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《文学ノートV》 『断食芸人』論 インゲボルク・ヘネル著 |
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カフカによれば、人間の生は相反するふたつの運動から成る。第一の運動は彼を本源から生の彼方へと駆り立て、第二の運動は彼を本源へと押し戻す。人間はこれらの運動のいずれにも自分を完全に委ねることはできない。というのも、一方は彼を人間性の限界の彼方、つまり生から外へと狩り立てるのに対して、他方は彼を遥かその本源にまで押し戻し、その結果彼は再び動物になってしまうからである、という。カフカは、生の矛盾性に関するこの見解を様々な形象や。メタファーを使って表現しようとした。「下方からの襲撃」と「上方からぼくに向かって来る襲撃」を話題にしたことがある(T553)一。あるいは、ふたりの敵について、「第一の敵は彼を背後から、つまり本源から彼に急迫し、第二の敵は彼の前方への進路を妨げる」、と語っている(B287)。彼はまた、一方では彼を静かに休ませようとせず、ベッドから追い立てる不安と、他方では重苦しさ、つまり彼がベッドから起き上がるのを妨げる安全であるという感情について記述している(B287)。あるいは、運動――しばしば彼が呼んでいた、狩り――のメタファーの代わりに、対立的な領域へ繋がれているという形象を用いたこともある。
すべての生を規定している二つの対立しあう運動・力・本能、あるいは願望の葛藤は、自分自身で経験しただけに、カフカの場合には極めて重要な役割を果たしている。「世界の外へ」向かおうとする自分自身の性向について、父親が彼に自分の世界の中で、すなわち家庭の中で生きることを許さなかったからだ、とカフカは説明している(T564)。しかし外の別の世界で、つまり彼が「荒地」・「追放の地」と呼んだ場所で、故郷への憧れに、「カナーン」への憧れに生涯にわたって苦しまなければならなかった。苦悩と天分のゆえに彼は天上の市民となったのであるが、他ならぬ彼が願ったのは地上の市民となることだった。表面的には敢えて家庭から逃れようとはしなかったが、しかし内面的には彼はひとり追放の生活を送った。この緊張のために彼は身を磨り減らしていったのである。 カフカの作品はすべて生の矛盾性を、しかもその時々においてこの矛盾性の一定の局面を扱っている。カフカがこのテーマを最も完全に、しかも最も体系的に(と、ほとんど言うことができよう)追求しているのは、後期の優れた短篇『断食芸人』である。ここでは生の外へ出ていこうと望む欲求は、断食芸人自身によって、つまり彼が通常の糧に対して抱く嫌悪とこの嫌悪から来る果てしなく断食をしたいという願望とによって具現されている二。これとは逆の生命的欲求とも呼び得る欲求は、猛獣たち、特に最後に残されていた断食芸人の生命力が尽きたとき、これまで占めていた彼の地位を奪う豹が体現している。この両極間を動揺する観衆には、断食能力も動物の生命力も備わっていない。刺激への欲求が、最初は断食芸人の檻へ、後には猛獣の小屋へと観衆を駆り立てる。 カフカは、『断食芸人』以外のところでも、生の超越という思想と糧のメタファーとを結合させている。『断食芸人』では、断食はその否定的な側面からのみ――通常の糧に対する嫌悪として――描かれているが、別の個所では断食は積極的な意味を持ち、別の糧への要求、「真」の糧への要求を表している。断食の意味を正しく理解するには、まず断食芸人の断食と積極的な断食とを比較対照しなければならない。日記の中でカフカは次のように語っている。父によって生まれた土地から排撃され、故郷の大地からの糧を断たれ、「荒地」で別の源から、自分の糧を引出すこと(T556)、すなわち糧を非地上的な領域に求めることを学んだ、と。「食べることのできる糧」、「呼吸のできる空気」、「自由な生」は今では「生の背後」にある(T572)。生の内側では糧は嫌悪を引き起こし、空気は重苦しく、自由は存在しないように彼には思われる。 「食べることのできる糧」の探求は、カフカの最後の物語『ある犬の探究』――彼は『断食芸人』と同じノートの数真後にこの物語を書いている三――の主題でもある。ここで扱われているのは、通常の「大地の糧」とは逆に、「上方からやって来る糧」を求めるある犬の探求である。その存在、由来、性質を知るために犬はすべての通常の糧を拒む。しかし真の糧は、それを求めて断食をする者には齎されない。従ってもし狩猟犬が彼を生へと押し戻さなければ、彼は餓死しなければならないだろう。カフカは、人間を自己の彼方へと追いやる力を「狩り」だと語っている。それは彼の内部をかけ抜け、彼をひき裂き、もしそれに従って行けば、「最後の地上の限界」にまで彼を連れていくだろう(T553)。狩猟犬は逆の狩りを体現していて、これが犬を生へと押し戻すのである。生があるところでは、「狩り」は二つの方向に向かう。狩りのメタファーはそれ故、人間は終始狩り立てられていて決して安らぐことはできない、ということを表現している。