愛知大学『文学論叢』第67輯、1981年7月発行

亀裂の生じた円環
――カフカの文学的背景――


序 小説の構造学

 小説をジャンル化するためでなく、個々の具体的な小説作品の内的法則を理解するために、小説の構造の客観的な分析基準を確立する学、これを小説の構造学と呼ぶことにする。

 ヴォルフガング・カイザーの示した小説の三分法、「事件小説」、「人物小説」、「空間小説」、あるいはエドウィン・ミュアの「劇的小説」、「性格小説」、「年代記小説」といった区分法に見られる詩学のジャンル論は、いかにそれら相互の境界線が柔軟なものであるとしても、最終的には小説を類型化することでその目的を終える。つまり、当然のことではあるが、ここで問題なのは種々様々な特殊的・具体的なものから一般的生格を「帰納的」に抽出して、小説の内容を形式的に規定することである。

 カイザーはその著『言語芸術作品』(Das sprachliche Kunstwerk. Einführung in die Literaturwissenschaft)において、長編小説は「まずなによりも私的な世界を私的な調子で物語ること」(Kayser, 360)と規定した後に、長編小説は「すべての文学形式の中で最も複雑かつ無定形である」とのミュアの言を受けて、次のように記している。

この命題には完全に同意することができる。しかしながら、これによって形式の問題が片づいたわけではない<……>形式の問題ないしはジャンルの問題に向かうには、まず形式を可能にする実体とは何かを問わなければならない。(Kayser, 360)

 彼のいう「形式を可能にする実体」(die formbaren Substanze)とはいったい何なのか。これはもちろん小説の内容のことではない。しかもまた、内容の内で形式に関わる部分ですらない。別の個所でかれが、「いかにして<事件>という実体が形式を獲得するか」(S.54)

、「人物、事件、空間は、叙事的世界が構成される三つの実体である。これがいまどのようにしてなされうるのか、を仲介するのが、叙事的世界が構成されている作品の構造分析である」と記すとき、「実体」とはそれ自体すでに内容の抽象でしかない。

 特殊から普遍へ、内容から形式へといわば上昇過程を辿る小説のジャンル論が基本的に目指しているのは、あくまで「帰納的」に小説のモデルを抽出することである。こうした思考過程には、だが、最も重要なもうひとつの過程が欠落したまま、取り残されることになる。それは例えば、カール・マルクスが『資本論』の記述において展開している、一般的なものから具体的なものへと下降する「演繹的」な思考である。一般理論は常に具体的なものの分析に適用されてこそ、その存在意義を持つのであり、小説というきわめて限定されたひとつの対象領域を取り上げても、これは同じである。

 『資本論』の記述をマルクスが「商品」の分析から始めたとき、彼の念頭には明らかにわれわれのいう構造についての明確な概念規定があったはずである。

資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがってわれわれの研究は商品の分析をもって始まる。

 構造とは、全体を形成する様々なレベルの関係の総体である。資本主義的生産社会の構造分析はだからこそこの構造を指導する原理がなお保持されている最も原初的なもの、この構造を形成する最も基本的なレベルの関係、すなわちその「成素形態」としての「商品」か始められなければならなかった。この場合、構造を成立させてはいるが、もはやこの「指導的原理」を保持していないような素材の最小単位は問題となりえない。

 言語構造体としての小説の場合も同様である。

言語を研究するさい、基本的なものから複雑なもの、複合的なものへと上がってゆくのがしかるべき方法のように思われるかもしれない。しかしそれはやはり問題である。というのは、このばあい基本的なもの、つまり音声、語、いな文すらもつねに切りとられた小片にすぎないのであり、それ自体としてはもともとなんの価値もなく、その小片はそれがはめこまれている全体からはじめてその意義をうけとるものだからである。

 小説はたとえそれが虚構的であろうと、それ自体でひとつの自立的な世界を形成する。この世界がいま現実との関係において、現実のごく一部としか関わっていないか、あるいはそれの総体と関係しているかはこの場合問題ではない。ともかくわれわれは小説において、実在的な世界に対してと同様に、この世界に関わる。それ故、小説の構造というとき、われわれが問題としているのはこの世界の構造のことである。小説の構造学、つまりこの世界の構造分析とは、全体としてこの世界を形成しているさまざまなレベルの諸関係を記述することを意味している。換言するなら、この記述はこの構造を形成する「指導的原理」が保たれているところの、最も基本的な「成素形態」の分析から始められる。

 それでは小説の構造におけるこの「成素形態」をどこに求めるべきか、小説の構造学は具体的にはその記述を何から始めるべきか。この問題がまず解決されなければならない。ここではしかしただ次のことだけを、しかも暫定的に指摘するのとどめなければならない。

 すなわち、まず第一にこの「成素形態」においては、内容と形式とが(たとえ便宜的にでも)分離可能なものとしてではなく、両者がひとつの統一体として現われていなければならない。内容と形式という概念は、たとえば叙事詩、抒情詩、劇詩といった古典的詩学においてならば分離可能な範疇でありえたかも知れない。アリストテレスの『詩学』において典型的に見られるように、ここで問題とされている構造は、いうなれば形式的構造と呼ばれるべきものである。

 構造という用語が本来建築用語であることはすでに周知の通りである。いま次のような比喩を用いるならば、われわれが問題とする構造といわゆる小説の内容との関係をいっそう具体的に説明できるであろうか。

 一軒の住宅を建設するとしよう。この際、この住宅の構造を決定するのは、当然のことながら、これからそこで生活しようとする人間の生活内容のいっさいである。単に家族構成、社会的・経済的に彼が占めている現在の立場だけでなく、彼の趣味、思想、自分の生活に対する将来的な展望などなどといった、要するにこの住宅で彼が今後いかなる生活を築き上げるつもりであるか、その生活プランにかかっている。

 従来の伝統的小説の構造という場合、本論ではこの点について別の観点から論究するつもりであるが、そこでの構造はこのいわゆる具体的な生活内容とは別の次元で決定されてきた。つまり、作家はかれがその作品によって表現しようとする主題に従って、その作品の構造を考え、そこでのあるべき内容を求めてきた。それ故、この主題−構成−内容といういわば「建売住宅式」の作品形成過程による伝統的小説に対してのみ古典的詩学によって追求されてきたジャンル理論は有効たりえたわけである。

