愛知大学『文学論叢』第79輯、1985年7月発行 仮象の万華鏡 |
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序 カフカに関する膨大な文献を前にして、われわれは途方に暮れる。ある種の絶望的な虚しさが、この堆く積み上げられた数々の試みから立ち登っているようにさえ感じられる。それは、言語に対する根本的な不信を抱かせるに充分な虚しさである。小説『審判』において、主人公ヨーゼフ・Kと裁判所の教誨師とが伝説「掟の前」の解釈をめぐって繰り広げる論議を通して、カフカはこのような試みの虚しさについて、およそ何か厳然として存在するものについて、われわれが言葉によってそれを捉えようとする試みは「絶望の表現」にすぎない、ということを証明しているようにさえ思われる。
だが、問題はただ単にわれわれ自身のことでも、カフカの文学に限られたことでもない。言語に対してのいわば古典的な信仰が崩壊し、言語不信が吹き荒れた時代のまっただ中に、われわれはカフカと共に立たされているのである。厳としてわれわれに対峠する現実、言語がそれに襲いかかり、切り刻み、掠め取り、繋ぎ合わせて、そしてその挙げ句に整合的な一つの世界を構築する。いま、そのような時代の終焉が告げられ、客体世界が根底から崩壊し、瓦礫と化す。混沌とした現実を時間的・空間的に統一されたひとつの意味連関へと再構成し、すべての存在に意味を与え、一義的な言語空間を構築していた「世界」が瓦解する。ハイデガーがニーチェの言葉「神は死せり」について語った、「ニーチェの言葉は二千年に亘るヨーロッパの歴史の運命を告げているのである」と同じ意味で、われわれは歴史的な言語危機・言語不信の時代に立ち会っている、と言い得るかも知れない。 この小論では、いわゆる「現代文学の革命」において、言語が遭遇した危機とはどのような種類のものであったのか、そして、カフカはこの危機といかなる関係にあったのか、といった問題が扱われることになる。 (一) すでにカフカの初期の断片『ある戦いの記録』では、この言語に対する不信が、イデンティーテートを喪失した人間の基底感情にまでなっている。実在的な存在に対する言語の呪縛力は失われ、物が言語的世界認識にやすらう人間の存在基盤を掘り崩す。いわゆる「物の復讐」である。今世紀初頭、ホーフマンスタールの『チャンドス卿の手紙』に始まる、異常に肥大化した現実と硬直化した言語表現との亀裂に対する作家の危機意識の実体をヴァルター・イェンスは次のように説明している。 「自我」は「現にあるもの」の猛攻を受けてその力を失い、客体は主体から遊離し、対象が個人を規定して作家からその「創造者」としての機能を奪い、現実はもはや日常の言語を持ってしては補足しがたいものと思われ、存在の統一は瓦解する。 これは確かに文学が直面したもっとも深刻な危機であった。しかし同時にこの危機は、われわれの時代の文学、芸術、さらには文化全体にわたるひとつの新たなる始まり、おそらく「革命」と呼ぶにふさわしい出来事だった。ホーフマンスタールの『チャンドス卿の手紙』の意味については後に述べるとして、彼と表現主義との間の時代、特に「一九一〇年前後に、ヨーロッパの芸術及び文学に起こった包括的な革命」の一覧表を、ヴァルター・ゾーケルはその著『文学的表現主義』の序で掲げている。すなわち、 一九〇五年から一九一〇年の間に、ピカソとその信奉者たちは、絵画におけるキュービズムを展開し、一方アポリネールとマックス・ヤーコプは、後にアポリネールがシュールリアリズムと呼ぶところの「立体」詩をを始めた。一九一〇年には、マリネッティが未来派宣言を書き、T・S・エリオットは彼の『プルフロック』を一九一一年に、そしてジョイスは『ユリシーズ』を一九一四年に花期始めた。一九一三年にはストラヴィンスキーの『春の祭典』がパリの聴衆の間に興奮を引き起こした。アインシュタインの論文『特殊相対性理論』が交換されたのは一九〇五年であり、その少し前、一九〇〇年にはフロイトが『夢判断』を発表した。 一九〇〇年のニーチェの死に象徴されるヨーロッパ・キリスト教的世界の終焉をさらにこの一覧表に重ね合わせて見るときわれわれが扱おうとしているのがいかなる時代であったのかが明らかになるだろう。カフカが同じ時代の作家として、この危機から免れていたはずはなかった。