彼は、確かに犬のように、片時一方の狩り立てに運ばれて行くことはできる、だが限界のところまで来て、彼が生にとどまろうとすると、逆の狩りによって引き戻されなければならない。しかも彼は、犬と同じように、ひとたび地上的な限界にまで狩り立てられると、二度と生に打ち勝つことはできない。 その犬は何の変哲もない犬である。彼を「上方から」降ってくる糧の探求へと狩り立てるのは、彼の本性では なく知識欲である。通常の糧に対する飢餓〔欲求〕が彼に欠けているわけではない。これとは逆に、断食芸人にとっては断食は本性であり、彼が断食をするのは性向からである。彼にとって普通の食物は、犬と同じように、すこしも彼の気をそそるものではない。それどころか吐気を催させさえするのである。彼がもし自分の性向に従えば、たちまちにして餓死せざるをえないだろう。だが彼は最初は生に留まっている。彼を生に引き留めておくのは、彼の芸術である。従って、カフカにとって芸術家のあり方とは、生を超越することでもそれを拒否することでもなく、断食をすることによって生から抜け出たいと願いながらも、生を主張することである。カフカにとって、芸術は、例えばトーマス・マンにとってのように、生に敵対するものではなく、――ニーチェにおけるように――生を持続するために奉仕するものである。自己を超え出ようと努力する一方で、同時にこのように努力するものとしての自己を確立しようとする生の逆説性は、芸術において最もはっきりと表される。それ〔芸術〕は、断食によって生きる可能性、生の超越から生のための力を得る可能性――カフカにとってはおそらく唯一の可能――である四。断食は確かに生を破壊するが、しかし生の「瓦礫」の中から他の人間にとっては未知なままの、何か新しいものが姿を見せる(T545)。そこから例えば、断食芸人が「果てしなく」断食できる不可思議な「溢れるほどの力」が生まれてくる(T531)。この新たなるものがカフカの諸作品の対象を提供し、この力が彼の芸術家としてのあり方を可能にしたのである(T530f.)。 犬にとっては断食が努力と功績を意味しているのに対して、断食芸人の場合にはそれは本性である。ところが、自分の断食は業績であると偽ることによって、彼は自分の苦悩は美徳であると主張し(B284参照)、その為に真理を欺くという罪を犯すことになる。純粋断食は、それが生から外へ導くものである限り、決して生きることはできない。人間が生に留まろうとする限り、断食は芸術に転化されざるをえない。だが芸術は実際には苦悩への従属、ひとつの必然であるのに、業績として、能力として認められることを要求する。これが断食芸人を苦しめている欺瞞であり、カフカ自身、芸術家としてそれを犯していると感じていたものである(Briefe397)。彼自身は、自分の作家としてのあり方のうちに、芸術的な成果よりも、むしろ絶望と狂気とに対する救いのほうを見ていた。しかも、書くことのために他のすべてのものを犠牲にしてきたという事実を、彼は功績としてではなく、自分の弱さの現れだとみなしたのである(T420)。芸術家としても、しかもまさしく芸術家としてこそ、カフカが弁護したのは芸術家の立場ではなく、世界の立場であった。彼は、ひとりの芸術家として稀なことであるが、芸術からその優れた業績としての威信を剥奪して、芸術が苦悩であることを曝露した。短篇『断食芸人』もまた、これまで言われてきたように、芸術家を正当化するものでも、世界に対する批判でもなく五、カフカのすべての作品と同様に、自己告発である。それは芸術の弁明ではなく、芸術に対する有罪宣告である。このことを理解するならば、カフカが何故自分の作品を破棄するように指示したか、ということも理解できる。彼にとっては、それらの価値は彼を生に引き留めておくという機能にあった。従ってこの機能は、彼の死とともに無効になったのである。しかし芸術作品自体としては、彼はそれらを虚偽の産物とみなしていた。 それにしても、人間が対立する諸力の闘争の場でしかないとするならば、その場合彼はいかにして自分自身の現実性、同一性を確証することができるのだろうか。カフカは絶えず自分の自我の探求――彼自身感じていたように、虚しい探求――に執着していた。なぜなら、対立する欲求によってひき裂かれた自我は、極端から極端へ、限界から限界へと狩り立てられ、それを把握することのできるような中心を欠いているからである。意識は、常に狩り立てられる自我を求めて、狩りに出かけている。
