つの大河が南北に流れて形成した海抜2000〜4500メートルの高山峡谷地帯。高山部は、積雪期間が年間6〜8ヵ月におよび、年間平均気温は2〜5度、ヤクなどを放牧する牧畜区である。森林地域は貝母や大黄、虫草、羌活などの漢方薬材の産地でもある。山腹および河谷部には、4、5階建ての堅牢な石造家屋が並ぶ。チンクー麦やコムギ、豆類、ジャガイモ、トウモロコシなどを栽培する。収穫は1年1作で、畑全体の4分の3を耕作し、4分の1を順に休耕にする。またヤクやヤギ、メンヨウ、ブタ、馬などを飼育し、漢方薬材の採集で現金収入を得る。
「西番」チベット族には、ギャロン、白馬、アールゴン、ジャバ、クィリャン、ミニヤック、アールスー、ナムイ、シシン、チュとよばれる12の集団が含まれる。各集団は固有の言語、自称をもち(表1)、金沙江・雅?江・大渡河・岷江の上流域およびその支流の峡谷地帯に居住する(図1)。「西番」チベット族は、人民共和国下の民族識別でチベット族とされた。しかし集団の形成の歴史や言語、白石や山神の崇拝、石積みの家屋や巨大な石塔などの点でむしろ岷江上流に居住するチャン族との間に共通した要素が指摘されている。
「西番」チベット族の形成の歴史は複雑である。「民族走廊地区」には、漢代以降、「六夷、七羌、九?」、「
、 」、「?牛羌、白馬羌、白狼羌」などの「?羌」あるいは諸羌の諸集団があった(『漢書・西南夷志伝』)。隋唐代は「西山八国、附国、東女国」などの諸羌が中国王朝に帰順して168の羈縻州とされ、松州(現在の松潘)や茂州(現在の茂県)などの都督府の管轄下にあったが、名目的な支配にすぎなかった。ところが7世紀半ば頃から、西藏に勃興した吐蕃がこの一帯へ侵攻して諸羌を征服し、8世紀半ばまでにはここを吐蕃王国の一部とした。吐蕃は政治的な征服だけではなく、チベット仏教をもたらすことによって文化や宗教にも大きな影響を及ぼした。そして吐蕃王国分裂以後は、吐蕃兵の多くが現地女性と結婚してそのまま定住し、将軍らの一部も当地の支配者として残留した。草地の十二部落や甘孜州の徳格、ギャロン・チベット族の土司などの支配階層に、祖先は西藏出身であるという伝承が残されているのはこのためである。さらに元代には蒙古族がやってきて支配層の一部を形成し、明代には雲南麗江の木氏土司が勢力を伸ばし、一方、西南部の巴塘や理塘などにはナシ族の移住もすすんだ[西南民族学院民族研究所編
1954b・1984b再刊:16-18;雀丹 1995:80、109-111;李濤・李興友主編 1995:18-22]。このように四川チベット地区には、少なくとも諸羌、吐蕃人、蒙古人、ナシ人などの諸集団が時代を異にして移りすみ、通婚による民族間の融合や異民族による政治的支配のもとで歴史や言語、文化に多様な変化が生みだされていったものと考えられる。
2.チャン族に関する先行研究
チャン族は、「羌」という名称で古くから史料に登場していたため、歴史学の方面から多く論じられてきた。先行研究によれば、「羌」の歴史の概略はつぎのようである。
「羌」の最も早い記録は紀元前の商代の殷墟甲骨卜辞にみえる。古代の「羌」は、中国西北部の甘粛青海高原を中心に遊牧を行う民族集団であり、殷に対抗する勢力であった[顧頡剛
1980:118-125]。しかしその後、周辺民族の勢力拡大の影響を受けて故地を追われ、移動を余儀なくされた。このうち特に春秋戦国、魏晋南北朝、隋唐の各時期には、中原方面への移動が大きく進展した。その結果、漢族との融合が進んだ[馬長寿
1984:4-8]。また西や南に移動した古代「羌」は、チベット・ミャンマー語群に属するチベット族やイ族、ペー族、ハニ族などの形成にも深く関わった[冉光栄・李紹明・周錫銀
1985:196-202]。このような長期間に及ぶ移動や他民族との抗争、融合の結果、唐末宋初の頃には、「羌」と称する民族集団は四川の岷江上流域に残るのみとなった。これが現存する岷江のチャン族である。
しかし「羌」と称される集団を現存のチャン族までひとつのながれでとらえるには、まだ明らかにされていない点が少なくない。そこで本研究では、「羌」諸集団について以下の相違から、古代の「羌」と現存のチャン族に大別して論じていく。すなわち古代の「羌」は、中国に居住するチベット・ミャンマー語群内の複数の民族集団を含む総称と考えられるのに対して、現存のチャン族は、その下位集団であるチャン語系内のチャン語を話すチャン族という一つの民族集団に限定される、さらに両者には過去となった歴史上の民族集団と現存する集団という違いもある。よって先行研究については、古代「羌」を論じたものと現存するチャン族に関するものとに分けて、それぞれの研究状況と主要な論点を整理する。
古代「羌」に関しては、その研究対象を歴史上の諸羌、すなわち漢代の「西羌」や後秦の「羌姚」、西夏の「党項羌」などの某「羌」と称された諸集団、あるいは「古代?羌族」と称せられた集団とし、主に史料によってその個々の興亡が明らかにされている[顧頡剛
1980:131-147]。なかでも民族の移動や形成の重要な側面として他民族との接触や融合が注目されており、関中に移動した「羌」と漢族との融合の問題[馬長寿
1984:1-8]や、「?羌系」の古代民族が現存のチベット族や西南中国の諸民族の形成にどのように関わっていたか[尤中
1979]などが論じられている。なお李紹明編著『羌族歴史問題』[1998]には、1964年までにだされた羌族の歴史に関する各論が個別に概述されており、先行研究を知る上で便利である。
さらに近年の傾向としては、「?羌系」集団の移動や文化の形成について民族考古学や言語方面からの研究が活発である。民族考古学は、史料上の主に先史時代に関する記述を考古学的資料から証明しようとする試みである。例えば「夏墟」と推定される遺跡が発掘されたことにより、これまで伝説としてあつかわれていた「禹興於西羌」[司馬遷『史記』太公史序]が夏王朝との関連から検討されている[林向
1991]。さらに中国西北地区の仰韶文化や馬家窰文化などの新石器文化および西藏の?若文化において家屋の建築様式や陶器型式、埋葬習俗などの特徴に西北地区の新石器文化との共通点がみいだされることから、それらも「?羌文化」の一つであるとみなして、「?羌文化」の南下を推測する[李昆声
