《文学ノートVI》

カフ力の作品の解釈可能性(前)

インゲボルク・C・ヘネル著
竹中克英訳

 

二十年間にわたる集中的な取り組みがカフカに関してなされてきて、次第に彼の作品解釈にひとつの発展が見られるようになった。『城』を宗教的象徴とするブロートの素朴な解釈がまず学派を形成した。そしてこの派の信奉者は今日なお存在している。ブロート流の解釈(例えばエドウィン・ミュアや、ロナルド・グレイによって一)が続けられてきたのと平行して、ユダヤ教・トマス主義・プロテスタント弁証法的神学の立場からのしかるべき研究や哲学的解釈、文化・社会批判的解釈や深層心理学的分析も見られる。ブロートの肯定的解釈に、エーリヒ・ヘラーに最もよく代表されるところの否定的解釈が対応している二。だが、符号がプラスであろうとマイナスであろうと、あるいは、城が恩寵の座として考えられようとデモーニシュな諸力の座と見なされようと、原理的な態度には変りがない。人々はカフカの作品の未知なる力、不可視な裁判所あるいは到達不可能な城に注意を集中し、それらを伝統的な諸観念に結びつけて同定しようとする。主人公の分析は、この問題に対してせいぜい副次的な位置にしか置かれていない。どれもが同じようにもっともらしく見えるこうした様々な解釈を前にして、以前の解釈に比べ、次第に幅広い考えがなされるようになってきた。今日では、特にハインツ・ポリッツアーや最近ではペーター・ヘラーなどのように、カフカの作品の多層性、従ってまたその多義性が問題にされるようになった三。
しかし、もしどの解釈もみな同じように意味があるように見えるとすれば、それらはみな同じように無意味であるということではないだろうか。即ち、カフカの作品の意味とは不条理もしくは無意味性ということではないだろうかという疑問が生まれてくる。一部にはシュールリアリズム的な、一部には実存主義的な色彩を帯びたこのようなカフカ観は、フランスでは当初から指導的なものとしてすでに四十年代初めに定着していたが、ドイツにその代弁者が現われるのはかなり後になってからである四。(カフカを不条理の作家と解釈するアルベール・カミュの『シジフォスの神話』
(Le mythe de Sisyphe)はすでに一九四三年に発表されているが、これがドイツ語に翻訳されたのはやっと一九五〇年になってからだった。)
カフカを不条理の詩人もしくは(ニヒリズムにおいて英雄的あるいは悲劇的立場とみなされる)ニヒリストとみるこうした理解や、彼の作品の多義性に関するテーゼに対して、エムリヒは一九五五年に出版したカフカ研究書において反対している五。彼は「いかなる事象も明白な、確固たる意味」を持っていると主張する
(429)。これはブロートが信じていたことでもある。だからといってカフカ批評の歴史が堂々回りをしていたということではない。むしろ、螺旋形の最初の一巡りをしたということである。明らかにエムリヒはブロートを超えている。彼はもはや、超越的実在性とか、彼の言うところの「宇宙的なるもの」(das Universelle)がカフカの作品に直接的に明示されているとは見ていない。彼は作品を現代産業社会批判とみなし、まだ実現されていない人間的な社会の神話がこの批判には含まれていると信じている。
カフカのいわゆる象徴的あるいは寓意的心象の意味にまず第一に注目しようとする解釈に対して、一九五二年に発表されたフリートリヒ。バイスナーの小著、『物語作者フランツ・カフカ』