ここに再び現われる狩りのモチーフが、カフカにおいて極めて重要なのは、それが二重の役割を果たしているからである。すなわち、それは、互いに対立しあう力によって人間が狩り立てられている、ということの表現であるとともに、決して獲得することのできない自我を求める意識の探求を表現するものでもある。厳格な分析家、鋭い観察者として、カフカはこのような内面的状況を完全に意識していた(T576)。彼はそれに苦しみ、同時にそこから自分の仕事の素材を引出してきたのである。自己を見出すことができないという絶望、同一性を失ってしまったという不安の中で、人間は自分の同類へと向かう。彼は自分の内部に見つけることのできない、自分自身についての確証を外部に探し求める。サルトルは『存在と無』の中で、このような試みについて詳細に記述している。だが彼は、究極的にはそれは虚しいものだと見なしている。カフカもまた早くも(一九〇七年に)、自分自身では自分の人生について確信が持てず、そのために「人々に見られること」(E13)を人生の目的にしてしまった『祈る男との対話』の中で、それを描いている。祈る男は、断食芸人のように自分を見世物にし、観衆の注意を自分に引きつけようとする。彼にはこれ〔観衆の注意〕がなければ、自分の実在性を確信することはできないし、世界の現実性を確信することもできないからである。断食芸人と同じように、彼は哀れむべき人物である。哀れむべきというのは、生の必要にせまられて自分を見世物として曝し、それによって倒錯に陥ってしまうからである。というのも、自己を顕示するものはすべて、人間も事物も、『祈る男』に言われているように、自分の美と安らぎとを失うからである。見世物として曝されるものは決して真の本質ではない。なぜなら、真の本質は現れ出ることを拒むからである。カフカは作家として、真理はただ言葉に出しただけで歪められてしまう(T161)、と度々訴えている。祈る男が祈りを見世物とすることによって、そしてまた断食芸人が断食を見世物とすることによって、彼らの真の本質を裏切るように、歌姫ヨゼフィーネもまた自分の歌によってそれを裏切る。彼女については、「われわれが彼女に耳を傾けるという事実が、彼女に対する反対表明だという認識からヨゼフィーネが守られていますように」(E279)と言われている。 人間と事物は自分自身の内部において安らぎつつ、ただ存在するというだけではなく、自己を顕示するものでもある。ここから、現に存在するものについての確信のなさ――『祈る男』で言われているように、「しっかりとした大地の上で陥る船酔い」――が生ずる。これは世界全体をぐらつかせるような、存在論的な病気であり、それ故、人間の相対性についての意識といったものでは言い尽くせない。この確信のなさは、カフカのあらゆる作品の背景をなし、しかもいくつかの作品の中で彼は、自己を現出することのできない把握不可能な真の本質と、自己を顕示する可視的な、だが欺瞞的な現存とを対決させることによって、それを明確に示唆している。例えば『祈る男』においては、おやつをめぐるお喋りで、女たちは何か現実的なものを念頭においているのかどうかという論議を通して、『酔いどれとの対話』では、不安定に揺れ動く事物や人間を通して、そしてまた『断食芸人』では、彼の芸術は本物なのかそれとも偽りなのかという問題を通して。その場合、カフカは一貫して、自己を現出することのできない真の本質を、決して示そうとはしない。彼はただ間接的・否定的に、自己を見世物として曝すものの持ついかがわしさを通して、それを暗示するにすぎない――とくに『断食芸人』におけるように。 要約してみよう。短篇『断食芸人』は、まず第一に、断食芸人の断食において具体的に示されているように、生を超越しようとする人間の欲求と、猛獣たち、究極的には豹において象徴的に描かれている生命的欲求との対立を普遍的なテーマとしている。第二に、生から外へ向かおうとする欲求が、生のただ中において現れ、断食芸人の芸術家としての職業において、その欲求が実行に移されるという芸術家性の逆説を特殊的なテーマとしている。そして第三には、仲間によって自己を確証してもらうために、実存の苦悩に迫られて自己を放棄するという、実存の確信のなさ――これは、断食芸人が自分を見世物として曝す点に表現されている――をテーマとしている。後の二つのテーマは、芸術であると同時に見世物でもある断食芸人という職業の中で、ひどく融合されてしまっている。だが、『断食芸人』の三重の問題性を理解するには、それらを互いに区別しなければならない。 テーマは難解で錯綜し、しかもそれらのテーマのいずれもがひとつの逆説に基づいていて、これを突破するごとに常に新たな逆説に突き当るというのが事実である。にもかかわらず、物語は古典的な明澄さを具えた芸術作品という印象を与える。これは、テーマがまさに体系的に首尾一貫して追求されていることによるものである。物語を構成する二つの部分。第一部ではふたつの欲求、つまり断食願望と生命的欲求はまだ断食芸人自身の中で一体となっている。確かに断食願望のほうが遥かに優勢ではある、しかし表面的な成功を収めることで、断食芸人にはまだ十分な自己確信が得られ、自分のあげた「業績」から得られる喜びが、彼から実存の疑問性を覆い隠している。その結果、生は彼にとって、必ずしも価値を失っているわけではない。しかも彼には、芸術の成功を時折享受することさえできるのである。物語の第二部では、それに対して、断食芸人は純粋断食へと向かう。観衆はいなくなり、彼の表面的な実存を肯定するものはない。つまり、断食「芸人」から純粋断食者が誕生することになるのである。生命的領域はいまや断食芸人の外部に、その極端な形で、つまり観衆を自分のものとした猛獣という形をとって現れる。断食芸人が人目を引くのは、せいぜい否定的な仕方で、つまり小屋へ通ずる通路の妨害物としてにすぎない。