1997:349-352]。しかし「?羌系」集団に関する史料は少なく、民族考古学上の「?羌族」という概念は新石器時代から先秦以前までの数千年間に及ぶ複数の民族集団を包括していて、その文化も極めて広範な地域と長い時間の中に想定されている。そのため「?羌文化」そのものがどのような内容をもつのか、主体者はどのような人々なのか、明らかではない。
言語方面からの研究成果としては、1982年に費孝通らが提唱した「六江流域民族総合考察」に基づいて実施された「羌語支語言(チベット・ミャンマー語群チャン語系、以下チャン語系と記す)」の調査があげられる(図2)。六江流域とは、四川、西藏、雲南の三省の省境にまたがる山岳地帯を南北に貫流している6つの大河──怒江、瀾滄江、金沙江、雅?江、大渡河、岷江とその支流一帯を指す。費孝通は、六江流域が歴史的に古代諸民族の南下の移動路であったことを指摘し、この地を「民族走廊」と名付けた。現在ここには、かつて「西番」と総称されたアルスー、ナムイ、ミニヤックなどの複数のチベット系民族集団が居住している。彼らの言語には近代チベット語とは異なる要素が強くみられ、むしろチベット語系とチャン語系の中間に位置するのではないかとする指摘もある[孫宏開
1983b]。また彼らの居住地には「?籠」と呼ばれる巨大な石塔の分布がみられるが、これは岷江のチャン族が古くより伝える巨塔と同じ構造、技術による[松岡
1991:80-83]。六江流域の「西番」に想定される羌系の基層文化を明らかにするためにも、言語調査の成果は大きな意味をもってくる。
一方、現存のチャン族については、フィールドワークを中心として、歴史、考古、政治、経済、言語、文学、民俗、宗教などの諸分野にわたる報告と分析が進められてきた。特に北方の新石器文化との関連を示唆した考古学上の諸発見や長江上流域文明という視点からのチャン族文化の再検討、シピと称される宗教職能者を中心とした宗教活動、チベット共通祖語の重要な媒介言語と指摘されたチャン語の研究、民族誌などが注目される。
考古学においては、すでに1940年代に欧米の研究者によってチャン族地区における新石器文化の文物が紹介されている[D.
C. Graham 1944]。さらに1950年代には石棺葬が岷江とその支流一帯から次々に発見され、分布範囲が四川の西北地区や西南地区にも及ぶことが明らかにされた[馮漢驥・童恩正
1973]。その影響をうけて、チャン族の族源や移住史についての論争が盛んになり[童恩正
1978;陳宗祥 1981a]、1980年代にはこれらの論争を総括した『羌族史』[冉光栄・李紹明・周錫銀
1985]が刊行された。これは、従来の漢籍史料を軸として、史詩「羌戈大戦」などの民間伝承もふまえ、さらに解放後の新たな考古学上の諸発見を加えて、伝説の夏代から中華人民共和国前夜までのチャン族の歴史を時代別に論じたものである。
『羌族史』にまとめられたチャン族の定住までの移動はつぎのようである。史詩「羌戈大戦」によると、昔、チャン族の祖先は魔兵に追われて西北の青海湖方面から南下し、岷江にたどりついた。そして9人の兄弟に率いられた集団は先住の民である「戈人」を征服し、それぞれ別の土地をみつけて定住生活を始めた。また『後漢書』西羌伝には、古代「羌」が故地を追われて西へ移動していた頃、その一支は河に沿って南下し、以後、他の羌との接触が全く途絶えてしまったとある。さらに同書の西南夷伝には、岷江上流一帯(漢代の四川の?川郡)には当時「六夷七羌九?」と呼ばれる先住の集団がいたとする。
すなわち岷江のチャン族は、おそくとも秦代以前には当地で定住生活を始めたと推定される[馬長寿
1984]。そこで考古学上の論争は、伝説の「戈人」や石棺葬の所有者をどのような民族集団としてとらえるか、チャン族との関係をどうみるかという点などをめぐって展開された。すなわち「戈人」とは、岷江流域の石棺葬を行った集団である[童恩正
1978]との見解、石棺葬内からチャン族固有の信仰であるとされていた白石がみつかったことから、チャン族以前に先に移住していた古羌の一支である[李紹明
1985]とか、蜀人の祖先である[徐学書 1992]という主張などが提起されている。
さらに岷江流域に定住後のチャン族については、つぎのようである。岷江に到達した後、さらに南下あるいは東進して、最盛期には成都以北の岷江のほぼ全域と東の北川県まで達し、現在の約2倍の面積にあたる地域に広く分布した[西南民族学院民族研究所編
1954b・1984b再刊:15]。しかし明代末から清代初め、戦乱で人口が激減した四川には国家の奨励を受けた多数の漢族移民が入蜀し、さらに1747〜1776年の2回に及ぶ金川事変の勝利に乗じてその数は増大し、西康地区へも及んだ。その結果、南部のチャン族は進出してきた漢族におされて山間の土地への移住を余儀なくされ、東部の土門や北川では、成都から重慶への物資運搬路の一つであったために、往来する漢族と頻繁に接触し、言語や服装などにおいて「漢化」が進んだ[西南民族学院民族研究所編
1954b]。一方、チベット族地区に隣接する北部と西部のチャン族は、7世紀以降たびたび吐蕃に征服された。チベット仏教が浸透した黒水地区では、民族識別で自らをチベット族と申請したために、チャン語を用い、近隣のチャン族とも通婚する黒水チベット族がうまれた。
以上によれば、特に明末以降、漢族がチャン族地区に定住するようになったことでいわゆる「漢化」が進んだことや黒水地区の特殊性などが、現在のチャン族に直結する課題として浮かび上がってくる。現在のチャン族の民俗文化を考えるうえで、この時期の民族間関係や文化の交流、受容が検討されなければならない。
宗教については、中華人民共和国成立以前の成果が注目される。それは、イギリスの宣教師であったT.
Torranceの『The History, Customs and Religion of the Chiang』[1920]に始まる。そして1922年に華西協合大学で発足した華西辺疆学会に参加した欧米の学者や戦禍を逃れて成都に移転してきた金陵・燕京大学などの中国人の学者によって精力的な調査が行われた。代表的なものとしては、?川県や理県などの南のチャン族地区を主な調査地とした、T.