(Der Erzahler Franz Kafka六)は、ひとつの区切りを意味している。彼はまず、作品の内容ではなくその物語様式を問題にし、それらが統一的なパースペクティブ、つまり主人公のパースペクティブから書かれたものであることを確認する。このパースペクティブは、任意の外面世界の模写というよりは自己の「夢のような内面生活」の描写である記述された世界に対応している。バイスナーのこの重要な認識は、カフカの作品に内的実在性以外の実在性を押しつけようとするいっさいの試みを阻止すべきものであった。だが残念ながら実際にはそうならず、それどころかある種の誤った解釈にバイスナーは拍車をかけることにさえなったのである。
彼の引用している一九一四年八月六日のカフカの日記の記述、「ぼくの夢のような内面生活を描写するための感覚が、他のいっさいのものを副次的なものへ押しやってしまった」
――これは全ゆる解釈者たちのお気に入りの個所であるが――は、理解よりも誤解に導くものだった。カフカがこの個所で言おうとしているのは、作家は自分の内なる人間を犠牲にして成長するものであるということである。「夢のような内面生活」とは、活動的・実際的生活に対立するものである。この個所は、カフカが彼の夢、彼の白日夢あるいは彼の本物の夢を再現したということを意味しているのではない。なる程、バイスナーは「夢のような」という語を「あまりに狭い意味」で捉えてはならないと警告しているが、他方では彼自身が、カフカの『変身』の世界を妄想観念とみなしている(36)。カフカのメモに再三夢の記述が見られるのは確かである。しかもそのいくつかの場合に、カフカは夢の観念を物語の出発点として利用しようとした。だが、こうした試みは、ほとんどいつも失敗に終っている。
カフカが夢を書き留めておいたのは、ひとつには自己分析という目的のためであり、いまひとつは心象を貯えておいてそれを自分の作品で内面事象の描写に使うためである。この夢の素材は、しかし、夢のような体験
(ein traumhaft Erlebtes)を無媒介に直接的に表現するものとしてではなく、カフカが詳細かつ自覚的に観察した内面状態を具体的に示すための手段として、慎重に作品の中へ取り入れられたのである。つまり、彼の作品で問題になっているのは、夢の生活の産物(夢のように理解不可能な、あるいはそれを理解するために、夢のように心理学的分析を必要とするような)ではない。カフカは、トーマス・マンが主張するような夢見る人ではなかったし、彼の文学は、決して「完全に夢の性格を帯びて構想され、形象化され」ているわけではない七。
カフカが描いたのは夢のような内面生活であるという考えが、いかなる誤解に導くものかを、『変身』を例にとって示そう。バイスナーはグレゴール・ザムの変身を「病気の主人公の妄想観念」
(36)であると考える八。つまり、それは専ら主観的現実性を有するものであって、読者がそれを真実とみなすために、カフカは主人公――彼にとってのみそれは真実であるのだから――の立場からそれを描かなければならない。だがバイスナーは、このような描写方法にもかかわらず、変身の現実性を確信していない。彼の変身解釈は、カフカの物語様式に関する彼のテーゼと矛盾している。この矛盾が何に基づくものかを、我々は更に見てみよう。カフカが描くのは世界それ自体――経験的世界や超越的世界――ではなく、彼の内面生活であるというバイステーの主張は、カフカの作品を理解するために決定的な意義を持つものである。にもかかわらず、この主張は危険性から完全に免れているわけではない。それは往々にして、あたかもカフカの作品では純粋に主観的な体験や表象の記述が問題であるかのように、安易に理解されかねない――しかも、ある程度まではバイスナー自身がそのように理解しているのである。物語内容の主観性とパースペクティブの主観性とが対応しているように見える。だが、カフカの文体は処女作『ある戦いの記録』以後、次第にその客観的度合を強めてきている。この矛盾はいかに説明さるべきであるのか?