 しかし、異端的小説(R・M・アルベレス)においては、作家は右でいう伝統的小説に見られるような確定した形での構造をわれわれ読者に呈示しない。そうすることはまた、彼にとっては不可能になっているということでもある。すなわち、世界は彼にとっての文学的形象の対象ではなく、彼を包む生の状況であり、それ故自らの作品世界に対してさえ、彼はこの世界の外部にあって、超然たる絶対的な自己の立場を保持しているわけではもはやない。彼自身が彼の人物たちと同様に、いまはじめて自己の作品世界の中で生き、体験し、さまざまな思考を巡らし、諸々の問題に直面せざるをえない。いうなれば、作家はいまや自分の作品において世界を対象化するのではなく、実在の世界以上に純粋培養された作品世界を自己の生の状況として、その中でかれ自身が生きることを強いられているのである。

 異端的小説の作家が呈示する作品の構造は、それ故、かれ自身にとってさえ相対的・暫定的なものでしかない。このことの意味は重大である。作家と彼の作品の世界との関係の決定的な転換がここでは意味されている。この世界、かれ自身が創出する世界に対して、彼の存在がすでに相対的・暫定的なものでしかないということである。

 この種の小説においては、だからわれわれ読者もまたちょうど自分が現実に生きている状況の中で自分の住宅を設計、建築するように、自らにとってのひとつの整合的な小説構造を決定すべく強いられている。しかも、このようにして読者によって決定された構造もやはり暫定的たらざるをえない。

 こうしたことを考慮の上で、異端的小説の構造を問題とするなら、読者にこのような努力を課すというまさにその点にこそ、この小説の構造的特性があるはずである。

 従って、第二に小説の構造を問題にする場合、異端的小説に見られるこうした構造特性をも当然含めて考えなければならない。ある小説においては構造は確定的なものであるか、それとも単に二次的なものでしかないのか。そして、これを区別する主要な要因として、語り手の問題が当然浮かび上がってくる。なぜなら、小説空間を直接的に規定しているのは、語り手の態度であり、これが例えばB・スネルの指摘する「目的」、「表出」、「模倣」といった世界に対する人間の(とくに言語上の)活動の関係の基本的なアスペクトを小説空間において決定するからである。

 われわれはまだ小説の構造学そのものについての決定的なことを語る段階には至っていない。つまり、小説の構造学は具体的にはまだなにひとつ始められてはいないのである。それは今後の課題であって、これまで示したのは単に漠然とした方向づけでしかない。ただ、これも暫定的にではあるが、たとえばエーリヒ・アウエルバッハが『ミメーシス』で行った分析方法をより厳密に方法論化する作業が、われわれのいう小説の構造学に重要な成果をもたらすだろう。それはすでに述べたことであるが、われわれの構造学もまた個々の具体的な作品分析とその理解のために客観的基準を提供することを目的とするものだからである。

 この章ではすでに常識的にさえなっている現代小説の構造上の変化とその背景の確認がなされるにすぎない。ただその際一貫して注意してきたことは、小説に限らずひとつの世界の構造を決定するのは、常にとの世界を呈示する主体の態度であるという認識を見失わないことである。

付論

 文学作品のモデルを「帰納的」に抽出しようとする詩学のジャンル論に対する最も痛烈な攻撃は言語学の側からなされた。ソシュール以来の言語学が、この領域で達成してきた成果を正当に評価し、それを受容する能力はわたしにはない。だが、例えばロラン・バルトが『物語の構造分析序説』で述べている言は充分に注目すべきであり、かつ小説の構造学に対して基本的な見取り図を提供するものである。

では、物語の構造は、どこに求めればよいのか?もちろん、物語のなかに求めるべきであろう。あらゆる物語のなかに、であろうか?多くの物語の注釈者は、物語の構造という概念を認めながらも、文学的分析を実験科学のモデルから導きだそうとする企てはあきらめきれずにいる。大胆にも彼らは、純粋に帰納的な方法を物語行為に適用して、まず、一つのジャンル、一つの時代、一つの社会のあらゆる物語を研究し、それからある一般的モデルの粗描に移ることを要求する。しかし、この良識的な見解はユートピアである。およそ三千の言語をとらえればすむ言語学でさえ、それに成功していないのだ。賢明にも言語学は演繹的なものとなり、しかもまさにこのときから、言語学は真に成立し、長足の進歩をとげ、まだ発見されていなかった事実さえも予見するにいたったのである。では、何百万という物語を前にした物語分析については、何と言えばよいのか?物語分析は、どうしても演繹的手続きを余儀なくされる。物語分析はまず、仮設的な記述モデル<……>を考えだし、つぎに、このモデルから出発して徐々に各種の物語の方へ下っていき、それらがモデルに合致したり、離反するのを見なければならない。こうした適合と偏差のレベルにおいてはじめて、物語分析は、単一の記述手段をそなえたうえで、物語の複数性、物語の歴史的、地理的、文化的多様性を見出すことになろう。

 例えば、カフカの小説構造の特性については、バイスナーの指摘以後、とくにその「物語技法」という方向から、すでに多くの研究者によって論じられてきた。だがその一方で、内容と形式とを切り離し、もっぱら内容の任意の局面を抽出し、強引にそこからひとつの整合的な思想を再構成するか、あるいは既成の概念、イデオロギーを当てはめようとする多分に主観主義的な方法とか、作品自体とは直接関係のないところで伝記的事実を集積し、作品を単に作家の伝記的資料にまで低落させてしまっているような傾向があるのも、カフカの場合においても例外ではない。