Torrance[1920]やD. C. Graham[1942など]、胡鑑民[1941]の宗教習俗調査があり、伝統的な治病駆害、求雨、成年式、正月、収穫祭などの諸儀礼やそこにおける「シピ」の活動が記されている。
人民共和国後の調査研究資料としては、1950年頃までの概況を全地域にわたって広く記した西南民族学院民族研究所編の『羌族調査材料』[1954b]や、「シピ」の口頭伝承による経典や1980年代に実際に行われた婚姻や葬儀、祭山会の事例報告を収録した「羌族宗教習俗調査資料」[四川編輯組
1986]などがある。このうち後者の経典の収集と解説は、固有の文字をもたないチャン族の精神文化を知る上で重要であり、「シピ」の高齢化や宗教的儀礼の衰退という状況の中で、その後も銭安靖[1987]や趙曦[1988a・b]らによって継続的な調査が進められている。また銭安靖はこれまでの「シピ」に関する報告資料を整理して、呼称や起源、服装や法器、伝承、作法、報酬、「巫術」、経典、宗教儀礼などに分類しまとめており[銭安靖編
1993:435-573]、非常に有用である。
チャン語の研究は、聞宥[1940:51]によって先鞭がつけられ、孫宏開によって『羌語簡志』[1981c]がまとめられた。これによれば、チャン語は南部と北部の2方言に大別される(図3)。このうち南部方言は、さらに大岐山、桃坪、龍渓、綿池、黒虎の5地域の言語(以下、地域語と記す)に分けられ、主に茂県と?川県の大部分の地域や理県南部で使用されている。北部方言も蘆花、麻窩、茨木林、維古、雅都の5地域語に分けられる。ただしこのうちチャン族が使用するのは雅都地域語のみであり、他の4つの地域語は黒水県のチベット族が用いる。北部方言を黒水チベット族ではチャン語を用いる人口の約40パーセントを占める[孫宏開
1994:809]。黒水チベット族は、1950年代の民族識別によってチベット族となるまでは、隣接する茂県赤不蘇区のチャン族と同じ集団で、「チャン族」であった。
チャン語の使用状況については、1986年の調査では、チャン族のうちの約37パーセント、2000年の調査ではさらに増えて45パーセントがすでにチャン語を話せない[黄成龍
2002:212]。北川県や丹巴県の大部分および各県の県城、幹線道路沿いに居住するチャン族はかなり早い時期にチャン語をほぼ失っており、集落内での日常会話にチャン語を使用する地域はより山間部へと狭まっている。人民共和国成立後に漢語で教育を受けた世代が人口の大半を占めるようになり、漢族社会との往来が日常的になるにつれて、漢語の使用頻度はますます増えている。固有の文字をもたないチャン語が今後どのように伝承されていくのかは、大きな課題であろう6)。1990年代初めに四川省人民政府と民族事務委員会が中心となって定めた「羌族ピンイン文字方案」や、理県蒲渓郷などで実験的に実施されているチャン語の授業などはその試みの一つである。
なおチャン語については「チベット・ビルマ共通祖語を再考するのに重要な役割をはたす言葉(媒介言語)」という指摘もなされている[長野泰彦
1985]。中国側においても六江流域の諸民族の形成を考える一つの視点として、チャン語を核としたチベット・ビルマ語群チベット語系とチャン語系の要素をあわせもつ当地のチベット系民族集団の言語が注目されている。
経済については、歴史や考古学、宗教などの分野に比べて十分ではない。人民共和国成立以前の状況については、胡鑑民による南部地区の経済活動に関する分析[1944]があるのみで、そのほかは地方史や当時刊行された『西南辺疆』『川辺季刊』『辺疆通信』『康藏研究月刊』などの雑誌や『四川松理茂?屯区屯政紀要』[1936]、『川康邊政資料輯要』[1940a〜l]などから断片的な資料を集めるほかはない。人民共和国成立後および改革開放後については、国家の政策や省、州の経済動向はしばしばまとめられているが、県や郷、村レベルまでの経済活動を論じたものはあまり公表されていない。ただし以下に紹介する社会歴史調査シリーズや県志、統計年鑑などから様々な数字や動向をひろいだすことができる。
最後に人民共和国成立後の重要な成果、近年の研究動向についてのべる。
まず総合的、かつ基本的な資料報告書としてあげられるのは、1950年代の調査をまとめた西南民族学院民族研究所編『羌族調査材料』[1954b]、1958〜1962年に国家の民族政策の一環としてチャン族区のほぼ全域にわたって実地調査が行われ、1980年代に刊行された『茂?羌族自治県概況』[1985]や『阿?藏族羌族自治州概況』[1985]、『羌族社会歴史調査』[1986]である。これらは、1950年代の総合的な調査として人民共和国成立後のチャン族研究の重要な基本資料であるばかりでなく、『羌族社会歴史調査』などには郷や村のレベルの経済調査や冠婚葬祭の実録も収められている。また約半世紀前の広範な地域の資料である点は、すでに1940、50年代当時を知る古老が亡くなろうとしている現在、改革開放後の変化を分析する上で比較の資料として貴重である。さらに1990年代には、甘孜州や阿?州の州志、州内各県の県志も続々と刊行されており、地域の行政区分や歴史沿革、人口動向、民族構成、産業などの基礎資料を得ることができる。
また総合的学術雑誌として、年刊『羌族研究』[四川省民族研究所 1991年発刊]も刊行されている。創刊号の巻末には雍継栄『羌族研究資料索引』が付され、1980年代までのチャン族に関する資料や論文などを知るうえで有用である。
近年の分野別の研究や資料で注目されるのは、実地調査に基づいた民族誌の刊行である。徐平『羌村社会』[1993]や、松岡正子『中国青藏高原東部の少数民族 チャン族と四川チベット族』[2000a]がある。前者は、?川県出身の筆者が育ってきた環境の中でみてきたチャン族について、羌村の民俗や家庭経済にまでふみこんで詳細に記した、羌族地区における最初の民族誌である。後者は、チャン族に関する先行研究をふまえて自然や生業、生活等からチャン族の伝統的な民俗文化について概説し、事例研究として理県蒲渓郷を調査対象とした約10年間の定点調査を行い、周辺の羌系チベット族の調査を加えて、「羌」系文化を探ろうとした書である。巻末に付された2000年までの詳細な文献資料は有用である。