それはマルテイン・ヴァルザーによって、その著『ある形式の記述』
(Beschreibung einer Form, Munchen, 1961)において解決されることになる。彼はバイスナーの二つの論点、すなわち、パースペクティブの単方向性(die Eubsinnigkeit der Perspektive)と描写世界の内面性という点を取り上げ、それらを修正し、そこから更に二つの論点を導き出す。その場合彼はバイスナーから離れて、語り手と主人公の同一化、従ってまた読者と主人公との同一化(Identifizierung)ではなく、主人公と語り手との一致(Kongruenz)を問題にする九。もしカフカにとって語り手もしくは作者と主人公との同一化が問題だったとすれば、彼は一人称で語らなければならなかったはずである。ところが一人称形式による物語(Icherzahlung)で書き始めた『城』を、彼は逆に三人称に書き改めている。一人称形式による物語では、読者は自分と主人公とを同一化しかねない。カフカが回避しようとしたのはまさにこのことだったようである一〇。彼は、バイスナーが主張するように、読者を主人公に変身させようとしたのではない。むしろ逆に、彼は読者に諸々の矛盾した事実や見解を提示し、読者が自分なりの判断を形成するに任せた。彼は読者自身を主人公の役割に置き、それによって変身の現実性を確信させようとはしなかった。カフカが『変身』で描こうとしているのは、一つの現実――その親切心の底に隠されているグレゴールの寄生的本質――であって、妄想観念などではない。それ故、彼は主観的・心理的な表現手段を用いるのではなく、害虫という極めて具体的な形象を用いているのである。ここでもあるいはまた別の作品でも、読者は主人公の心理を見抜くことはできない。即ち、語り手と主人公とは決して同一ではなく、ただ一致しているにすぎない。従って自分と主人公とを同一化することは読者にも許されていない。
第二の論点に関しても、ヴァルザーの理解はバイスナーとは違っている。彼はバイスナーのように、カフカの世界を芸術的形象への「心的現実」
(Seelenwirklichkeit)の転換とは見ず、詩人によって創造された自律的世界(eine vom Dichter geschaffene, autonome Welt)と見ている。これもたしかに内面世界ではあることには変りないが、その意味するところが違っている。カフカのような詩人は、現存在の問題をもはや外面世界との対立関係においてではなく、人間の実存的状況そのもの、すなわち人間の内面性にあると考えている。この内面性はしかし、多くの解釈者たちが信じているような主観的内面性、即ち、夢の世界とか妄想世界といったものではなく、間主観的(intersubjektiv)内面性のことである。というのは、自己の状況を認識する人間は、同時に人間的状況そのものをも認識することになるからである。このような詩人が描く世界は、それを生み出した主観性から独立している(114)。ヴァルザーはそのような世界を先験的(transzendental)と呼ぶ。
ここまで来て、いま我々は、なぜカフカの作品の象徴的
-寓意的解釈が誤りであるのかを語ることができる。カフカの世界は超越的世界の表現ではない。それは神的諸力とかデモーニッシュな諸力の世界でもなければ、詩人自身の夢の世界でもない。つまり、それはいかなる象徴的連関も持ってはいない。他方では、それは経験的現実の模写でもなければ、その風刺でもなく、従ってまた現代産業社会の記述とか批判として理解することも出来ない。このような試みはヴァルザー以降すべて反駁されたものと考えなければならない一一。
この世界の人間たちも経験的世界から取られたものではない。かれらは、ヴァルザーが示したように、心理学的に真実でもなければ、人間学的に人間的でも、生物学的に自然的でもない