そして最後に、断食芸人が断食によって死を遂げる時、彼の対立項として純粋生命力を具現する豹が登場する。作品全体を通して、断食欲求と生命的欲求との総和は等しく保たれている、と言える。このことが、テーマの解決不可能な逆説性にもかかわらず、物語に均衡を齎している。 物語の第一部では、生命力は芸術によって表わされている。協食芸人を生に引き留めているのは、この芸術である。だが、芸術は、それが生を保持する度合に応じて、同時に真理を歪めてもいるのである。しかも、芸術が見世物へ堕落するに従って、真理の倒錯はますますひどくなる。見世物が成功を博せば、それだけ真の断食はますます困難になっていく。断食と芸術、もしくは見世物との総和はつねに等しく保たれている。表面的な成功の最高潮、偽りの栄光に彩られた祝祭は、同時にまた断食者のどん底でもある。断食芸人は、彼が上げた業績の「報酬」として、断食を中断することを余儀なくされる。物語第二部ではそれに対して、もはや誰ひとり断食芸人に関心を抱く者もいなくなり、観衆の数は減り、彼は自分を見世物にすることができなくなる。その時になってやっと、彼は純粋断食のために生きることができるようになる。自分の上げた最大の業績に対して、もうどんな報酬も強いられることはない。死の際で、彼はついに自分の芸術を断念し、同時に生をも断念して、真理へと回帰して行く。彼は、自己の本質と一体となり、自分の犯していた欺瞞を告白することができる。真理と生の総和は、 依然として等しく保たれている。 その時々の対立物の総和は、常に等しく保たれている。この点に全く数学的とも言えるほど厳密な物語の構造が見られるだけでなく、他の全ての対立物の根底にある対立、すなわち真理と生との間の対立についてのカフカの非妥協的な考えも示めされている。生は真理を犠牲にし、逆に真理は生を犠牲にする。手記『彼』で言われているように、人間は生きることによって、真理への道を自ら塞いてしまう(B280)。もし彼が真理に辿り着こうと望んでいるのなら自分自身を破壊しなければならない(H80, 107)。カフカにとって、生と真理は互いに排除しあうものである。だがこれをニヒリズムとして理解してはならない。なぜなら、人間は真理から隔てられ、虚偽へ駆り立てられるにつれて、ますます真の自己からの疎外に苦しみ、彼の内部に真理の意味についての意識が、ますます強まっていくからである。だからこそ「苦悩は世界の肯定的な要素」なのであり、「しかも、この世界と肯定的なものとを結びつける、唯一の絆なのである」(H108)。だが、肯定的なものが勝利を収めることができるとすれば、それはまず否定的なものを否定することによってであり、真理が勝利を収めるためには、生を破壊しなければならない。断食芸人の言葉を使うなら、偽りの糧を完全に拒絶することによってである。従って、カフカが、「否定的なことを行なうことが、まだわれわれには課せられている。つまり、肯定的なものは、すでにわれわれに与えられているのである」(H83)と書くとき、彼が言っているのは、真理意識は苦悩を通して我々に与えられているが、生を破壊することによって真理を達成するという課題が残されている。ということである。カフカの逆説的な発言と形象とが、生の矛盾性に関する彼の認識に明晰性と具体性とを与えるのに役立っている。彼の作品で問題とされているのは、しばしば主張されるように、彼が概念で捉えることができなかったから、夢のようなヴィジョンによって暗示しなければならなかったと言われるような暗い曖昧な観念などではない。むしろカフカの逆説は、たとえ合理的な事柄に関する発言ではないとしても、〔それ自体は〕極めて合理的な発言である。断食によって生きる人間という逆説にも明断な認識が含まれている。カフカはこの認識を物語の中で一貫して発展させ、反定立から反定立へ、そして最後には矛盾を二つの部分、つまり純粋断食と生命的生へと分解させた。従って、物語に古典的作品としての性格を与えているのは、ただ単に厳格な構造ばかりではなく、その根底にある思想の一貫性と明瞭性もまたそうである。 断食によって生きようとする人間は、彼の性向からひとつの芸術を、そしてまたその芸術から職業を生み出さなければならない。従って、差当っては生を保持する手段である職業が、最後には生の目的となるのである。祈る男と同じように、見られるということが断食芸人にとっても生の目的となる。カフカは職業をいつの場合にも極めて両義的なものとして提示する。サルトルの場合と同様に、それは人間が演ずる役割であり、従って自分の本質を実現し、自分の使命を成就するというのとは全く別のものである七。『城』においてカフカは、職業の持ついかがわしさと、使命に対する職業の両義的な関係とをテーマとした。測量師は自分の職業を遂行することに固執すればするほど、ますます自分の使命を確証できなくなっていく。職業においては人間は充足されず、自分の使命から疎外される。彼は疎遠な秩序に組み込まれ、疎遠な諸条件の下に置かれる。断食芸人は、こうして、職業上の成果を収めるための諸要件に従って、彼の生を調整する興行主に従属している。