また季富政『中国羌族建築』[2000]や兪栄根主編『羌族習慣法』[2000]に報告された資料は、今後の研究のために極めて価値がある。前者は建築学の専門家の手になるもので、多数の精緻な図が収められている。これを基に文化人類学的視点から家屋の機能や家族生活が分析できる。後者は、上篇の習慣法研究と下篇の習慣法調査資料選編からなる。広範な地域にわたる聞き取り調査記録や文書類がほぼそのまま収められており、インフォーマントがよく選ばれている。家族や社会制度などを研究する上で不可欠の資料であろう。
中国と日本の研究者の合同調査が進められていることも重要である。日本早稲田大学長江流域文化研究所(代表:工藤元男)と中国四川大学芸術学院(代表者:盧丁)による総合的な『中国西部南北遊牧文化走廊研究』[2003]がそれである。すでに『四川岷江上游地区歴史文化研究』[1996]や『羌族社会歴史文化研究』[2000]、『中国四川西部人文歴史文化総合研究』[2003]などの研究成果が刊行されている。なかでも白馬チベット族の経典「護輪」は初めて紹介されたものである。これらは現在の生活の中でも護符として生きており、白馬チベット族がそれらをどのように信じ、用いているか、ペモ(宗教職能者)の機能などとともに彼らの精神生活を知るうえで重要な資料である。
チャン族とチベット族の物質文化に焦点をあてた日中合同調査も行われている。日本東海大学・渡部武教授と中国四川大学附属博物館・霍巍教授を代表者とする「中国青藏高原東部地域における羌族・チベット族の生活文化研究──四川大学附属博物館との民族誌共同編纂の試み」である。各調査地での調査時間は短いが、『四川の考古と民俗』[1999]、『西南中国伝統生産工具図録』[2001]などが公刊されている。
近年、チャン族社会も改革開放・市場経済のもとで経済活動を中心にその変化がますます急である。また西部大開発のかけ声のもとで、「古羌文化」の地として岷江流域のチャン族の石?、白馬チベット族、九寨溝、広漢の三星堆を含んだ地域の観光開発が進められている。観光資源としての保護・開発が民族の伝統文化や生活にどのような影響をあたえ、変化をもたらすのか、今後の課題であろう。
3.「西番」に関する先行研究
(1) 「西番」の民族識別
「西番」の語は、かつて広義、狭義に使用されてきたために、具体的にどのような集団が含まれていたのか、明確ではない7)。そのなかで雲南側に分布する「西番」は、共和国成立後の民族識別工作を経て、プミ族という一つの民族集団として認定された。そして「西番」に関する調査、研究は民族識別工作を契機として始まったといえる。
雲南「西番」についての民族識別工作は、1950〜1960年代、つぎのように行われた[胡鏡明・胡文明
2002:5-6]。1954年5月、方国瑜等の「蘭坪、寧?“西番”族識別小結」、1954年8月、林耀華等の「永勝、麗江両県西番族」をふまえて、1960年1、2月、雲南省民族事務委員会は省内の“西番族”の代表者を招集して“西番族”の構成や特徴、族称について討論し、民族名称を“プミ族”と決定した。1961年6月、雲南省人民委員会は、5月に雲南省事務委員会から提出された「関与将“西番族”改称為“普米族”的報告」に基づいて省内の“西番族”を一律に“普米族”に改め、単一民族であるとした。
またこの民族識別工作のために1954〜1964年の10年間に、雲南民族調査組「蘭坪、寧?両県普米族社会調査」以外に、孫宏開や陸少尊ら多数の著名な研究者によって多くの貴重な調査報告書がまとめられた。それらは『基諾族普米族社会歴史綜合調査』[雲南省編輯委員会編
1990]に収められている。
さらに雲南「西番」の民族識別工作を受けて、四川側の「西番」についても四川省委民工委を中心に初めて調査がすすめられ、「四川“西番”識別調査小結」[張全昌
1962]がまとめられた。
張報告によれば、当時の四川「西番」は、雲南省に隣接する木里県を中心に約24000人と推定され、そのうち約70パーセントの17000人が木里県に集中し、ついで塩源県に約2800人、甘洛県に約2000人、越西県に約1000人、冕寧県に約800人、九龍県と石綿県には約500人とされている。また同報告では、四川「西番」については雲南「西番」であるプミ族との間に共通点があるものの、幾つかの相違点が指摘された。第1は、四川「西番」内では複数の自称集団が存在して、各集団が異なる言語を用いており、雲南「西番」のように一つの自称で統一される集団ではないことである。例えば木里・塩源・九龍の大部分では自称は「普米」(プミ)であるが、甘洛・越西では「爾蘇」(アルスー)あるいは「多虚」(トシュ)で、冕寧の「多虚」はさらに「ミナ」と「ジス」の支系に分かれる。このほか冕寧県濾寧区では「納磨依」(ナムイ)あるいは「呂汝」(リル)、木里県?拉郷や?波郷では「呂汝」である。また近年、新たに「クィリャン」「アールゴン」「ジャバ」「ミニヤック」「シシン(シュミ)」「チユ」などの自称集団も確認されており、かつて「西番」と呼ばれた川南の諸集団の総人口は約16万人に達する。
第2の違いは宗教である。四川西部は、8世紀以降、西藏吐蕃の中国進出のルートとなり、たびたび吐蕃側に支配された。吐蕃はこの地にチベット仏教を伝え、チベット寺院は経済的政治的にも現地での支配をすすめたために、四川西部では日常の生活まで教えが浸透した。例えば木里県では、1750〜1760年間に伝来した黄教の政教一致策の下で木里大寺などの三大寺が直轄統治を行ったために、住民は誕生から葬儀に至るまでその教えに従って行動し、チベット仏教は人々の意志決定の規範となった。その結果、西藏のラサに直結した三大寺の支配は住民自身の帰属意識に大きな影響をあたえ、人民共和国下の民族識別時には住民は自らをチベット族であると申請した。
よって張報告では、彼らがチベット仏教を深く信仰していることや歴史上の西藏チベット族とのつながり、生活上のチベット族との類似性、彼ら自身がチベット族であると意識していること、さらに「西番」内には「プミ」以外の自称が複数あって統一した民族名称を決定しがたいことなどから四川「西番」をチベット族と認めた。ただし初歩的意見と記したことから、さらにいっそうの調査が必要であることを示唆している。すなわち四川「西番」については、土着の宗教や生活習慣に彼ら独自のものがあり、それらの雲南プミ族との共通性も指摘されている。
(2) 四川の「西番」