 われわれはまず、文学作品は純粋に自立的な言語構造体である、という基本的な認識に立たねばならない。なるほどこの自立性が詩的言語の本質的特性に根拠をおいていることは論証されねばならないが、少なくともこの認識に基づいてはじめて文学作品の内的構造が論議され得る。その場合、当然のことながら、構造とは常に内容と不可分であり、この両者を別々のものとして扱うことは言語自体の本質と矛盾するものであるということを常に念頭においているべきである。すべての構造体が意味作用をもつわけではない。しかし、言語はそれが意味の伝達機能を担っているというまさにこの点においてのみ構造化が可能なのである。従って、構造と内容とは相互規定的な統一体としてひとつの文学作品を成立させているといえる。

 この意味で、カフカ研究においてバイスナーが指し示した方向は、小説の構造学にとってより生産的でありえた。それはまた、先にあげたような多分に恣意的な方法に較べれば、少なくとも客観的・合理的に小説の構造分析を確立する基本的態度といったものをも規定している。しかし、この方法はいっそう厳密で精確に方法論化がなされなければならない。物語の構造分析が(あるいはここでいうところの小説の構造学が)言語学と結びつくのはこの点においてである。

純言語学的分析手段は、芸術テキストの構造を研究者に明かしてくれないだろう。だが、次のことも明かである。現代言語学の成果を考慮に入れないならば、文学研究は、芸術的現象の構造的研究のために必要不可欠な、自己の方法論を開発することはできないであろう。

 バルトの次の指摘はさらに具体的である。

言語学は物語の構造分析に対して、最初から、ある決定的な概念を提供する。というのも、この概念は、あらゆる意味体系にとって本質的なもの、つまりその組織をただちに説明するので、物語がどうして命題の単なる総和ではないかと言うことと同時に、物語の構成に加わる莫大な要素を分類することが、ともに可能になるからである。その概念とは、記述のレベルという概念である。

 バルトが「記述のレベル」として(暫定的にではあるが)提案しているのは、

一、<機能>(fonction)のレベル
二、<行為>(action)のレベル
三、<物語行為>(narrationのレベル

である。これらのレベルは、もちろんかれ自身が言っているように「ディスクールの分析」がより厳密なものになるにつれて、言語学が勝手そうであったように、ますますその数を増やしていくだろう。しかし、その数の多寡とは別に、物語の構造分析にこの概念を導入する場合、最も重要なことは、物語は「種々の審級の階層組織」であるという認識である。これは、「事件」、「人物」、「空間」ありは「それらの混成」などといった概念による小説の形式的な構造分析の根底にある認識と本質的にみて異質なものである。この「種々の審級の階層組織」、すなわちわれわれがいま問題にしている小説の構造は、例えばトルストイの『戦争と平和』においても、ドストエフスキーの『未成年』といったそれとは対象的にさえ見える作品においても等しく求められるべきものである。

物語を理解するということは、単に物語内容の展開を追うということではない。それはまた、物語に<階層>を認めることであり、物語の<筋>の横の連鎖を、暗黙の縦の軸に投影することでもある。物語を読む(聞く)ということは、単にある語から他の語へ移っていくことではない。それはまた、あるレベルから他のレベルへ移っていくことでもある。

(一) 小説における異端と正系

 フランスの文芸批評家にしてカフカ研究者としても知られているR・M・アルベレスは、十七世紀から今日に至るまでなお小説の主流を占めている「伝統的小説」と、十九世紀末「象徴主義的反逆」の一帰結として登場することになる「異端的小説」とを対比して、その著『現代小説の歴史』において、これら両者の相違を次のように定式化している。

伝統的小説はかれ(読者)に、作者の手ですでに整理され、単一の論理的平面上に展開され、説明され、照明された現実を提供した。読者の味わうよろこびは、作者の知性の助けをかりて、現実の生活が漠然としか提供しないものを、明確に見るということに存したのだった。異端の小説はそれに反して、現実の複雑なすがた、あるいはさらにこの現実の象徴的なイメージ(このほうがもっと複雑だ)しか提供しない。小説の新しい傾向にしたがえば、現実を解釈して、たやすく理解できる、いささか型にはまった物語に改変するということは、この現実をゆがめることであろう。それゆえ読者は、もはや結構のととのったたのしい物語形式を享受できず、逆に彼に対して提供されたパズルのなかに、多かれ少なかれもっともらしい、あるいは論理的諸関係を自力で探しだすように仕向けられる。実人生において、彼がしなければならないのとまさにおなじ努力である。かくして読者の方でも、作品に参与することをもとめられるのであり、スペインのある批評家は、われわれの時代を読者の時代と呼んだ。

 すなわち、現実に対する作家の態度に根本的な変化が生じたのである。小説の構造的変化という点にのみ限定するならば、この変化は伝統的小説に対して異端的小説は「人間の視点をとり、造物主の視点を放棄」したと換言できよう。

 一九一二年、オールダス・ハックスリは『恋愛対位法』のなかで、登場人物フィリップ・クウォールズをしてそのノートに次のような語句を記させている。「小説家はみずから神のごとき創造者の特権を持つと考えてよいから、物語中の事件をそのいろいろな相で考察してみたってかまわない――情緒的、科学的、経済的、宗教的、形而上学的、等々だ。事件のひとつの相から他の相に転調する――審美的な相から物理化学的な相へ、宗教的な相から生理学的または財政的な相へというふうに、しかしことによるとこれは作者の意志をあまりに専横に押しつけることになろうか。人によってはそう考えるだろう。が作者というものはそんなに引っ込んでいなくちゃならぬものだろうか。このごろはこういうふうに作者みずから姿をあらわすことにすこし神経質すぎると思う。」

 「語り手の退却」という小説構造に重大な変化をもたらすことになる現象と、異端的小説の登場との相互関係を無視することはできない。アルベレスの指摘にみられるように、つまりは現実はもはや論理的に把握し得るほどに整然とは秩序だっていないということなのである。伝統的小説によって捉えられた現実は、しかしある小説空間にとっては外在的な意図にしたがって任意に抽出された点を結びつける線、もしくは単一の平面としてしか構成されていない。「論理」に対する「反論理」、「単一化」に対する「拡散」、伝統的小説によって捨象されてきた現実の複雑で混沌とした「さまざまな層の厚み」こそがいまや問題なのである。