四十日間の断食期間、祝祭、それに続く休息期というリズムは、断食芸人の本性や意志によるものではなく、観衆の受容能力に合わせられている。芸術家としての断食者の生がすでに真理を欺いているとするなら、興行主による断食芸人の興行はさらにその上に欺瞞を重ねることになる。祝祭は、興行主には成功の頂点であり、観衆にはセンセーションの頂点であるが、断食芸人にとっては苦痛のどん底である。断食を解いて濫から解放されることは、断食芸人には、吐気を催す糧への強制と疎遠な世界へ引き渡されることを意味している。しかし、断食芸人にとって自分の人格に加えられる暴力以上に堪え難いのは、彼の使命をめぐる疑念である。彼の悲哀は断食によって引き起こされる(ところが実際には、それは断食の中断によるものなのであるが)などと主張されると、彼は大衆の無理解に対する絶望に捉えられ、「獣のように」怒り狂って鑑の格子をガタガタ揺するのである。通常の人間の場合には生きる勇気を奪ってしまう絶望が、断食芸人の場合には彼を荒れ狂う生へ駆り立てる。ただ一瞬、断食そのものの価値が否定される時に、断食芸人の中から彼が普段は所有していない生命力が噴出する。獣のように怒り狂い、獣的なものを一切拒否する断食を彼は弁護しようとするのである。この個所で、カフカは断食によって生きる者の逆説を極端にまで押し進め、最高度にイローニッシェな状況を創造している。 実存の両義性は、断食芸人という職業においてと同時に、この職業が営まれる場においても明らかとなる。カフカの場合、檻が果たす役割は常に両義的である。それはただ単に人間とか動物を捕えておくためのものというだけではなく、彼を守るためのものでもある。カフカは、自分の獄房は自分の要塞だ、と語っている(H421)。断食芸人は自発的に艦の中に留まるのであって、そこを去ろうという考えは浮ばない。断食期間が終わる度に、彼は暴力的にそこから追い出され、疎遠で無理解な世界へ追い立てられる。だが檻の中で自由なのは、つまり、自由に断食できるのは断食芸人だけではない。豹についてもカフカは、豹は檻の中で自由を失うことはない、歯列の間にそれを持ち歩いているからである、と言っている。食慾を満足させようとする自由、これはたとえ檻の中でも制限されることはない。しかも、自分自身を実現する自由は、そもそも獄舎という避難所の中でのみ与えられているのである。 しかしまた人間が檻を求める理由は、自由が彼に課すところの責任を、それが取り去ってくれるからである。「彼」(カフカ)が不平をこぼすのは、檻のことではない。〔その檻の〕格子の目が粗いために、彼が檻を出て行ったり、世界が檻の中へ侵入して来るのを防いでくれない、ということに対してである(B279)、という言葉はこのように理解されるべきである。断食芸人もまた、檻を出て行きたいという願いは少しも持っていない。その理由は、ただそこでなら自分を実現できるからというだけではなく、彼は檻の外の自由を怖れているからでもある。この種の恐怖から狂言が生まれくる。それ故、断食芸人は断食に「狂信的に」没頭している、と述べられているとしても、これは決してイロニーではない。それが意味しているのは、断食芸人は檻にというよりは、むしろ自分の狂信に囚われている、ということである。 その内的状態に劣らず、同じ人間たちに対する断食芸人の関係もまた錯綜している。一方では彼は興行主、監視人たち、観衆の無理解に苦しむ。しかし他方では、誤解の責任は彼自身にある。彼は自分の断食は芸術であると主張する。そのために、自分を取り巻く世界に対して両義的な関係に立つことになる。この両義性からその先の全ての誤解が生じて来る。観衆および監視人たちは、まったく正当な感情として、断食芸人には少しおかしいところがあると考える。だが彼らには、彼の断食欲求というものを同じように感じることはできないので、断食芸人は何かごまかしをしているのであって、実際には四十日も断食などしていないのだと信じている。この不当な疑念が、断食芸人が実際に犯している欺瞞に気づく手掛りを観衆から奪ってしまっている。つまり、断食芸人は自分の苦悩を美徳だと偽り、自然的な欲求を業績だと詐称しているのである。断食芸人はこの不当な疑惑に対して自分を弁護するが、同時にそのことで、彼は自分が犯している欺瞞を更に悪化させる。というのも、もし彼が本当に正直であるなら、観衆に向かつてその種の疑惑自体は不当なものであるが、疑惑を抱くこと自体は正当であると公言しなければならないだろう八。従って、両方が正当であると同時に、不当でもある。しかしそれらが正当であるのは、専ら相手が不当であるという限りにおいてであって、それら自身の真理によって正当であるというのでは決してない。 断食芸人においては断食は本物であって、ただ断食を芸術として提示することだけが誤りである。これと同じように監視人たちの場合には、断食芸人が密かに糧を摂取する機会を与えようとする彼らの善意は本物である。ただこの善意の根拠となっている前提、つまり断食芸人を当然のことのようにペテン師だとみなす彼らのシニズムだけが誤っている。真の断食や断食芸人の偉大さについて、監視人たちも観衆も何も知らない。