本研究では、四川の「西番」を「羌」系チベット族とし、川西南チベット族、ギャロン・チベット族、白馬チベット族を含む。このうちギャロン・チベット族と白馬チベット族についてはそれぞれ第6章と第7章でふれているので、ここでは川西南チベット族について述べる。
川西南チベット族については、調査が十分でないため、実際にどれくらいの異なる集団があるのか、なお不明である。1981年の調査によれば、「西番」は主に大渡河以南から金沙江以北の地域に分布し、「納木依」「多須」「里汝」「爾蘇」「魯蘇」「本尼洛」「須迷」の7種の自称集団がある。西番、西教は漢族が彼らを呼んだ他称である。1980年の統計では、「西番」(自称が「プミ」「ボパ」の西番は含まない)の総人口は20862人、うち西昌県600人、冕寧県3584人、石綿県7000人、漢源県1695人、甘洛県2748人、越西県1800人、喜徳県76人、塩源県159人、木里県3200人である[劉輝強
2002:14-15]。
「西番」に関する研究では、言語が内外の研究者の注目を集めている。西番諸言語は羌藏語のなかのチベット語系とチャン語系の中間に位置する要素をもっており、羌藏語は「チベット・ビルマ語群言語の中で、もっとも古い形態を保持しているのではないか」[西田
2000:22]とされるからである。
しかし西番諸言語を羌藏語群のどこに位置づけるかについては、研究者によって見方が異なっている。西田は、羌藏語を3つに分けて西藏語系と羌語系の中間に西番語系をおき、西番諸語のうちのギャロン語と白馬語をそれぞれチベット語系の一支とし、その他のミニヤック、アルスーなどをそれぞれ西番語系の一支とする[西田
2000:21-23]。これに対して孫は羌藏語を西藏語系と羌語系の2つに分け、白馬語以外の西番諸語をチャン語系とし、ギャロン語とその他をそれぞれチャン語系の一支とする[孫宏開
1983a]。ただし現存する西番諸言語の調査がまだ十分になされていない現段階では、これらの下位分類はまだ確定されていない。
西番諸言語については、日本では、中国近隣所言語の歴史的研究の一環である『西番訳語』研究の中から既知のギャロン語と未知の多読語が発見され、それをふまえて漢・チベット語族チベット・ビルマ語群のチベット語系とチャン語系の研究が展開されている[西田
1970;1973;1990]。『西番訳語』は「清代乾隆13年以後に、とくに現在の四川省北西部に分布する諸部族を対象に、それぞれの言語をアンケート調査した一連の資料(9種類ある)」[西田
1990:?]である。西田は『西番訳語』に収められたそれぞれの言語が何語であるのかを決定し、羌藏語の各言語の史的発展をあとづけて「共通チベット語形式の再構成」を試みているが、そのような歴史的研究には現代の西番諸言語に関する信頼できる調査資料が必要であり、また極めて有用であることを指摘している[西田
1990:?]。現代の西番諸言語すなわち「川西走廊地区」チベット族の言語調査は、該当地域の自然条件の厳しさなどもあってなかなか進んでいないが、最も待たれている調査の一つである。
中国においては、現代のチベット・ビルマ語群言語の実地調査を基点として、チベット語やチャン語、ギャロン語を中心とした研究がすでに民国時代から行われている[松岡
2000a:393-394、413-414]。しかし西番諸言語の大規模な実地調査は、1982年と84年に中国西南民族研究学会が六江流域民族総合科学考察の一環として行った雅?江上、下流域のチベット族調査程度で、未調査の地域は依然として多い。このような中で孫宏開は長期にわたってチベット・ビルマ語群言語の調査研究を進め、六江流域の西番諸集団の共通祖語を「チャン語系言語」と想定している[孫宏開
1983a]。
このほか六江流域の「西番」諸集団には、巨大な石塔や信仰、火葬などに共通の要素がみられ、チャン族のそれに近いことから、「羌」系の基層文化の存在が指摘されている[松岡
2000a]。
信仰については、「西番」は白石を神あるいは超自然的存在の表象として祀る。川西南チベット族のナムイ、パムイ、トシュ、リロ、ロソ、ムニゴ、シュミ、アルスーの8集団の信仰にはつぎのような特徴がみられる[何耀華
1991:6-13]。彼らはすべてのものに霊的存在を認め、その表象として白石を祀る。ナムイの場合は、ナムイ語では白石を「ムプ」という。「ムプ」は人跡稀な深山から採取して持ち帰り、屋根の東端に3あるいは5、7個置く。「ムプ」を祀る時は、オンドリかヤクあるいはメンヨウを犠牲にし、「パピ」(宗教職能者)か経文を唱える。
山神も信仰する。祭場は山中あるいは山頂の神林にあり、高さ1メートルの石積みの塔「アルプ」がある。「アルプ」は山神の表象であり、白石「ムプ」をその上に置く。毎年1回、集落ごとにここに集まり山神を祀る。10年に1度行われる山神祭りを「ヲピ」という。「ヲピ」では10月か11月に、共同で祭祀を行う集落が「アペ」山に集まってヤクやメンヨウ、ブタ、ニワトリ、黄牛などを犠牲にし、9日間にわたって「パピ」が経文を読む。経文はチベット仏教のそれではなく、「パピ」が代々伝承しているものである。「パピ」は住民1人ひとりに羊毛を結び、紅白の布「ハタ」と経文を刻んだ木片「白香条」をあたえる。住民はこれらをヤクの皮で包んで(「ナダ」)家の神棚に供えて、毎日祈る。
樹神も重要である。各家庭は、山中の高くてりっぱな常緑樹の中から1本を選び、それを家の樹神「菩提樹」とする。樹神は子供の出生を司り、家人の病気を治すと信じられている。家人が病気になると、まず「パピ」を家に招いて経文を読んでもらい、つぎに家族がそろって山中の「菩提樹」のところへ行き、ヤギかニワトリを犠牲にして酒や米飯をそなえ、「パピ」に経文を読んでもらう。
以上のように、特にナムイの信仰にはチベット仏教の影響はあまりみられない。ナムイ独特の形態を色濃く残しており、むしろチャン族の白石崇拝や山神、樹神信仰に極めて近く、山頂の塔「アルプ」はチャン族の「ナヘシ」と同じである。また神山「アペ」には、かつて数十メートルあったという巨大な石塔「ア」の跡が残っており、これはチャン族やギャロン・チベット族に今でも残る石?である。