 現実は認識の対象として、すなわちひとつの「世界」として客体化されることを拒否する。なぜならば、いかなる認識においてもまず主体−客体の基本的関係が成立しなければならない。つまり、認識主体は自己を認識対象としての客体の「外部」へ措定することが前提となる。「世界」とは換言するならこの外部的に措定された認識主体からの光の照射によって切り取られた「現実」と言える。そしてまたこの「光」とは、「論理的整合性」のことである。

 ここにふたつの問題が生ずる。つまり、現実は対象化され、認識主体をその外部に措定することを許すような限定されたものであるか。そして、いまかりに現実が全体的ひとつの世界として認識可能だとして、世界は結局現実の一時的形態でしかありえないのではないだろうか。

 これらの問いが意味するところは、まず、現実認識とは現実の限られた部分の認識でしかありえないということ。なぜなら、現実の外部にひとつの点を想定し、そこに認識主体を措くことは、なるほど理論的に可能だとしても、現実的ではない。換言するなら、現実認識とは常に認識可能な範囲の現実の認識でしかありえないということである。このいわゆる「アルキメデスの点」についての興味深いカフカの記述がある。

彼はアルキメデスの点を発見した。だが、彼はそれを自分に逆らって利用した。明らかに、彼はただこのような条件のもとでのみそれを発見することを許されたのだ。

 そしてまた、現実認識あるいはそもそも認識自体、二重の硬直化現象を必然的に誘引するということ。すなわち、認識とは対象の論理的固定化と同時に、認識主体の固定化を前提としている。生の絶え間なく流動、変転する現実に対して、認識された現実=世界はその硬直態にほかならない。しかもこのようにして現実認識が可能になるためには、同時にまた一方で認識主体自身も固定的な視座をみずからに確保しなければならない。このような二重の硬直化のもとで認識された現実、すなわち「世界」とわれわれとの関係とはいったい何であるのか。実際にわれわれが向かい合っている現実とわれわれ自身との関係に対して、それは何を意味するのか。

 伝統的小説に対して異端的小説がもっともラディカルな批判であるのは、まさにこの点においてであるといえる。

あなたがたの小説では(と『約束』のなかでデュレンマットは書いている)、偶然が介入してこず、、いかなる役割も演じていない。あるいはかりに、すこし介入してくるとしても、ただちに<運命>とか<神の摂理>とかにかたちを変えてしまう。あなたたち作家の手にかかると、真実はいつでも最後に劇の規則という祭壇に、いけにえに供せられてしまうのです。

 認識が必然的に対象と認識主体との、そしてさらにはこの両者の関係の硬直化(極論するなら死滅化)を惹起するものだとするなら、この硬直化を破砕し、両者の関係を活性化することが問題なのである。すなわち、認識主体としてではなく、「生」の主体として自己を現実のただなかに置くこと、現実をひとつの世界として論理的認識の対象とするのではなく、生の「状況」と化すこと、要するに現実に対して外在的な、絶対的視点というものを放棄することである。

 語り手の役割という問題に関して、カフカもまた非常に敏感な作家だった。すでに今日忘れられてしまっているあるフランスの作家の作品について、彼は先に引用したハックスリの「神のごとき創造者の特権」でもって作家が自分の小説の登場人物たちをまるで「人形」のごとく扱い、あるいは物語空間のなかへずけずけと踏み込んで来て、登場人物たちにふりかかる事件を解説したり、「それどころか物語の空間へ読者までも」招じ入れることが「いかに耐えがたく、不体裁なことか」を指摘している。

Bei diesem Buch hindert mich allerdings meine Schwäche, daß ich gegenüber Mädchen sehr verlegen werde, es geht so weit, daß ich dem Schriftsteller seine Mädchen nicht glaube, weil ich ihm nicht zutraue, daß er sich an sie herangewagt hat. So wie wenn etwa der Schriftsteller eine Puppe gemacht hätte und sie Donadieu nennen würde, zu keinem andern Zweck als um die Aufmeksamkeit des Lesers von der wirklichen Donadieu abzulenken, die ganz anders ist und ganz anderswo.

 ドストエフスキーが彼の一人称体小説『未成年』で語り手「わたし」に次のように語らせるとき、こうした形式の小説においてさえ、確かに彼の場合には多分に小説構成上「意図的」ではあるが、語り手の退却がなされなければならなかった背景に、われわれが扱っている問題との結びつきが推測し得る。

<……>ひとつつけくわえておくが、わたしがこの手記の中で、しばしばこの人物に対して無礼な不遜な態度をとったことが、悔やまれてならないのである。しかしわたしは、描写されたそれぞれのときにおける自分はこうであったという姿を、それこそありのままに想像しながら書いたまでである。

 いまここでドストエフスキーのこの小説、あるいは一般に一人称体小説の内包する諸問題に触れる余裕はない。

 ヘンリー・ジェイムズの「語り手の視点」の発見以来、作家自身による小説構造に対する自覚的な反省の背後には、単に小説に対するだけにとどまらず、現実そのものに対する人間の視点の根本的な転換がなされなければならなかった。小説空間からの「語り手の退却」は、なるほど一方では物語の稠密な「隙のない」構成という技術的側面からの要求によるものであろうが、しかし他方では、しかもこのほうがより根源的なのであるが、異端的小説を準備したところの現代人の現実感覚の要求に基づいている。すなわち、アルベレスが指摘するように、現実はもはや伝統的小説において「作者の手ですでに整理され、単一の論理的平面上に展開され、説明され、照明された現実」のみではとうてい汲み尽くすことのできないものである。

(二) 亀裂の生じた円環

限られた円は美しい。

人生を始めるにあたってのふたつの課題。おまえの円をつねに縮小し、おまえがどこか円の外に潜んではいないかをしばしば調べてみること。

 西欧文明においてキリスト教的世界観の閉じた円環はすでにルネッサンス期からその亀裂化現象を始めていたといえるかもしれない。しかし、精神生活に対するその支配力はいぜんとして強固なものであり、少なくとも十九世紀に至るまで、つまり資本主義社会がその本質的矛盾を露呈し、人間の生活の全般的な領域への侵略につい行きつきるまで、この世界観は人間の生に絶対的な意味を付与しつづけた。ルターによって資本主義の精神とプロテスタンティズムとが見事に妥協しあうことにより、それまで信仰生活に対していわば余戯でしかなかった日常的な生までがこのキリスト教的世界観の中へ組み込まれ、意味づけられることになった。