(49)。彼らの性格は純粋にその機能によって規定されている。ヴァルザーはカフカの世界のこの第三の特徴を、カフカの世界は創造された世界、即ち「気密的な先験性」(eine hermetische Transzendentalitat)を表現しているという第二の特徴から導き出している。この世界には個々の人格の経験的現実とのいかなる関係も存在しない。人物たち(die Figuren)――彼らの場合にはもはや人格(Personen)は問題になりえない――は、ただ主人公と関わっているだけである。即ち、彼らは主人公と機能関係(Funktionszusammenhang)にある一二。ある場合には、彼らは(『審判』の被告たちや、商人ブロックのように)〔主人公と〕類似の事例を表す。あるいは、彼に振り当てられた随伴者として、たとえ妨害的とはいわないとしても、無用なものであることを自ら明らかにすることがある。あるいは、女性たちのように潜在的な助力者であったり、彼の自己主張を妨害する敵もしくは対立秩序の代表である。機能としての性格は特にはっきりと女性の場合に現われる。ヴァルター・ゾーケル一三は、『判決』から『城』に至る全作品についてそうした性格を指摘し、いかに女性たちが主人公と敵対権力との闘争において、彼女たちを所有することが勝利を、逆に彼女たちを失うことが敗北を意味する切札としての役割を果たすかを記述している。
この闘争をヴァルザーは、主人公の自己主張によって引き起こされるものと見る。そして対立秩序はこの自己主張に対して、主人公を揚棄することによって答える。ここからヴァルザーは、カフカの小説の第四の特徴を発見する。対立秩序による揚棄に主人公の新たな自己主張が続き、こうして物語の筋は続いて行くのである
――潜在的には永遠に、実際は作品が中断するまで。カフカの世界は、ヴァルザーの言うように「創造された」世界である。従ってそれは自律的(autonom)であり、即ち、自己の内にその意味を担い、自己を越えて具体的な状況とか超越的な意味とかを指し示すことはない。主人公と対立秩序――ヴァルザーによれば第三の審級は存在しない――は、ただ相互関係の上に成り立っている。即ち、対立秩序は主人公の実存を揚棄せざるをえないものとして、そして主人公はこの揚棄に対して自己を防衛すべきものとして企図されていて――このような関係の内に作品の意味がある。主人公のけ為の悉くに、だが彼の揚棄がすでに内在している。とすれば、その意味は「もともと無意味性」ということである(117)。ヴァルザーは自分の著書を「ある形式の記述」(Beschreibung einer Form)と名付けた。つまり、彼はいかなる種類の解釈をも断念し、「顕著なもの、回帰的なもの、典型的なもの」(129)といった構成要素の在庫品調べに専念する。ただ、彼がカフカの作品の意味は無意味性であると主張する時、自らに設けたその制限を越えることになる。というのは、この否定的な発言にさえ、たとえ無条件ではないにしろ、ある種の解釈が隠されているからである。ヴァルザーは、確かに彼の判断を作品分析から導き出すのだが、問題は、むしろこの分析の方がその判断に基いているのではないだろうかということである。いずれにしても、カフカの作品の意味についての問も、作品の解釈可能性を否定する純粋に形式的な構造研究も共に、最終的には同じ解答、つまりカフカの作品の意味は無意味性にあるという主張に辿り着くというのは注目すべきことである。だがこの解答は、ヴアルザー自身が後書きで認めているように、「何故それではカフカの作品はあれ程深い、しかも衰えることのない影響力を及ぼしているのか」(129)という問に答えるには適当ではない。従って我々はバイスナーとヴァルザーの仕事がもたらした成果を反古にすることなく、改めてカフカの作品の意味とは何かという問を問わなければならない。ヴァルザーは主人公と対立秩序――主人公の外側にあるいっさいは対立秩序に属している――については、主人公はただ彼が現存するというそのことによって対立秩序を彼の揚棄へと挑発することになる、と言っているにすぎない。だが、主人公と対立秩序との間のこの特異な関係を理解するためには、我々は更に――たとえそのために解釈へと移行することになっても一四――反応的な態度しか取らない対立秩序あるいは対立世界の本質とは何なのか、と問わなければならない。主人公の揚棄、およびこの揚棄が引き起こす一切のことは、つねに二次的な過程であって、主人公の行為もしくは主張がそれに先行している。彼が対立秩序の登場と反応とを呼び起こすのは、まさにそれに対する内面的な準備が彼にできている場合であるように見える。カフカはこのことを極めてはっきりと示すことが時折ある。例えば、法廷が開かれるのは、ヨーゼフKがこれに対決しようと決意するときである。対立秩序の様々な姿は、「見る者が……置かれている」瞬間的な気分、興奮の度合、希望と絶望の無数の階程によって生ずる(>Schlos<, 235)。これはクラムについて言っていることであるが、クラムがその最も重要な代表者である対立世界全体についても言えることである。このような個所はカフカには普通には見られないほど極めて明確であるが故に、我々はそれらを、対立秩序を自立的な現実としてではなく主人公の投映として受け取るように読者に指示するものだと理解しなければならない。