このようにチベット仏教の浸透度は地域によって一様ではなく、それぞれがチベット仏教伝来以前の信仰形態を維持している。「西番」の伝来の信仰は、諸霊の存在を信じ、山の神を崇拝して、山頂や家屋の屋上に築いた塔でコノテガシワを燃やして煙をあげ神を祀るという形であったと考えられる。またそれはチャン系集団に共通する文化要素でもある。例えば冕寧県連合郷では白石を神の象徴とする山の神信仰をもち、シャーマンが祭祀や卜占、治病などにあたっており、チベット仏教は外来宗教としてそれほど浸透していない[陳明芳
1988;何耀華 1982]。
さらにチベット仏教は人民共和国下の宗教政策のために1980年代初めまで寺院は閉鎖や破壊に遭い、僧侶は強制的に還俗させられた。木里大寺も1980年代後半になってようやく復興されたが、僧侶の数は最盛時の1000名近くから30余名まで激減した。そして30余年におよぶこのような断絶は次世代に対してその影響力を大きく後退させ、チベット仏教下で隠れていた民間のシャーマンの活動を活発化させた。また一方で、僻地にあったチベット社会は漢族社会との政治的経済的関係を深めている。我々は近年かなり「漢化」してきた、と語るプミ人の桃巴郷長の言葉は、その意識や生活様式の変化とその方向をよく示すものであろう。
今後の四川「西番」研究の課題としては、これまでの閉ざされた社会から否応なく漢族を主体とした激変する社会との接触が増えていくなかで、「西番」の生活や意識はどのように変化していくのか、伝統文化やアイデンティティはどうなっていくのか、少数集団として独自の言語を保つことができるのか、といった点があげられる。
(3) 雲南プミ族集団
プミ族に関する研究は、『普米族研究文集』[2002]に人民共和国成立以前からの成果も含めて主要なものがほぼ収められており、研究動向を知るうえで重要である。
胡鏡明らによれば、国内のプミ族研究は人民共和国成立後にようやく始まり、3つの時期に分けられる[胡鏡明・胡文明
2002:5-7]。
第1期は1950〜1960年代で、民族識別のために蘭坪、寧?を中心に基礎的な社会調査が行われた。第2期は1980年代からの20年間で、五種叢書の『普米語簡志』[1983]、『普米族簡史』[1988]、『基諾族普米族社会歴史綜合調査』[1990]が刊行され、さらに言語や民俗事象に関する成果があった。『普米族民間故事』『普米族故事集成』『普米族歌謡集成』『普米族風俗志』『普米族文化大観』『〈白狼歌詩〉研究一』『藏族、納西族、普米族的藏伝仏教』などである。また省内の地方志も続々と刊行された。第3期は2001年からで、普米文化研究室が成立し、経済・社会の発展をめぐる問題が提起された。さらに国家民委と雲南省民委は省内の総人口10万人以下の22民族について重点的な調査を行い、プミ族についても『雲南普米族経済和社会発展調査報告』や『普米族伝統文化保護与発展調研報告』がまとめられている。そこでとりあげられた現在の問題は、貧困、低い人口増加率、教育や衛生面での低水準、伝統文化の変化、消えいくプミ語などである。
プミ族は、総人口3万数千という小規模な民族集団で、点在して居住し、人口増加率も低い。またペー族やナシ族(モソ人)など強い民族とともに共住してきたためにそれらの文化の影響を深く受け、自民族の文化の特徴が希薄にみえる。しかしチベット仏教を受容する前に四川のプミ語集団から離れて雲南に移動したために、特に蘭坪のプミ族には「羌」系文化の要素が明確に継承されている。筆者が見聞した葬式や山神祭りがそれである。ただしそれらが民族の特色を失い、消えていくのも時間の問題であろう。プミ語の保存と民俗文化の記録、およびそれらの研究が急務である。
4.課題と方法
(1) 課題と方法
以上の先行研究ふまえて、本研究の課題と方法について明らかにしたい。
本研究の課題はつぎの2点である。第1は、古代「羌」の末裔と目されるチャン族と「西番」諸集団とはどのような民族集団であるのか、家族と地域社会、自民族意識を表象するもの、自然環境、経済活動、生活文化、冠婚葬祭と年中行事、信仰などの日常生活の視点から、現状と変化を分析する。第2は、チャン族および「西番」諸集団には、共通した古代「羌」系の基層文化が存在するのか、存在するとすればそれはどのようなものか、各集団における「羌」系文化の諸相、伝承、変容の過程と要因を明らかにする。
第1の課題は、第2の前提となるものであるが、従来の研究では十分に明らかにされたとはいえない。チャン族に関しては、歴史や宗教信仰、言語が内外の研究者に注目されてきたためにこれらについての研究は少なくないが、家族や地域社会、経済活動、生活文化などの日常的な営みを対象とした報告は量的に十分ではなく、また内容においても概説的なものが多い。さらに調査において、山間の民に顕著な標高差や地域差に留意したものが少なく、個人や家族、集落単位の資料もほとんど蓄積されていない。なお省・県レベルの数値や生活の動向は、1990年代から盛んに刊行されている県志や、省単位の統計年鑑などから知ることができるが、郷や村落レベル、および家族に関わる基本的な資料は実地調査ではじめて知ることが多い。チャン族社会が地域により、また個別にますます多様に変わりつつある近年、日常生活の視点からのミクロ・レベルの変化の様相は、皮相的な変化だけではなく、意識や習慣などの内面的な変化をよく示している。村落レベル以下の地域ごとの調査や、年数をかけた特定地域における定点調査は、「変化」が重要なキーワードの一つとなる今後の民族研究において不可欠なものといえる。
「西番」諸集団に関する研究では、調査のおくれや不足がより深刻である。かつて「西番」と総称された四川西部および雲南北部の諸集団については、1950〜1960年代および1980年代に数回の調査が行われた。しかしこの一帯は険しい峡谷地帯で交通が不便なために、なお未調査の小集団があると思われる。また歴史的に様々な集団の移動があったために言語系統が複雑であり、解明を必要とする言語が少なくない。さらに諸集団の言語は、固有の言語を使用する集団あるいは集落の規模が小さいために、今後、漢族社会との接触が一層進み、義務教育が徹底して漢語の使用が浸透するにつれ、やがて消えていく可能性も低くない。広範かつ基礎的な調査が急務である。
以上のことから、本研究の方法は、対象地域についてできるだけ広範に実地調査をすすめると同時に、特定の集落について定点調査を行い、実地調査をつうじて得た郷・村・集落・家族・個人レベルに関する第一次資料と、入手可能な限りの文献資料、例えば県レベル以上の統計資料や政策、社会の動向、個別のテーマについての先行研究、歴史史料などを用いて、民族学的視点から課題について分析し、考察した。