 小説の歴史は多分にこのキリスト教的世界の閉じた円環に絡めとられ、身動きできなくなった人間の反抗へのひそかな願いとどこかで結びついていたといえないだろうか。他愛もない荒唐無稽な冒険譚に見られる逃避的な反抗から、宗教的・社会的モラルに対する心理的、政治的等々の反抗に至るまでの小説の伝統的な主題は、ある意味において、人間の生の絶対的な基準であるこのキリスト教的世界観に対するつねにアンチテーゼでありつづけたわけだが、それ自身がまた別の原理に基づく「世界」を呈示し、その領域を拡大していったのである。そのためになら小説はいまひとつのアンチテーゼ、すなわち科学的合理主義とも結びつき、これをも利用することができた。コペルニクスとダーウィンの学説がキリスト教的世界観に対して果たした役割を論ずる必要はないだろう。

 ヘーゲルが『美学』において芸術的使命の終焉を宣言し、芸術を哲学的反省に委ねたとき、彼の哲学はキリスト教的神学として最も崇高な役割を果たし、その円環を人間の性の全領域にわたって閉じたと言いうる。つまり、「哲学の内容は自己に回帰する円環」として、かつて芸術が果たしてきた使命をもみずからの反省の対象として受容するのである。

現代の世界の精神、くわしはわれわれの宗教やわれわれの理性的教養の精神は、芸術が絶対者を意識する最高の方式をなしていたところの段階を超脱してしまっていえるようにみえる。芸術制作とその作品との固有の性質はもはやわれわれの最高の要求をみたしてくれない、われわれは、芸術の諸作品を神のごとくあがめ、崇拝の対象となしうる段階を通り越している。それらのあたえる印象はもっと省察的なものであり、それらがわれわれの心によびおこすものは、なお高級な試金石によって吟味され、他の方面からその真実性を照明されることを必要とする。思想と反省は芸術を飛びこえてしまったのである。

 「絶対者」の最高の直観形式としての芸術、とヘーゲルがいうとき、かれの念頭にまずあるのはギリシア芸術である。そして、この芸術を支えていたのはなによりも「神話」であり、「絶対者」の共通体験である。たとえばルターの存在意義を芸術的側面から位置づけるとするなら、かれはまさに原初的・本源的形式でのキリスト教神話を回復しようとしたので、といえるかも知れない。

 だが、神の死を告げるべく山を降りていくツァラトストラの行く手には、ついにはニーチェの強靭な精神をも包み込んでしまうことになる、あの西欧世界の闇のひろがりが見える。神に対するかれの死刑宣告によって、ヘーゲルのあの精神の壮大な構築物の崩壊を、やがてキリスト教的西欧は決定的に体験するのである。それは人間の生に対する超越的・絶対的なこれまでの「視点」が喪失してしまったことを意味している。と同時にまた、この「絶対者」の視点から世界を「回帰する円環」として語ることのいかがわしさ、このように語られる世界の欺瞞的な虚構性、要するにキリスト教的神話の崩壊をそれは物語っている。

 小説『荒野の狼』のなかでヘルマン・ヘッセは、ニーチェのように時代の亀裂の中へ落ち込んで孤独と苦渋を味味わわねばならなかった主人公に、西欧世界のこの決定的な体験について次のように語らせている。

<……>もし中世の人間なら、われわれの今日の生活様式全体を、残酷なとか、恐るべきとか、野蛮なとかどころではなく、忌避するでしょう。あらゆる時代、あらゆる文化、あらゆる習慣と伝統は、それぞれの様式を持ち、それぞれにふさわしい優しさ、美しさ、残酷さを持ち、ある種の苦悩を自明のものとみなし、ある種の悪を忍耐強く受け入れるものです。人間の生が本当の苦悩、地獄と化すのは、ふたつの時代、ふたつの文化および宗教が交差するときにほかならない。古典古代の人間がもし中世に生きなければならなかったとすれば、哀れにも窒息してしまったことでしょう。それと同じように、野蛮人がわれわれの文明のただなかに置かれれば、窒息せざるをえません。ところで、ひとつの世代全体がふたつの時代、ふたつの生の様式にはまりこんで、いっさいの自明性、習慣、安全性、正常さがかれらから失われてしまう時代があります。もちろん、誰もが同じように強くこのことを感ずるわけではありません。ニーチェのようなひとりの人間が、一世代も先んじて、今日の惨めさを受苦しなければならなかったのです。――彼が孤独に、だれからも理解されることもなく味わわねばならなかったことを、今日何千という人々が受苦しているのです。(Hesse, 27f.)

 確かにいえることは、あの常に「絶対者」へと「回帰する円環」に修復不能な亀裂が生じたのである。

(三) 鳥のいなくなった篭

 キリスト教的信仰によって徹底的に否定された人間の地上的生は、同時にまたその目的論世界観によって徹底的に肯定されてもいるのである。彼岸的生という精神の絶対的王国を措定するためには、まず此岸の生を堕落の淵に落とさなければならなかったのは必然である。他方また、この絶対王国へと到達する可能性をなお此岸的生のうちに残して置くためには、これをすべて神による「試練」として意味づいけなければならかったのも論理的にみて当然である。それがこの世界観において「自殺」が最も厳しく禁じられている理由なのだ。つまり、死にもまた、いな死こそが此岸的生と彼岸的生との唯一の架橋としての絶対的な意味が与えられているからである。人間がみずからの意志でこの生を否定することは、だから「絶対者」の意志に対する許すべからざる反抗にほかならない。