明らかに加速度的に肥大化していく現実(客体世界)を前にして、自我はもはやこの世界を全体的に俯瞰し、言語によってこの世界を、と同時に主体−客体の関係を確定することができなくなったのである。客体世界がさながら宇宙膨張にも比すべき勢いで加速度的に、全方向に肥大化するなかで、これについて包括的な認識を獲得するための視座は人間から失われ、部分へ、さらに微細な部分へとこだわりつづける彼の意識だけが、逆にその鋭敏性を増していく。それは広漠たる砂浜に立って、一粒一粒の砂の色彩や形態にこだわりつづける人間のように、人間は世界から、そしてまた世界も人間から果てしなく遠ざかっていく状況に似ている。このような現実を前にして、果たして古典的な形式で世界を、世界の真実を語ることは可能だろうか。語り手がなおこの広大無辺のほとんど無秩序と化した現実を前にして、その全体を俯瞰することの可能な視座を、すなわち世界の客観的な、全知全能の創造者としての視座を獲得することは可能だろうか。世界の諸現象の彼方にあって、そのいっさいを統御し、規定するところの超越的な、超時代的な客観的基準が崩壊してしまったのである。 ヴィルヘルム・エムリヒは古典主義時代の、とくにゲーテの文学との関係で、この問題を次のように特徴づけている。
現代文学の革命と呼ばれる時代は、現実と詩人とのこのような恵まれた関係が破綻をきたしたところから始まったのである。 (二) 「新しい革命に対する分析はすべて、ホーフマンスタールの『チャンドス卿の手紙』を出発点としなくてはならぬ。このことはいくら強調してもしすぎることはない」とヴァルター・イエンスは語る。だが、すでにアルノー・ホルツに代表される自然主義(徹底自然主義)が言語のこの危機に、現実に対する文学の危機意識に直面していた。イエンスが上の言葉につづけて、「それ(ホーフマンスタールの『チャンドス卿の手紙』)はその徹底した一貫性と意義とにおいて、自然主義のさまざまな命題をはるかに凌ぐドキュメントである」と語るとき、ことはすでに自然主義にその端を発していたことをこの彼の言葉は示唆している。 自然主義は、このような現実を前にして、極限にまで細分化された描写にこだわりつづけた。いまや「詩人の創造行為が活動しうる場として、客観的な、超時代的な基準はまったく存在しない。」(Emrich, 113)外面的事象だけでなく、内面的事象を含めたいっさいの現実を、克明に、その一秒一秒の極小の変化に至るまで再現することに、詩人はその情熱を傾ける。彼の眼差しは鋭さを増し、意識は研ぎ澄まされ、「無差別に、かつて存在し、いまなお存在するいっさいを、生の始原から今日に至るまで、表現しようとする。ここには、一定の客観的基準もなければ、自然的、精神的、道徳的類の、あらかじめ与えられているような何らかの基準もない。」(Emrich, 114) あるがままの現実、彼の眼に映り、彼の意識に捉えられる限りの現実を描写するという任務に、詩人が忠実であればあるほど、必然的に彼の作品からあの古典的な統一性が失われていくことになる。いな、いっそう正確に表現するならば、それ以前の文学を支えていた「性格、場所、時間の統一」などというものは、いま彼が立ち向かっている現実を再現するには、なにかいかがわしい、時代遅れの古典的な基準に思われたのである。 人間の心理状態はほとんど瞬間ごとに変化し、統一的な小説空間はいたるところで亀裂を生じ、時間の整然たる流れに偶然が割り込み、過去・現在・未来へと流れていくべき直線的な時間の統一性が崩壊する。ひとつの事件とそれに続く事件との間にあったはずの因果論的な関係は、このような現実を前にした詩人の眼には、単に虚構のための虚構といった古くさい、胡散臭さを感じさせるばかりである。