特に特定の村落における定点調査は、チャン族研究においてこれまで報告されたことがなく、本研究の大きな特徴である。筆者は、1988年9月から99年7月まで四川大学に留学して李紹明教授(民族学)や蒙黙教授(歴史学)、童恩正教授(考古学)らに教えを受け、1988年旧暦10月の茂?羌族自治県で開催された「羌暦年」に参加以来、チャン族や四川チベット族、雲南プミ族などの民族地区において実地調査を行ってきた。
なかでも四川省阿?藏族羌族自治州理県蒲渓チャン族郷では、1991年から2002年まで、季節をかえ、調査テーマをかえて4回訪れ、聞き取り調査を行うとともに、10年間の変化を体感することができた。蒲渓郷は、チャン族地区の中でも伝統的な生活がよく残されているとされる地域である。また古老から人民共和国成立以前や土地改革、人民公社、文化大革命、改革開放などの各時期の地域や家族の状況を直接の体験から聞くことができたことは、貴重なことであった。1960年代以前のことをはっきりと語れるインフォーマントが、すでに年々少なくなっているからである。この10年間は、少数民族地区が改革開放の波を受けて閉鎖的な伝統社会から大きく変化をとげた時期であり、蒲渓郷も例外ではなかった。
1998年から2002年までにチャン族と「西番」諸集団の研究のために筆者が訪れた調査時期、調査地、調査テーマは、以下のようである。
(チャン族は<チ>、ギャロン・チベット族は<ギ>と記す。調査期間は平均2〜4週間)
1988.11 四川省阿?州茂県県城・三龍村:<チ>「羌暦年」、民族間関係、民間伝承
1989.02 四川省阿?州茂県赤不蘇区中心村・大瓜子寨:<チ>春節行事、生活文化
1989.03 四川省阿?州茂県雅都郷赤不寨村:<チ>火葬
1989.05 四川省阿?州?川県龍渓郷:<チ>宗教信仰
1990.08 四川省阿?州馬爾康県卓克基郷納足村等、小金県結斯郷大?村等:<ギ>
1991.02 四川省平武県白馬郷羅通?村等、南坪県下勿角郷馬家村等:白馬チベット族
1991.09 四川省北川県青片郷尚武村等、黒水県維古郷色爾古村等、西爾郷麻窪村、茂県黒虎郷小河?村等、?川県雁門郷羅布寨村、綿池郷羌鳳村、?川県三江口郷河?村:<チ>家族、経済活動、生活文化
1993.08 四川省阿?州理県蒲渓郷蒲渓村・河?村:<チ>家族、経済活動、年中行事
1994.03 四川省阿?州理県蒲渓郷蒲渓村、茂県渭門郷拿朴村:<チ>「ガル」
1994.08 四川省甘孜州康定県六巴郷六巴村・麦崩郷磨子溝村・沙徳郷生古村、冕寧県聯合郷庄子村:クィリャン、アールゴン、ミニヤック、アルスー
1995.03 四川省阿?州理県上孟郷塔子村等:<ギ>
1996.08 四川省阿?州理県蒲渓郷蒲渓村・河?村:<チ>
1997.09 四川省甘孜州丹巴県巴底郷木爾洛村・水?村、金川県馬爾邦郷馬爾邦村、金川県沙耳郷山?子村・観音橋郷青斯?村:<ギ>
2000.09 雲南省麗江県:(ナシ族)、プミ族
2001.03〜04 四川省涼山州木里県桃巴郷桃巴村等、水洛郷東拉村等:プミ・チベット族
2001.07 雲南省蘭坪白族普米族自治県河西郷?花村:プミ族
2001.09 四川省涼山州冕寧県和愛郷廟頂堡村:ナムイ・チベット族
2002.03 四川省阿?州理県蒲渓郷蒲渓村・河?村、甘堡郷熊耳村:<チ>
(2) 構成
本研究の章編成は、2つの課題に対応して構成されているが、特にチャン族と「西番」諸集団に関する基礎的研究を中心に論を展開している。基礎的研究を重視するのは、これらの民族集団については現況の調査が十分であるとはいえず、特に「西番」諸集団については未調査の地域あるいは集団がなお存在していると思われるからである。
本研究は、序章と本文8章、結語からなる。序章では、対象民族に関する先行研究の整理と問題点を指摘し、本研究の課題と方法を述べる。第1章から第5章まではチャン族研究、第6章から第8章までは「西番」諸集団の中で筆者が調査し、すでに論文発表したギャロン・チベット族、プミ・チベット族およびプミ族、白馬チベット族に関する基礎的研究をまとめている。
第1章では、従来の研究成果や近年続々と刊行されている県志類、筆者の第一次資料などから得た最新の統計資料を加えて、チャン族について人口移動や自然環境、生業、衣食住、年中行事、葬式などから概説し、伝統的な生活文化とその変化について分析する。
第2章から第5章までは、理県蒲渓チャン族郷蒲渓村と河?村を事例としたチャン族研究である。第2章では、チャン族における集落の形成と特質および運営について、宗族組織や婚戚、習慣法などから分析する。第3章では、蒲渓郷における人口移動の様相と背景を、1990年代前半までとそれ以後の「天然林保護」・「退耕還林」政策が実施された時期とに分けて分析し、チャン族における人口移動の過程と要因を考察する。
第4章では、改革開放後の経済活動の変化を、豊かになった河谷集落と貧困から脱しきれない山腹集落の状況を比較し、格差形成の要因と背景を分析し、今後の展開を考察する。第5章では、チャン族における民俗文化の変容と意識の変化を、蒲渓村における年中行事の人民共和国成立前から近年にいたるまでの変化や伝統の祭り「ガル」の機能と特質、その変容などから明らかにする。
第6章から第8章までは、「西番」諸集団に関する基礎的研究である。第6章は、ギャロン・チベット族の民族集団としての特徴を、伝統文化や経済活動、家族生活の変化から考察する。第7章は、白馬チベット族について、生活文化や春節行事から自民族意識の内容と伝承のあり方を考察し、改革開放後の激変する中国社会の中で彼らが自民族意識をもちながらどのように生活の変化に対応しようとしているのか、変化の大きい経済活動との関連から分析する。
第8章は、同一の祖先と言語をもつプミ語集団がチベット族とプミ族という2つの異なる民族に分かれるに至った過程と歴史的要因、両者の違いと共通点について、両者の移動の歴史と民族間関係、家族関係と家庭経済、年中行事と信仰などの側面から考察する。
結語では、第2章から第8章をふまえて、「羌」系文化の存在について言及する。
巻末の研究文献目録は、2002年までに発表されたチャン族と四川チベット族、プミ族に関する中文、日文、欧文の図書、論文、報告および資料等をできるかぎり収録した。