従ってまた、断食芸人が真実を語る時、つまり彼が断食は自分にとっては苦もないことだと告白する時、誤解は最悪のものとなる。真実は相手の決定的な不信に突き当って、最悪の疑念を引き起こす。それと全く同様に、監視人、観衆、興行主の親切が、断食芸人に最大の絶望を呼び起こすことになる。糧食を取ることができないように、夜密かに投光器で照らされるとしても、それは彼にとってはただただ好ましいばかりである。なぜなら、自分の正直さを証明する機会がそれによって彼に与えられるからである。世界が加える妨害によってではなく、それが彼に示す親切のために、断食芸人には自分はいつか理解してもらえるなどという見込がないことが明らかになる。互いの疑惑や軽蔑によってよりは、むしろ理解し認め合おうとする虚しい努力によって、人間の間の疎隔が明らかになる九。これこそが人間の人間に対する関係を悲劇的にも喜劇的にもするのである。『断食芸人』における誤解は、そこには善意が窺えるにもかかわらず解決することができない、という点では悲劇的である。だがこの善意ゆえに、それ〔誤解〕は喜劇的な効果を及ぼす――悪意は決して喜劇的な効果を出さない。悲劇的であると同時に喜劇的なのは、断食芸人自身さえもが自分の企ての意味を誤解しているという点である。彼は自分のいかがわしい芸術を見世物にし、観衆の賞賛を得ることによって生の確証を得ようとし、成果の得られないことを悲しむ。ところが彼が本当に望んでいるのは、断食によって生から抜け出ることなのである。 『断食芸人』は時代批判として受けとられて来た。すなわち、芸術にいかなる余地も与えず、芸術家を孤絶へと追いやり、芸術をサーカスにまで低下させる社会での芸術家の運命を描いたものとして十。最初のうちは成功を収めながら、やがて忘れられていく断食芸人の没落は、芸術への喜びから刺激に対する欲求へと下落していく観衆の趣味の変化の結果だとみなされてきた。このような因果論的な結びつけ方は、しかし、物語の論理に符合しない。この物語の論理を理解し、時代史的な罠を見抜くには、更に説明を重ねなければならない。カフカは外的世界を記述したのではなく、人間の内面的世界を、「そのすべての経験、見解、願望、夢、思想、喜び、侮辱と共に」描いたのだと、最初に明言したのはフリートリヒ・ヴァイスナーである十一。しかもカフカはこれらのものを、「冷静に観察する心理学者しとして外部から記述したのではなく、内部から、主人公の心から記述したのである、と。マルティン・ヴァルザーはこのヴァイステーのテーゼを完成させ、カフカの作品における「創造された」世界を問題にしている十二。これによって、ヴァルザーはヴァイスナーを更に一歩踏み越えたのである。というのは、「創造された」世界とはある世界の模像でもなければ、内的世界のそれでもないからである(それに観念的世界のそれでもない十三)。『断食芸人』の場合にも、世界は現に存在する世界の模像ではない。従って人間たちが断食芸人に背を向け、猛獣たちへと向かうという事実は、断食芸人の生に起る急転の原因として理解してはならない。むしろそれは、断食によって生きる人間のパラドックスを、その要素へ、つまり純粋断食と純粋の生へと分解するための物語的手段である。観衆の趣味の変化にはいかなる社会学的な発言も意図されてはいない。それは断食芸人が辿る成功を博した芸術家から孤独な断食者への道程が、心理学的発展を表わすものでないのと同じである。観衆の描写もまた、一片の文化史としても、文化批判としても意図されてはいない。家畜小屋へと殺到する民衆は、断食芸人に驚嘆する群衆以上に悪質ではない。カフカが断食欲求と生命的欲求とを、等価のものとして並列するように、観衆が断食芸に対して抱く讃嘆と猛獣の活力に対する喜びも同様である。この矛盾した観衆の態度は、断食芸人の両義的な態度に符合している。一義的なのは子供たちが抱く讃嘆の念だけであり、彼らはまだ虚偽も不信も知らず、奇跡に対する真の戦慄に捉えられる。群衆の行動はそれ故、断食芸人の運命に対して平行関係にあるのであって、これと因果的に結びついているわけではない。主人公とその対極としての観衆との間には、いかなる原理的な対立も存在しない。後者が前者に較べて一層悪質であるということにはならない。つまり、観衆は、芸術家の真の存在に対して、世界の仮象的な存在を表しているというのではない十四。いずれもが真理から疎隔されていて、虚偽に囚われている。この意味で、断食芸人はすべての人間にとってである。 断食芸人は、最後にはサーカスに避難所を求めざるをえず、もはや「自分の演出で」舞台に登場することはできなくなる。このこともまた、次第に増大する芸術無視に対する批判とか、成功を博すことのない芸術家のといったふうに理解すべきではない。なぜなら、断食芸人が得ていた一般的な評価は、彼の本質についての誤解や、興行主の欺瞞に基づくものであり、従って、それはいかがわしい成果でしかないからである。人々に忘れられて初めて、断食芸人は自分の真の本質に従って生きること、すなわち断食することができるようになる。