語り手の構築する目的論的な虚構空間、そしてこの空間をカタストロフィーに向けて一気に駆け抜けていく人物たちに対して、問題なのはなんの意味もなく偶然に起こる外部の物音、市外電車のベルの音、自動車の警笛、小鳥のさえずり、酔っぱらいの歌声」(Emrich, 113)が不意に割り込んでくる現実である。時間は淀み、混沌とした現実が、整然と積み上げられた過去の記憶の構築物と確実に計算され尽くした未来への展望を飲み込む。人物はひたすら目的に向かって前進をつづけていたはずなのに、なぜか展望を失い、ふりだしに戻り、瞬間の中へ埋没していく。 確かに、詩人が芸術について次のように語ることができた時代があった。
芸術がこのように美の享受に奉仕することのできた時代は、幸せな時代だったにちがいない。詩人にとっても、芸術自身にとっても。 自然主義が直面した現実は、単に芸術形式の問題にとどまらなかった。それは芸術空間、さしあたってはわれわれが問題としている「言語」の領域においても、根本的な変化を生じさせずにはおかなかった。エムリヒはアルノー・ホルツの徹底自然主義、とくにその「秒様式」(Sekundenstil)にふれて、言語において起こった変化を次のように指摘している。
この地点から例えば表現主義の言語までは、ほんのわずかな隔たりにすぎない。だが、詩人はまだいぜんとして言葉に対する信頼を失ってはいなかった。むしろこのような現実さえも再現しようというかれの情熱が、かれの文学を新しい時代とよりも、それ以前の文学と結びつけていたといえる。少なくとも、ホーフマンスタールが行き着いた「深淵」、言語喪失の「虚無」に較べれば、ここでの言語に対する危機意識はまだ弱い。 (三) 先のゾーケルの年表をわれわれはさらに次のように補足することができる。 アルノー・ホルツがヨハネス・シュラーフとの合作で、短編集『ハムレットおやじ』を発表したのは、一八八九年だった。彼はさらに、一八九八年から一八九九年に架けて長編詩『ファンターズス』を、同じく一八九九年に『抒情詩の革命』を書いた。ホーフマンスタールが『チャンドス卿の手紙』を発表するわずか二年前のことである。 一九〇一年、すなわちホーフマンスタールの『チャンドス卿の手紙』と同じ年に、トーマス・マンは長編小説『ブッデンブローク家の人々』を書いている。そしてさらにこの年から三年後、一九〇四年に、詩人ライナー・マーリア・リルケ苦渋に満ちたその小説『マルテの手記』の第一行に、「人々は生きるためにこの都会へあつまってくるらしい。しかし僕にはむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ」(Rilke, 7)、と記した。 リルケにおいては、言語は、そしてまた詩人の構想力はかつての力強さを失っている。主体−客体関係は完全に転倒し、詩人の心は現実の気配を記録する地震計と化す。
事物が意志を獲得し、人間に襲いかかる。言葉はもはや客体を捉え、固定化し、世界の決められた場所にそれを位置づけるためではなく、事物の襲撃を受動的に記憶する、さながら地震計の針と化す。言語を通してひとつの世界を創造するという詩人に与えられた崇高な務めは、ここでは完全に破綻している。もはやどこにも、世界の混沌とした豊饒のただなかに分け入り、諸対象の「時間的、空間的結合について」抽象し、美の王国を構築する詩人の姿はない。言葉の創造的な機能は失われ、詩人は、というよりは人間そのものがみずからの意志を奪われ、客体が主体に、と同時に主体が客体へと転倒する。 旧約聖書を引いてくるまでもなく、「言葉」は世界の創造の始原であった。ゲーテの『ファウスト』のあの有名な場面で、さまざまな思考をめぐらした果てに、この聖書の言葉をファウストは「初めに行為ありき」と訳す。だが、リルケにおいては言葉にこのような力はない。カフカの次のアフォリズムはわれわれが問題としている世界と言語との関係、とくに上で述べたリルケの状況を適切に表現したものと理解することもできる。