各章の初出一覧は以下のとおり。本書に収録するにあたりそれぞれを部分的に書き改めている。[松岡正子『チャン族と四川チベット族 中国青藏高原東部の少数民族』(ゆまに書房
2000年)は、『チャン族と四川チベット族』2000と記す]
序 章 一部書き下ろし、「先行研究とその問題点」『チャン族と四川チベット族』2000
第1章 「チャン族の概況」『チャン族と四川チベット族』2000
第2章 一部書き下ろし、「四川省阿?藏族羌族自治州理県蒲渓郷蒲渓村における変化の諸相」『チャン族と四川チベット族』2000
第3章 一部書き下ろし、「中国・少数民族における改革開放後の人口移住──四川省チャン族を事例として──」『岡山大学大学院文化科学研究科紀要』第16号 2003.11
第4章 「四川省阿?藏族羌族自治州理県蒲渓郷蒲渓村における変化の諸相」『チャン族と四川チベット族』2000、「中国・少数民族における改革開放後の人口移住──四川省チャン族を事例として──」『岡山大学大学院文化科学研究科紀要』第16号 2003.11
第5章 「四川省阿?藏族羌族自治州理県蒲渓郷蒲渓村における変化の諸相」『チャン族と四川チベット族』2000
第6章 一部書き下ろし、「ギャロン・チベット族における変化の諸相」『チャン族と四川チベット族』2000、「四川チベット族地区における漢族の移入──漢方薬原料の産地にて」『流動する民族──中国南部の移住とエスニシティ』平凡社 2000
第7章 「白馬チベット族の暮らしと春節行事」『チャン族と四川チベット族』2000
第8章 「「西番」におけるプミ語集団──四川桃巴プミ・チベット族と雲南?花プミ族を事例として──」『民族の移動と文化の形態──中国周縁地域の歴史と現在』風響社 2003
註
1)「羌」の文字については、殷代の都墟(河南省安陽県)から発見された亀甲獣骨の卜辞に「上が羊角で下が人」を表した「
、 」などの文字があり、これが当時、商国と敵対し、捕虜となって人身犠牲にされた「羌」であるとされる。また「羌」は史料では国名や地名も表した[徐中舒
1983:416-418]。清・段玉裁『説文解字注』巻4「上釈羌」には「西戎牧羊人也」とあり、古代の「羌」はこれによって説明されることが多い。
2)費孝通は、甘粛から四川、雲南、西藏に広がる青藏高原東部の6つの大河流域──岷江、大渡河、雅?江、金沙江、瀾滄江、怒江が歴史的に古代諸民族が南下した移動経路であったことを指摘し、この地を「民族走廊」となづけた。現在、この一帯に移住するチャン族やチベット族、プミ族は形成の歴史や言語系統が複雑であり、共通の「羌語支語言」(漢・チベット語族チベット・ビルマ語群チャン語系言語)の存在も指摘されている。また四川省「平武藏人」(白馬チベット族)のように、自らをチベット族ではなく、独立した一つの民族集団として、民族識別の再検討を求める人々もいる。(1978年9月に政協全国委員会民族組会議での発言を『中国社会科学』1980年第1期に発表)[黄光学主編『中国民族識別』北京:民族出版社
1995:342-345]
3)または『西番館訳語』。明・永楽5年(1407)に『華夷訳語』編纂のために韃靼・女真・西番・西天・回回・百夷・高昌・緬甸の諸館が設立された[西田
1970:7]。『華夷訳語』とは「明代四夷館および清朝の四訳館において編纂された中国近隣諸族の言葉と漢語との一連の対訳単語集(いわゆる雑事)」で「文例集(いわゆる来文)」が付されている。『華夷訳語』に関しては山崎忠(1953)「我が国に於ける華夷訳語研究史」(『朝鮮学報』第5輯:45-58)および補遺(同第6輯:163-165)に詳しいとある[西田
1970:3]。
4)宋・余慶遠『維西見聞紀』に「巴苴又名西番、亦無姓氏。元世祖取?渡自其宗随従……板屋棲山、麼些頭目治之、男挽総髷、耳帯銅環、自建設以来亦多剃頭辮髪着衣服同於麼些、婦人辮髪為細披於後三年一櫛棗大瑪瑙珠掌大車轢各一串行曉於頂垂於肩乳、行則縦爭之声不絶、頂覆青布、下瓢両帯衣盤領及腹君如鐘、掩膝不著袴廉骨占而跣足頗能習悦縫領之工事、婚葬信佛與麼些無異、惟兄弟死嫂及弟婦置於一入俗頗劣於麼些」とありモソ人の習俗に近いことが記されている。なお『皇朝職貢図』のプミ族の図は[李沢奉・劉如仲編著
1997:268-271]にみえる。
5)西康省は、現在の四川省の甘孜藏族自治州、涼山彝族自治州、雅安地区、攀枝花市および西藏自治区の昌都地区を含む地域に民国28年(1939)に建省された。チベット語カム方言を使用するカム・チベット族が主として居住する。民国時代の西康行政督察区(旧川辺特別区)と四川省第17、18行政督察区にあたり、民国16年(1927)には西康特区臨時政務委員会が設けられた。中華人民共和国成立後は、1950年に金沙江以西が昌都地区となり、1955年には西康省が撤廃された。金沙江を境に東側が四川省に、西側の昌都地区は西藏自治区に入れられた。
6)チャン族が固有の文字をもたないことについては、つぎのような伝説がある。史詩「羌戈大戦」[羅世澤・時逢春整理
1983:85-86]によれば、チャン族の九兄弟の長男「阿巴白構」は天界の使者「牟尼委西」に経書を授けられ、固有のチャン文字を獲得した。しかし彼が寝いっている間に白山羊に経書を食べられてしまい、チャン族は文字を失ってしまった、という。よってチャン族の精神文化は「シピ」の経文に集約され、口頭によって伝承されてきた。また中国王朝の支配を受けて以来、政府機関や教育の場では漢語が公用語となり、漢字が使用されている。しかし黒水県や茂県赤不蘇区では現在もチャン語北部方言を日常語としているために小学1年からの漢語教育にはかなりの困難があり、就学率低下の原因のひとつともなっている。そこでこれらの地域では、入学前に6〜7歳の未就学児を集め、まず初歩的な漢語の聞き取り能力を身につけさせている。また黒水県では、1958年頃には漢語の小学校教師がチャン語をまず習得して、小学生の漢語学習の助けとしたこともあった[孫宏開
1994:810-812]。
7)「西番」については、民族史からの研究もある。任乃強は、これを羌の遺裔で、大渡河や雅?江、金沙江、瀾滄江流域に居住して隋代には附国、嘉良、東女をたてたとし[任乃強
1984:1-2]、林恵祥も同様に、羌族と藏族の混合で、西康省や四川西部南部、雲南西北部に居住して隋代の附国を興したとする[林恵祥
1937・1990再刊:172]。 |