 約束の地カナーンを見おろす丘の上に立って、モーゼが神から受ける死の宣告の意味は、だがカフカにおいては決定的な転換を見せている。

荒野遍歴の本質<……>彼は生涯にわたってカナーンを求める。彼がその土地を死の直前になって目の当たりにするであろうということは、信ずるに値しない。この最後の眺望は、いかに人間の性が不完全なものであるかを表わすという意味を持つにすぎない。なぜならば、このような生は果てしなく続き得るが、例えそうだとしても一瞬のほかは何ものも生まれないからだ。彼の生が短すぎたからではない。それが人間的生であったから、モーゼはカナーンに辿り着くことはないのだ。(Kafka, T. 392)

 人間のこの地上的生を人間自身の手に取り戻すためには、「絶対者」とは「人間的本質」の外化形態(疎外態)にほかならないと宣言する認識上の転換が必要だった。ついには絶対精神へと回帰するヘーゲルの精神の自己運動に対するフォイエルバッハの人間学的批判は、西欧世界の精神史におけるこうした認識転換の線上に位置するひとつの試みである。絶対精神の「属性」を人間に帰属させ、ヘーゲル哲学の主体と客体とを転倒させることによって、たしかにかれはこれに一撃を加えたのである。

絶対精神は、ヘーゲルによれば、芸術と宗教と哲学のうちに顕示あるいは実現される。これをドイツ流にいえば、芸術、宗教、哲学の精神は絶対精神である。しかし、芸術や宗教を人間的感覚や想像や直観から、哲学を思考から切り離すこと、つまり、絶対精神を主観精神、すなわち人間の本質から切り離すことは――再び神学の古い立場に立ち返って、絶対精神を人間的本質とは違った、ひとつの別な精神として、すなわちわれわれの外に存在する、われわれ自身の幽霊として思い浮かべるのでなければ――不可能である。

 したがって、すでに見たように、ヘーゲルが芸術を「絶対精神」の最高の直観形式と規定するのに対して、フォイエルバッハにとっては芸術とは「絶対精神はいわゆる有限な主観精神であり、したがって前者を後者から切り離すことはできずまたそうしてはならないという明白な証明」にほかならない。つまり、芸術の源は「此岸の生活が真の生活であり、有限なものが無限なものであるという感情」、「最高の存在、神的な存在としての一定の、現実的存在に対する感激」に存する。有限なものは無限なものの単に顕現形式であるというのではなく、むしろその逆なのだ。すなわち、後者こそが前者の内的無限性、絶対性の外化形態にほかならない。そして芸術は、この無限的・神的なみずからの現実存在に対する感激の表現である。この点にこそフォイエルバッハもまた、ヘーゲルと対立的な視点から、ギリシア人が真の芸術を創造しえたとする根拠がある。

 ただ多神論、すなわちいわゆる偶像崇拝だけが、芸術と科学のみなもとである。ギリシア人はただ、かれらが無条件に、ためらうことなく人間の姿を最高の姿、神の姿とみることによってのみ、完成された造形芸術をつくるまでに自己を高めた。<……>キリスト教とが芸術家であり詩人であったとき、かれらは、かれらが表象し意識の対象としていたように、彼らの宗教の本質と矛盾していた。

 例えばカフカがアフォリズム形式で「信仰」について次のように記すとき、彼とフォイエルバッハとの思想的基盤にどれほどの隔たりがあるだろうか。

人間は自分の中にある破壊することのできないものに対する信頼をたえず持ちつづけるのでなければ生きることはできない。その場合にこの破壊することのできないものも信頼もかれにとってはいつまでも隠されたままであるかもしれない。この隠されたままであることを表現する方法のひとつは個人的な神への信仰である。(Kafka, H. 44)

 だが、フォイエルバッハは結局のところヘーゲル哲学に対する「ひとつ」のアンチテーゼでしかない。かれもまたヘーゲルの絶対精神を「有限な主観精神」のうちに取り戻すことによって、世界の円環を「閉じ」ようとしたのである。

 人間の精神の営みとはいつの場合にもこの世界の円環を閉じようとする努力にほかならないとするならば、かれはまた逆に、そこに亀裂が生ずることをたえず危惧しているということでもある。ヨーロッパ・キリスト教的世界の決定的な亀裂を象徴するものとして、それ故、ニーチェのあの宣告「神は死せり」は意味づけられるべきかもしれない。換言するなら、西欧精神はこのときカフカのいわゆる「自分の中にある破壊することのできないもの」(etwas Unzerstörbares in sich)を喪失し、「乏しき時代」(ハイデッガー)を迎えねばならなかったのである。

 修復不能な亀裂からいまや混沌たる無秩序な現実が流入し、徹底的な総体主義の嵐が世界の隅々にまで吹き荒れ始める。自由・平等・正義などといった別の価値を措定し、この亀裂の生じた世界を再構成しようとする試みも虚しくみえる。われわれは自由にまで呪われている、とフランスの哲学者ジャン・ポール・サルトルはみずからの戯曲の主人公に語らせ、カフカの正義の処刑機械は無惨にも解体する。すなわち、人間はいまその防壁を取り払われて、みずからの存在の不条理に直接的に対峠させられているのである。

 カフカの主人公たちがこの不毛の「荒野」で際限もなく繰り返すあの徒労にも似た努力はいったい何を物語っているのか。ただ他者から投げかけられる視線のうちにのみひたすら自己のイデンティテートを捜し求める若者。足下の大地はたえまなく揺らぎ、泥酔者のように千鳥足でしか歩行できなくなった男。掟を求め田舎から出かけてきて、その生涯を掟の門の前で虚しく待ちつづけることに費やしたのち、死を迎えねばならない男。外部の適の侵入を防ぐべく無数の罠を仕掛ながら、内部から崩れていく巣穴の中で戦いているもぐら。すでに死んだ皇帝の使者をいつまでも待ちつづけ、夕暮れの窓辺に佇む「おまえ」。罪が犯されたかどうかも不明のまま、突然下される罰。そして「犬のような」恥辱だけを後に残す死。眼前の城を見据えながら、荒涼とした雪原を彷徨する男の徒労。

sein という言葉はドイツ語ではふたつのことを意味している。すなわち「そこにある」ということと「かれに属する」ということである。(Kafka, H. 44)

 人間を含めていっさいの存在が帰属すべき「絶対者」が姿を消し、相互の連関が断ち切られてしまったのである。世界はさながら廃墟の様相を呈し、この果てもない「無」の荒野の広がりの中にすべては瓦礫のごとく散乱している。こうしていま、人間の思考は堕罪と楽園追放の原初の頃にまで遡及する。

Dein Wille ist frei, heißt: er war frei, als er die Wüste wollte, er ist frei, da er den Weg zu ihrer Durchquerung wählen kann, er ist frei, da er die Gangart wählen kann, er ist aber auch unfrrei, da du druch die Wüste gehen mußt, da jeder Weg labyrinthisch jedes Fußbreit Wüste berührt. (Kafka, H. 117f.)