おそらく、これがわれわれの問題としている時代の文学がついに行き着いた極限なのである。詩人のこの破綻、「しかし、プランをたてるなど、いったい人間とは何者なのでしょうか?」(Hofmannstal, 8)と、かつて自分を省みて叫ばずにいられない詩人の「精神の病気」を、まず最初に自覚的に捉えたのはホーフマンスタールだった。 それにしても、われわれが「現実の肥大化」と呼び、「事物の復讐」と名づけたものは、人間にとって何を意味していたのだろうか。コロンブスが大西洋に船出して以来、西欧世界が成し遂げてきた地球上の種々の発見、あるいはルネッサンス以来のキリスト教世界の飛躍的な拡大、さらには科学的・合理的精神の一九世紀に至るまでの輝かしい業績、おそらくこれらのものが意味するところは結局同じなのだ。つまり、人間の強靭な精神はこのときまで限りなくその侵略領域を拡大し、世界をひとつの意味連関の中に捉え、絶対的な円環としての「意味」の世界を構築することに狂奔してきた。その結果、例えば地理上のひとつの発見が西欧世界の意味連関の中へ取り入れられ、ついには日常的世界へと硬直化していったように、現実の諸々の現象は科学的・合理的精神によって、また人間の精神的および経験的な生の全領域がキリスト教的世界観によってことごとく解明され、意味づけられ、日常化され、やがて疑問の余地のない明白な事実として硬直化していった。もちろん、視点を変えれば、ここにひとつの壮大な「意味」の王国か築かれたということもできるだろう。さらに換言するなら、あのヘーゲルの絶対精神の自己運動が、一九世紀に至って文字どおりに、現実世界においてその「円環」を閉じたということもある。 「あの当時」、とチャンドス卿は、おそらくその世紀を省みて(まだほんの一、二年しか経っていないというのに)、その手紙に記している。
すべて対立するものが絶対的な基準のもとで、それぞれの意味を与えられ、「偉大な統一」を成していた時代は、詩人にとってもまた幸せな時代であった。なぜならば、彼は言葉に対して全幅の信頼を寄せ、「自分が被造物を次々のその極致において捉え、それとともにその一つの被造物が解明し得るだけの他の多くのものを解明する能力を持っている男である」と、自分のことを感じることができたからである。 だが、ここで最も深刻な問題が未解決のまま残されることになった。すなわち、あの絶対精神の円環が閉じられたとき、この精神そのものは円環のどこに自分の位置を見い出したのだろうか。もしかしたら、それ自身は円環の外の置き去りにされてしまった、ということはないだろうか。 認識の対象として把握された広大な現実、客体世界の壮大な精神の構築物、「秩序を持った観念の調和」を前にして、この精神はその時みずからが創造した「バベルの塔」を度のようなものとして見たのであろうか。
人間の生の全領域、それらが構築する巨大な意味の世界、あるいは「観念の遊戯」。そこから締め出され、「恐ろしい孤独感」にうち震える精神、「人間や彼らの行為」を「習慣の単一化する眼でみることが、もはやできなくなった」精神にとって、彼がいま対峠する世界は、「不快」な、「虚偽の、欠陥だらけ」の虚構でしかない。「平凡な会話」さえ「証明しがたい」ものとなり、「ある事を他と関連させて考えたり、語ったりする事」はいかがわしく、「抽象的な言葉」は「まるで腐敗した茸のように、こなごなに」砕け散る。
「日常の身辺の何かある現象」、じつにささやかなとるに足りない現象でさえ、詩人にとっていまや「名のなきもの」としてたち現われ、しかも空虚な名を付されることを拒む。彼が詩人として生きてきた、「存在全体がひとつの肥大な統一」と見えた世界は、いったい何だったのだろうか。存在は強引に押しつけられていた名辞を払拭し、詩人は「言葉に見放され」て、裸形のまま両者は向かい合っている。両者を媒介していた言葉は無力なものとなり、詩人はもはやいかなる言葉も語ることはできない。どんな言葉も彼にとっては空疎で無意味である。それは事物の本質を捉えようとしながら、その表面を滑り落ちていく。 ニーチェが「神の死」を宣言し、キリスト教世界の終焉を告知したのと同じ意味で、ホーフマンスタールは『チャンドス卿の手紙』で、詩の終焉を告げ知らせたのである。だが、何ものかの終焉はまた同時に何ものかの始まりでもある。すでにこの終焉のうちに、新しいものの誕生が整えられている。それは例えばニーチェのニヒリズムについてすでにハイデッガーが語っていることである。