観衆が浴びせる拍手喝采は、それ故、芸術家にとって必要な激励というよりは、誘惑であり、彼が辿る孤独化は、悲しい運命というよりは、自己実現のための必然的な前提条件である。カフカは、〔物語に〕不整合を招くというような、言うなれば借金を背負いこむようなことはしなかった。彼がサーカスを選んだのは、社会学的状態を描写し、批判するための取引の場としてではなく、断食者を獣の近くにまで移し、そうすることで断食と土とを対置するためである。カフカにとって問題なのは、現実主義的な物語作者の場合のように、ひとつの出来事を動機づけることではなく、ひとつの内面的論理を描写することである。 フリートリヒ・ヴァイスナーによる、第二の重要な確認、すなわち彼は、カフカが物語るのは主人公の立場からであって、事件の外部、あるいはそれを越えたところに位置する語手の立場からではない、ということに気づいた。それによって、読者はあらゆる事件を、主人公と共に体験することになる。彼は主人公以上に多くのことを知っているわけではなく、主人公と一緒になって、世界の中での自分の正しい位置を見つけようと、暗闇の中を手探りしていくのである。この点でも、ヴァイスナーを受け、その主張をさらに明確に規定し、基礎づけたマルティン・ヴァルザーは、語り手と主人公の「一致」という語を用い、その物語技法上の含意を探っている。その場合彼が論拠としているのは、主に『審判』と『城』である。確かに、カフカの全ての作品は、たとえこれらふたつの小説ほど首尾一貫しているわけではないが、主人公のパースペクティヴから語られている。しかし例外もまたある――このことをヴァイスナーとヴァルザーは気づかなかったのか、論じていない。その決定的な例外は『断食芸人』である。これは主人公のパースペクティヴからではなく、独立した語り手のそれから語られている。『ヨゼフィーネ』についても同様である。ここではしかも、主人公は更に広い視野から、批判的な語り手によって記述されている。この種の物語では、世界は主人公から独立して存在しており、従って完全に等価的な対立項となっている。ところがそれに対して、『審判』、および『城』においては、世界は主人公によって創造された世界であって、この世界が彼を妨害し、それに対して彼が自己防衛をする、というようなものではない。『断食芸人』では、世界と主人公とはその根拠を第三の点、すなわち語り手の内に置かれ、彼はこれら両者〔世界と主人公〕を同じように創造し、操っている。さらに付言しておくなら、ここから、『断食芸人』および『ヨゼフィーネ』を特徴づけている特殊なイロニーが生まれてくる。すなわち、それは、この場合主人公からも他の人物たちからも同じように離れている語り手の距離から生まれてくるのである。 主人公のパースペクティヴから語られる物語では、主人公自身が外から見られることはありえない。その点でも『断食芸人』が占める特別な地位といったものが窺える。ここでは主人公は、大抵のカフカの主人公たちとは逆に、詳細に描写されている。
と、断食芸人は物語の冒頭で、ひとりの人間としてというよりは、捕えられた獣として描かれている。やがて四十日の断食期間が過ぎた後で、こう語られている。
肉体的なものはその完壁なまでの貧弱さという点で、もはや人間的なものとしてではなく、かろうじて肉体的なものとして表されている。これは内部から体験されたり、主体の立場から描写することのできないものである。これと対立的な物語技法をカフカは『変身』において追求した。しかもそれには充分な理由があった。甲虫の種類とか外観については、それらがカフカのだれか他の人物よりも重要であるにもかかわらず、一言も言及されていない〔注十五〕。カフカは甲虫の挿絵を載せることにきっばりと反対している(Briefe136)〔注十六〕。そのような絵は物語全体をだめにしてしまう、というのである。なぜなら変身したグレゴールの実存は、グレゴール自身がそれを内部から感じ取るか、外界の反応からそれを読み取ることができる限りにおいてのみ表象し得るものだからである。その事実性はあくまでも問題的でなければならず、特にグレゴール自身にとって問題的でなければならない。それ故『変身』の物語が、変身者自身によって語られているのは適切である。これに対し、自分を人々に見てもらうことを職業とする断食芸人は、グレゴール(あるいはヨーゼフ・Kや測量師)とは逆に、我々の目の前にはっきりとその姿を表している。従って、彼の姿を記述通りに模写することは可能である。 カフカにとっては通常とは違ったこの物語技法のもうひとつの結果は、事物と人物とが『断食芸人』においては明確に認識でき、事象を容易に追跡することができることである。世界は、探し求め、過ちを犯す主人公の眼で見られるのではない。従ってそこには、普通カフカにおいて見られる事物をただ漠然としか認識させないような暗闇とか、重苦しい空気、あるいは吹雪、余りの近さとか、途方もない遠さといったものが支配しているわけではない。 通常でないこの物語技法は、物語の対象と符合している。生の超越化への傾向とその本源への回帰の傾向との間の相克は、この矛盾が主人公の内部で繰り広げられる限りにおいてのみ、彼の立場から描写できる。