おまえの意志は自由である。ということは、それが荒野を望んだときに自由であったということであり、荒野を横切っていく道を選ぶことができるとう理由で自由であり、歩き方を選択することができるという意味で自由である。しかしまた、おまえは荒野を通って行かなければならず、しかもどの道も迷宮のごとく一足ごとに荒野に触れているから、おまえの意志は不自由である。

 カフカの別のアフォリズムは、まるでこの「無」の荒野を体験したのちには言葉を連ねること自体が虚しいとでもいうかのように、短い。それは簡潔というのではない。むしろそれが指し示す意味が根源的であるというべきである。

Du bist die Aufgabe. Kein Schuler weit und breit. (Kafka, H. 42)
おまえは宿題。あたりには生徒はいない。

 あたりにはひとりとして「生徒」の姿は見えない。この「生徒」の姿の消えた教室で、「わたし」という課題を解いてくれるのはだれなのか。「わたし」はなぜここにいるのか。どこから来て、どこへ行くのか。それはなぜなのか。そもそもこの「わたし」とはいったい何者なのか。教室には無数の課題だけが溢れ、ただ虚しく解答者が姿を現わすのを待っている。だが、かれが姿を消したのはほんのまださっきのことだ。だとしたら、いつまたかれは現われるのか。「わたし」はそれまでここで待つべきなのか。それとも<……>

Ein Käfig ging einen Vogel suchen. (Kafka, H.42)
鳥篭が鳥を探しに出かけていった。

(四) 純粋芸術

 異端的小説の登場をもっぱらキリスト教的世界観に集約的に表現されているところの人間の生についての「閉じた円環」的認識との関連でのみ捉えることはもちろん不十分である。科学的な合理主義的理性が西欧文明の中で果たしてきた役割をも考慮にいれた上で、異端的小説の根底にある人間の現実認識の転換が論議されなければならないが、ここではその余裕はない。

 いずれにしてもしかし、この現実認識の根本的転換が意味するところは、キリスト教的な目的論的世界観にしろ、それといわば対立的な科学的・合理的現実認識にしろ、われわれが今日おかれている状況を「単一の論理的平面」において把握しようとする企ては、途方もなく広大かつ不可解なものにまで膨れ上がってしまった現実に対しては不十分だということでる。それはだからまた、すでに述べたように、ある位ひとつの絶対的な(少なくともそのように考えられてきた)視点から、このように混沌として複雑な現実を論理的に再構成することがいかに粗雑でいかがわしいことであるか、という反省をわれわれに余儀なくしたということである。

 これまでの伝統的小説が熱かってきた人間の生の一秒、一分、あるいは一時間という時の流れの間隙から、計りがたいいまひとつの現実を現代人は垣間みたのである。

ぼくが時間のことを口にしたとすれば(とローレンス・ダレルはその『アレクサンドリア四重奏』の最後の作品で語り手に語らせている)、それは、ぼくの内部に成熟しかけている作家が、時間の捕らえそこねたあの荒地に住むことをついに学びはじめたからなのだ――いわば、時計が時を刻む音のあいまに生きはじめたからなのだ。それは継続的な現在であり、人間の記憶というあの集合体逸話の真の歴史となるものである。過去は死に絶え、未来は欲望と恐怖によって表わされるにすぎないとき、測ることもできず、追い払うこともできない、あの偶発的な瞬間についてどう考えたらいいのか。

 現代のユリシーズが彼の平凡で退屈きわまりない日常生活において一日のうちに行う冒険に、ホメロスの主人公はその三六五の一〇倍の歳月を費やさねばならなかった。ジョイスのこの小説の意味するところは、われわれの現実がそれほどに肥大化してしまったか、あるいは現実に向けられるわれわれの眼が電子顕微鏡にも比すべき精巧さで、時計の時を刻む「音と音との間隙」に消失していくまったく別の現実を捉えることができるほどに制度を増したかのいずれかである。おそらくその両方なのだ。ヘーゲルのあの「回帰する円環」に生じた亀裂とは、それゆえまたこうした時の流れの亀裂でもある。時は、過去・現在・未来といった規則的な配列に従って、一定の方向に流れていくのではない。過去の確かな記憶と、未来への予測の間に位置づけられていた現在は、こうした時の流れの中では可能性から確実性へと凝固する時間の変化の一瞬の点でしかない。だが、いまわれわれがそのただなかに置かれている時においては、「過去は死に絶え、未来は欲望と恐怖によって表わされる」にすぎず、その中で現在はまるで怒涛のごとく押し寄せる「偶発的な瞬間」の連続として、もはや「測ることもできず、追い払うこともできない」。

 小説『審判』の削除された部分で、カフカが主人公に語らせている不安も同じ根からで出ている。

<……>朝早く目覚めて、少なくとも全般的にはいっさいのものが他にも移されもせず、昨晩と同じ場所にあるのを見ると、不思議な気がします。<……>眼を開くと同時に、そこにあるすべてのものを、昨晩最後に見たのとある程度同じ場所に捉えるためには、<……>無限の精神の働き、あるいはもっと適切な言い方をするなら、ぬかりない心構え、といったものが必要です。それ故また、目覚めの瞬間は、一日のうちで最も危険な瞬間です。人が自分のいる場所からどこかへ連れ去られないで、この瞬間を克服できればその日一日中安心していられるというわけです。(Kafka, P.304)