いま詩人に新たにどのような課題が課せられ、彼がその課題をどのように果たそうとしてきたかについては、われわれの当面の論述の範囲を越えている。反語によるトーマス・マンの徹底した相対主義、リルケの言語についての限界把握と「純粋存在」の探求といったもののもつ歴史的意味が、その場合に詩人の新たなる可能性として追求されなければならないであろう。そしてまた、言語が新たにいわば暴力的・革命的な力を獲得し、現実に挑みかかっていった「表現主義」の一九一〇年から一九二〇年までの運動の意味も問題にされなければならないであろう。 われわれが扱っているのは八八九年から一九〇七年までの、表現主義前夜のわずか十数年にすぎない。しかし、この時代が提出した文学、とくに言語の問題が、おそらくそれ以後の詩人たちの諸々の運動と試みとを規定しているはずである。 (四) われわれがこれまで見てきた詩人たちおよび彼らの文学とカフカとの間に、どの程度まで直接的にしろ間接的にしろ交渉があったかを、いまここで確認する余裕はない。しかし、当時のプラハの芸術的・文化的状況からみて、この時代の文学のおかれていた諸問題にカフカがきわめて密接な関わりをもっていたことは、クラウス・ヴァーゲンバハがその実証的な著『若き日のカフカ』において、ほとんど議論の余地なく証明している。カフカとホーフマンスタールとの関係に限っていうならば、カフカは断片『ある戦いの記録』を書く以前に、雑誌『芸術の番人』を通じてすでにホーフマンスタールを知っていた。一九〇〇年ないし〇一年から一九〇四年の半ばまでの期間、彼はこの雑誌の定期講読者だった。 そのヴァーゲンバハが、すでに高等学校時代に「世界に対する態度の基本形」が固定されたとして、彼と彼の世界との関係、この関係が彼に課した問題を次のように定式化している。
もちろん、ここで明らかになるのは、一般的に文学的な問題としての詩人と世界との関係などではない。きわめて個人的な、カフカ的な状況として、カフカはすでに早い時期に「世界の登記」を改めて、最初からやり直さなければならないという課題に直面していたにすぎない。しかし、このことが逆に彼をして、その同時代の詩人たちと同じ芸術的問題に直面させることになったといえる。 われわれは、彼の後期の物語『断食芸人』を読むとき、カフカの生のとって果たして芸術が究極的な課題であったのかどうか、疑問に思わざるをえない。ここでは芸術はその崇高さも絶対的・自律的な価値も剥奪され、人間に対して彼の本源的な欲求、純粋断食への欲求を覆い隠し、彼を必然的に欺瞞的な生へ誘う。より正確にいうならば、人間の本源的な欲求、それに従って生きることがそもそも不可能な欲求、芸術は彼にとってこの欲求に従い、この地上で生きるための唯一の存在形式である。したがって、芸術はその本質上必然的に欺瞞的なものとならざるをえない。なぜならそれによって、「断食によって生きる」という絶対的な矛盾が、観衆に対してはもちろん、芸術家自身に対しても隠されてしまうからである。これは明らかに「芸術に対する有罪宣告」を意味している。 このような冷静な、しかも客観的な、ある意味でイローニッシュな芸術観――われわれはさらに物語『歌姫ヨゼフィーネ、あるいはネズミの一族』においても、芸術に対するこのような視点に出会う――は、その文学活動のすべてを通じてつねに彼につきまとっていった。にもかかわらず、かれは一方では婚約者の父親に宛てた有名な手紙の草稿で、「わたしは文学以外の何ものでもなく、何ものでもありえず、またあろうとも欲しない」(Kafka, T.233)、と書かざるをえなかった。一九一三年のことである。 芸術に対する彼のアンヴィバレントな態度から、芸術、とくに文学による真理認識、本源的には言語の表現可能性に対して一定の制限が加えられざるをえなかった。