しかし、対立秩序の反応は何故いつも敵対的でいつも否定的なのか。主人公のどのような行動様式あるいは存在様式が、こうした否定的な反応を引き起こすのか。『審判』では裁判所を引きつけるのはヨーゼフ・
Kの罪であると実に明確に言われている。『城』においては、Kは自分は伯爵から任命された測量師だと偽り、そのために当局を挑発することになる。これらの事実の重要性は、対立秩序の反応を引き起こすものはただ主人公の自己主張だけでなく、彼の罪と虚言であるということを示している点にある。このことを看過すれば、対立秩序の敵対的な態度といったものは説明できず、その結果、ある原理的な対立、――ヴァルザーが言うように、ふたつの秩序の間にたとえ弁証法的な関係といえどもいかなる関係も認めず、従って不条理に作用する対立――といったものを前提にしなければならない。我々はそれ故、次のように言わなければならない。対立秩序は主人公の罪と虚言に挑発されて反応するのであり、その反応は敵対的もしくは否定的である、と。そして主人公は、彼自身の行為に対するこの否定的な反応という点においてしか対立秩序を見ていない、それ故、彼は対立秩序において自分自身の反映に出会うのである、と。だがこのことはむしろ、主人公と対立世界との間には極めて緊密な関係があるということを意味している。両者は互に補完し合い、彼は対立世界において自分自身に立ち向かって行くのである。〔物語は〕主人公の立場から物語られているために、彼の見るものについては、まず第一に彼の側の反応を通して我々は知ることになる。即ち、読者は一切をただ単純に屈折した形としてだけではなく、二重に屈折した形で見るのである。
(以下次号)
〔原註〕
※カフカの作品への参照は、ショッケン版およびS.フィッシャー版全集による。以下の作品が引用され、次のような略号が用いられる。
Das Schlos, Frankfurt a.M., 1946
Der Prozes, Frankfurt a.M., 1953
BK = Beschreibung eines Kampfes, New York, 1946
H = Hochzeitsvorbereitungen, Frankfurt a.M., 1953
T = Tagebucher, Frankfurt a.M., 1954
Br. = Briefe, New York, 1958
一 エドウィン・ミュア著『フランツ・カフカ』
(A Franz Kafka miscellany, New York 1946)、ロナルド・グレイ著『カフカの城』(Kafka's Castle, Cabridge 1956)
二 エーリヒ・ヘラー著『廃嫡者の精神』
(Enterbter Geist, Frankfurt a.M., 1954)
三 すでに一九五十年に発表した論文『カフカ研究の問題性と諸問題』
(Problematik und Problem der Kafka-Forschung, in: Monatshefte fur deutschen Unterricht, Wisconsin 1950, Jg. 42, Heft 6, S.273-280)で、ポリッツアーはこの考えを明らかにしている。彼はその著書『芸術家フランツ・カフカ』(Franz Kafka der Kunstler, S. Fischer 1965)にそれを再録している。
四 マルト・口べール、『フランスにおけるカフカ』
(Kafka in Frankreich, in. Akzente, 13. Jg., Heft 4, 1966)
五 ヴィルヘルム・エムリヒ著『フランツ。カフカ』
(Franz Kafka, Frankfurt a.M., 1958)。ここでは第二版(一九六〇年)が用いられている。
六 フリートリヒ・バイスナー著『物語作者フランツ・カフカ』
(Der Erzahler Franz Kafka, Stuttgart 1952)
七 クラウス・ヴァーゲンバッハ著『カフカ』
(Kafka, Rowohlts Monograpien, 1964, S.144)からの引用。フリッツ・マルティニはカフカの創作は意識的・意図的なものだと強調し、彼は依然として、作品においても「夢のようなもの」(das Traumhafte)が直接的に表現されていると信じ