 主人公ヨーゼフ・Kはしかしこの「最も危険な瞬間」(der riskanteste Augenblick)を乗り切ることができなかった。日常生活と隣り合わせのいまひとつの現実へ文字どおり「逮捕」され、存在の無罪をえるための虚しい訴訟に巻き込まれる。「無限の精神の働き」(eine unendliche Geistesgegenwart)、「ぬかりない心構え」(Schlagfertigkeit)、それは果てしなく広がる生の海原に点在する日常的時間の小島を跳び移っていくために必要な最新の注意のことである。時の裂け目を首尾よく越えて、日常性から足を踏み外してはならない。異端的小説とはある意味でこの「踏み外し」の小説といえなくもない。

 ヴァージニア・ウルフの例えば『燈台へ』といった小説に対してわれわれ素朴な読者がまず最初の感ずる印象とは、いかなるものであるか。ここには、主人公に対して対置され、客観的描写の対象とされうるようないかなる現実ももはやない。鋭く研ぎ澄まされた意識を通して捉えられた限りでの現実があるだけである。現実自体は途方もなく広大無辺なものとして、この意識の向こう側に空漠と広がっているにちがいない。そして、意識がその鋭さを増すに従って、現実の肥大化現象は加速していくだろう。要するに、客観的な認識の対象として、その外部にひとつの視座を設定し得るような形式では、われわれにとっての現実は存在しないということなのだ。

<……>現代人は――漠然と、あるいははっきりと<……>、あらゆる領域――宇宙論的、自然的、社会的領域、そしてまた生体験、あるいはまた夢想による体験の無限の領域――において、現実というものが、われわれの人間主義的文明の考えていたよりは、はるかに複雑であるということを感じている。そこで現代人は、現実や人生や夢想を、目録をつくり分析することのできるような事実の集積としてでなく、検討し、<ほり下げ>、凝視すべき体験、決して完全に理解可能なものとなることなく、また首尾のととのい均衡のとれた、安堵させるような物語、すべてを説明し自足する物語を構成することができないような象徴的体験の総体として提出する小説的こころみのなかに、みずからの不安にたいする解答を見いだすのである。

 宗教的、社会的、政治的、あるいは心理的等々いった命題を前提として、ひとつの虚構空間を構築してきた伝統的小説が看過し、無視してきたいまひとつの現実、混沌として複雑な、多層かつ多面的な、たとえいかなる視点からであろうと、それを外部的な「ある視点」から「物語る」ことを無意味にしてしまうような現実を発見することによって、小説はいまはじめて、それが向き合う対象との間に「純粋」な関係を獲得したといえる。

 伝統的小説が扱う人物、事物、事象、あるいはほとんど無意味と思われる物音や風のそよぎでさえ、例えばバルザックが彼の作品において示す克明な状況描写に対する偏執狂的な熱情を考えてみるなら、それらいっさいのものが物語の展開にとって必然的な意味をあらかじめ与えられ、それぞれに決められた場に位置づけられていることがわかる。

 これに対して異端的小説においては、われわれ読者はそれが呈示するものを、伝統的小説におけるように物語空間の外部的な原理によって「絶対的に」確定されたものとして与えられてはいない。むしろ読者みずからが実際の現実におかれた場合と同じように、物語空間の中でひとつひとつのものを、人物およびその行為を、そればかりかそこに描かれているいっさいを体験し、判断し、それら相互の関係、さらにはそれらと自分との関係の中でそれぞれの意味を確定していかなければならない。つまり、しばしば言われてきたように、作家自身、自分が小説において扱う諸問題について読者以上に理解していない、ということなのである。単にこのようにして小説の意味だけが「相対的」に確定されるにすぎないだけではなく、この意味確定を行う読者(あるいは作家)の立場自体もまた「相対的」でしかない。異端的小説とは、いうなればこの二重の相対性に基づいて、現実の複雑性とその全体的構造を比喩的に再現するのである。

偉大な芸術の全てにひそんでいる機能主義が(と、W・エムリヒはトーマス・マンについて語っている)、かれにおいてはいわば絶対的なものとなった。すなわち、ただひとつ絶対的なのは――逆接的な言い方になるが――関係(相対)自体である。これによってわれわれは、現代芸術を構成するいまひとつの要素、つまり絶対的機能主義を見いだしたことになる。これは現代絵画や音楽の中でだれにも知られているものである。つまり、色彩、線、幾何学的図形は、絶対的機能を備えているのであって、あらかじめ与えられている対象的内容のいっさいから解放されている。(Emrich, 1963, 115)

 すでにあの旧来の整然たる絵画空間を生み出す伝統的な遠近法を破壊したピカソの、いわば多視点的絵画を前にするとき、われわれがそこに見いだすのは現実の確定的なひとつの局面ではなく、対象相互の相対的な関係の中で多層的、多面的に意味づけられねばならない現実の複雑な相対そのものである。抽象絵画に至っては、いっさいがその「対象的内容」から解放され、純粋に関係それ自体の中で意味が求められなければならない。

 ハンス・ゼーデルマイヤーは『近代芸術の革命』で、いわゆる「純粋」建築へと向かう建築芸術の努力を要約して、次のように記している。

「純粋」かつ「自律的」になるためには、建築は<……>他の芸術の全要素を放逐してしまわねばならぬ。すなわち第一に舞台的、絵画的、彫塑的、装飾的な諸要素、第二に象徴的、寓意的、演出的な諸要素、第三に擬人的要素である。建築は本来第四の「対象的」要素も追放せねばならなかった。(Sedelmeier, 23)

 それぞれの芸術が、その構造を外部から規定するところのすべての傾向的、意図的なものから自己を解放し、「純粋性」へと向かう近代芸術の革命の中で、小説もまた「造物主の視点」から物語空間内の「人間の視点」への転換を果たし、「語り手の退却」、「視点の相対化」へと自律的傾向を実現することによって、その構造的変化を遂げようとしたのは必然であった。このことが小説にとって豊かな実りをもたらすことになったのか、それとも単に無秩序な豊饒さゆえに貧困化を誘うことになったのかの判断は、ここでは埒外の問題である。