カフカが生きた時代の一般的に歴史的な問題、彼がひとりのユダヤ人としてその時代に生きるために直面せざるをえなかった社会的・民族的諸問題、さらには彼が個人的な生活環境において解決すべき与えられていた諸問題をも考慮して、われわれはカフカの文学的生の全体について次のようにいうことができるだろう。この不安定な現実、危機的な現実のなかで自己のイデンティテートを確立すること、すなわち『ある戦いの記録』にあるように、「生きることの不可能性』の認識にもかかわらず、この生を生き抜くための地歩を確保すること、これがまずその解決のために彼に課せられていた課題だった。しかも、カフカはその解決をまさに言語を通して行おうとしたのである。言語に対して彼が加えた制限にもかかわらずである。 一九一七年九月二三日の日記に彼は次のように記した。
彼の言語観、あるいは言語認識と彼の物語形式の特殊性との関係について、ここでふれる余裕はない。それは単に物語形式上の問題としてだけでなく、彼の文学的世界の本質的な構造原理を確定する問題として扱われなければならない。すなわち、言語は自己の表現可能性の彼方にあるものをいかにして表現することができるのか、あるいは同じことであるが、言語はそれ自体としては把握しえないものを、自己を超えていかにして指し示すことができるのか、この課題がカフカの物語形式を規定している。そして具体的には、例えば、なぜ彼は言語表現の可能性としては最も豊かな三人称体形式を選びながら、語り手の視点を極限にまで限定したのかという問題は、この点からしか理解することはできないだろう。 誤解してはならない。彼にとって問題なのは世界を、あるいは世界の真実を「認識する」ことではない。彼が求めたのは、世界を「純粋なもの、真実なもの、不変なもの」にまで「高める」ことである。しかも彼は、この作業を傘にひとつの否定的行為として行おうとしたのである。すでに述べたように、断食によって生きるという芸術家の矛盾、自己否定を通して自己を実現しようとする絶対的な矛盾、これがその場合彼が現実的に解決しなければならなかった課題だった。そのために彼は、「市民的生活」を極限にまで限定し、「文学的人格」の形成に務めなければならないと考えた。
(五) 問題となっている時代に戻ろう。ホーフマンスタールが直面した言語の危機、そしてリルケが行き着いたその限界を、カフカもまた『ある戦いの記録』で問題にしなければならなかった。 言語を失い、あの硬直化した意味連関からはじき出された詩人は、『チャンドス卿の手紙』後半で、これまで見棄てられていた事物との不可思議な共感を得るにいたる。言語表現の彼方で、詩人の鋭敏な感性が事物のいわば自己表現を直接的に感取するのである。「いつもわれわれの眼が自明の無関心さを以てそのうえを掠めてゆくものが」と、チャンドス卿は記す。「小生にとっては突然或る瞬間に<……>或る崇高な、魅惑的な相貌を帯びてくるのであり、しかもその相貌を表現すべく、小生にはいっさいの言葉があまりにも貧しく思われるのであります。」(Hofmannstahl, 13) この感性的な現象は、詩人の主観的な立場からみれば、「自己の内部と周囲」とに対する「無限の対応」を感じること、あるいは「相互に対応している物質」の中へ詩人自身が「流れこんでゆくこと」である。主体−客体関係を媒介していた言語という境壁が取り払われて、詩人は無媒介に事物に向かい、一方事物はその存在の深遠な意味を詩人に対して露にする。それは、いわば「言葉よりももっと直接で、もっと流動的で、もっと白熱した素材をもってする思考」なのである。 だが、この同じ現象は、その観点を変えて事物の立場にたつとき、次のことを意味している。言語を通して構築されていた意味連関の世界、もはや日常的な惰性にまで*落して、自分にとっては単に牢獄と化した世界を破壊することによって、事物は自己の存在の主体性を取り戻し、詩人の感性に存在の意味を伝えようとしているのである。