ている
(304)。
八 バイスナーは自分の見解を裏付けるために、初版本の表紙に描かれている挿絵を証拠として持ち出し、前景に描かれている人物はグレゴール・ザムザ以外にはありえないと主張する。だが、カフカのこの挿絵に関する提案について、我々は彼の手紙から知っている。どんなことがあっても昆虫を描いてはならない、ただ「まっ暗闇の隣室に通ずる」開け放たれたドアの前に立つ家族だけにしておいてもらいたい、というものである
(Br. 136)。この部屋は昆虫の住処であり、その人物――それがたとえ誰であっても、グレゴール・ザムザではありえない――は部屋に背を向けているのであって、虚無に対してではない。
九 この相違がいかに重要であるかをペーター・ヘラーは看過したにちがいない。さもなければヴァルザーに関して、主人公と語手の完全な同一化
-ヘラーの信じるところでは、これは無意味な宇宙からの脱出口を見出すことができないカフカの無能力を示すものであるというのである-などという言いかたはしないだろう。(前掲書、二五九頁以下)
一〇 読者が自分と主人公とを同一化した場合に、その結果とのようなことになるかは、ポリッツァーの『審判』解釈に窺える。彼がカフカ理解にあれほどに本質的な貢献をしただけに、この解釈は驚くべきものである。ポリッツァーは、ヨーゼフ・
Kの無実の言明を真面目に受取り、彼と一緒になって裁判所を告発する。超越的正義は自己を人間に開示し得るためには、自ら倒錯せざるを得ない、と彼は考える。いずれにしてもヨーゼフ・Kの罪の告白は取るに足りないもので、これは、虚偽が世界秩序にかってしまっていて、裁判所に対して人は、裁判所が聞こうと望んでいることを語らなければならないものであるという認識から生まれたのであるというのである。ここではポリッツァーは多くの読者と同じように、このような認識は誤っているばかりでなく-司祭が問題にしているのは門番の必然性であって、彼の真理ではない-ゲ、それがヨーゼフ・Kの「最終判断」でもないという点を見逃している。
一一 ヴァルザーはあとがきで、自分の方法を確証するものとしてエムリヒの著書を引用している。このことは、ヴァルザーがエムリヒの原則的な主張に依っているという点からしか説明できない。作品の事実的な分析においては、彼らほどラディカルに矛盾するものはない。
一二 エムリヒもカフカの人物たちの機能性を問題にする。だが彼はそれを、物語の主人公に対する彼らの関係という点に見るのではなく、ある告知の意味の担手もしくは伝達者としての彼らの機能に見ている。彼が事物や動物たちの解放的。救済的機能を問題にするとしても、彼がそのことで考えているのは、ヴァルザーとはまったく別のことである。
一三 ヴァルター・
H・ゾーケル、『フランツ・カフカ――悲劇とイローニ』(Franz Kafka - Tragik und Ironie, Munchen, Wien 1964)
一四 無批判になされる解釈が、そもそも解釈行為そのものに対する当然ともいうべき拒否反応を惹起してきた。バイスナーやヴァルザーは、いかなる類の解釈行為に対しても背を向け、自分たちの主義に総じて忠実であり通した。最近でディーター・ハッセルフラット
(Zauber und Logik, eine Kafka-Studie, Koln 1964)がヴァルザーよりもはるかに論争的な態度で解釈行為を批判している。確かに彼は、専ら自分は言語を正しく読み取ることに専念しようと思っている、と確言している。だが彼の言語観はある種の言語形而上学によって規定されているために、彼の分析はヴァルザーのそれに較べて客観性に乏しい。その上、彼はカフカの詩的世界の自律性に関するヴァルザーの重要な認識を放棄してしまっている。この理由のひとつは、彼が専ら短い寓話やアフォリズムを扱い、物語を問題としていない点にある。これらの間には、たとえブロートが信じているような相違はないとしても、やはりその差異性を看過することはできない。比喩に関するアフォリズムと同様、小品においても、カフカは文学と日常性との関係について何ごとかを発言している。だが物語においては、もはや日常的世界は描かれていない。それ故、一方の構造を他方に転用することは許されない。この方法は、ハッセルフラットの『変身』分析においては、テキストの範囲を超えた解釈に通じている。原則的には彼自身がこのような解釈を排撃しているのであるが。