すなわち、ただ物語の前半部だけなら断食芸人の立場から語ることもできるだろう。カフカが断食者と猛獣を対置することによって企図している二つの生の傾向の絶対化は、もはや主観的な立場から示すことはできない。というのは、それは主観的体験とか知識といった枠を粉砕してしまうからである。客観的な物語技法とは、それ故、単なる技法(ヴァルザーが問題にしているのはこのことだけである)以上のものである。それは主観的立場の克服に合致している。主人公が、カフカの大抵の作品に見られるように、迷い、破滅する限りにおいては、世界の現実性も依然問題的である。すなわち、彼が自己自身を見出せず、自分の使命を理解せず、あるいは自分の罪を認識できないでいるかぎり、外的現実もまた不確かなままである。人間が自分を見出すことによって初めて、世界の現実性も根拠づけられる。カフカの「リアリズム」について、これまでいろいろと誤ったことが言われてきた。例えば、彼は官僚主義を忠実に再現していると讃えられた。このいわゆる「りアリズム」に対し、断食芸人と豹とはまったく別の意味でリアルである。断食芸人が虚偽から解放され、自分の真の本質を実現する瞬間において「真実」であるように、豹もまた純粋な生命力の化身として、同じように「真実」である。そして豹において見られる揺るぎない、それ自身において安らう生も、「彼がいまあるところの者になる」ために自己を破壊する、自己超越的な人間も、この人間自身の立場からは記述することはできない。 厳密に計算され考量された構造、テーマの簡潔さ、その体系的追求と論理的解決、事象の明白性、記述される世界(主人公の姿も含めて)の明確性、客観的な物語技法、これらものが『断食芸人』に古典的な作品としての性格を与えている。この古典的な扱い方が、しかしカフカにとって重要な問題、しかも古典主義とは全く別の問題をそれだけに一層鋭く際立たせることになる。この問題は、解決不可能なものである。それは、生の矛盾性、虚偽のない生を送ることの不可能性、断食によって生きることの不可能性、あるいはカフカが表現したように、生きることの不可能性という問題である。それは、特に我々の時代が意識し、対決しようとしている問題である。作家たちの中で、心理学者はそれを説明可能なファクターに還元しようとした。表現主義者たちはそれに対し絶望の叫び声を発し、冷笑家はそれを茶化した。シュールレアリストはこの問題から不条理なものへと逃避し、神秘家はそれを超越しようとした。この問題に魅了され、同時に苦しめられもしたカフカは、その解決不可能性に執着し続けた。ただ『断食芸人』においてのみ、彼は作家としてそれを完全に克服したのである。しかも、彼はその場合伝統的な様式を受容することも、ある既存の時代様式を用いて扱うようなこともしなかった。主観的に体験されたものを表現主義的な、あるいはシュールリアリズム的な主観的様式を通して呈示することはしなかった。感傷性の残澤を払拭し、強度を弱めることもなく、主観的課題と客観的形式との間の緊張をもっぱら繊細なイロニーを通して暗示することで、彼はこの問題を完全に客観化したのである。カフカは、内面生活は一旦言葉に出せばその意味を喪ってしまう、すなわち、主観的様式では不十分であって、体験されたものに新しい意味を与え、それを単に主観的でしかないものから高めることが必要なのだ(T303)、と訴えている。彼の芸術的目的は「世界を純粋なもの、真なるもの、不変なるものへと高める」(T538)ことだった。その場合彼には、この純粋なもの、真なるもの、不変のものは、前の世代の作家たちのように、宗教とか哲学によってあらかじめ与えられてはいなかった。彼はそれを「悪戯書き」(Kritzeln)――と彼は呼んでいた――によって、まず自分自身で調達しなければならなかった。それ故に、寓意的様式とか象徴的様式、それどころかリアリズム的様式などといった、既存の実在的あるいは観念的世界に依拠するような所与の様式を彼は利用することはできなかった。主観的なものを客観化し、自分の内部から世界を形象するために、彼は、まず「客観的」様式を獲得しなければならなかった。言語がそのために彼に提供するもの、例えばメタファーといったものを彼は助力としてよりもむしろ障害だと感じていた。彼は、それが彼から自立性を奪い、自分の思っていることを表現するには相応しくない形象――と同時に直観――を引き取ろうという気になりはしないか、と恐れたのである(T550)。それ故、役者まで最初から作らなければならない劇団支配人のように、「全てを根本から自分で創造し」なければならないと彼は思っていた(T574)。『断食芸人』において、彼はこれに完全に成功したのである十七。
【訳者後註】 訳稿中〔 〕部は、訳者が文意を補足もしくは明確にするために付け加えた他は、すべて原文に用いられている記号はそのまま踏襲した。ただし、原文では脚註にされている著者による註は、後註として一括した。(一九八五年二月) 〔一〕
カフカの作品からの出典は、頁数の前に次に示す略号を付して、本文中で与えられている。 (E:\2003ARBEIT\論文翻訳\断食芸人論\断食芸人論.doc) |