リルケの『マルテの手記』、あるいはトーマス・マンの初期の短編についても共通していえることであるが、日常的世界から脱落してしまった詩人と、同じようにこの世界の意味連関から排撃されてきた「とるにたらない被造物」との共感は、必然的な結合だといえる。まるで「夢遊病者の確信を以ってなされる」日常的世界の「すべての判断」の「いかがわしさ」。一方には、このいかがわしさに対して激しい拒否反応を示す詩人の鋭敏な感性がある。そして他方には、このいかがわしさから免れた事物たちがある。この両者の存在を前提にして、はじめて言語のききと文学の革命の必然性が理解可能なものとなる。 一九〇四年から〇五年の時期に、カフカは断片『ある戦いの記録』を書いた。この作品に対するホーフマンスタールの影響についてはほとんど疑問の余地はない。ヴァーゲンバハによれば、カフカはまだその当時『チャンドス卿の手紙』に接してはいなかった。だが、一九〇四年二月、『ノイエ・ルントシャウ』に掲載されたホーフマンスタールの『詩についての対話』を読んで、彼は深い感銘を受ける。 断片『ある戦いの記録』は、われわれのこれまでの記述のいわば総決算である。ここでは、問題は言語表現の次元、すなわち「総体的表現の可能性への疑惑」の次元を越えて、一気に存在論的次元にまで深化されている。あるいはむしろ、事態はホーフマンスタールの場合とまったく逆の過程を辿ることになるというべきかもしれない。ホーフマンスタールが彼の言語表現の果てに、『チャンドス卿の手紙』において扱われている存在論的な問題にまで行き着いたとするならば、カフカにとってはまず存在論的な問題としてのイデンティテートの確立こそが問題だった。つまり、世界たとえ硬直化したものとしてであろうと、ともかく確定的なものとしては彼には与えられていなかった。まるでいましがた生まれ出たばかりの幼児のとってのそれのように、世界は意味不明な、未確定な混沌状態として、彼に襲いかかってきたのである。一九二二年、すなわち死の二年前に至ってもなおカフカはまだ日記に次のように記さなければならなかった。
芸術表現の問題としてではなく、生きるために、真の「誕生」を迎えるために、まずすべての存在の正しい連関を把握すること、自分にとっての世界を確立することが、彼の第一の課題だった。かつて所有していたはずのイデンティテートが失われてしまったというのではない。そのような確固たる存在の大地は、もともと彼には与えられていなかったのである。他の人々には所与のものであったのに、彼の場合には虚無の混沌状態の中から、この存在の基盤を築かなければならなかった。
現実と非現実との、仮象と現実との画然たる境界は、ここでは最初から存在しない。すべての存在は、主体も客体も、意味の空白状態のなかで絶対的な等価関係に立っている。すなわち存在論的なゼロ価値として、両者は互いにとってまだ未確定で、存在としての質量を獲得していない。 事物は揺れ動き、「まるで「降る雪のように音もなく」沈みこんでいく(Kafka, B.44)。「高い家」が「理由もわからないまま崩壊」し(B.45)、「舗石のうえを歩かなくてはならないはずの淑女や紳士がたは、宙を飛んで」いる(B.46)。そして「ぼく」自身も、「薄葉紙を切り抜いた紙人形」のように「かさこそ」と音をたてて歩き(B.48)「はっきりした輪郭のない影法師」のように「家並をぴょんぴょんととんでいかなくてはならず、ときにはショー・ウィンドウのガラスのなかに消えてしまう」(B.45)。 『チャンドス卿の手紙』と同じように、日常的な、意味自明なすべての事象が理解不能となり、言葉も行為も脈絡を持たず、孤立する。バルコニーの上と下とで交わされる女たちのきわめて日常的な会話でさえ、不可解な謎と化す。なぜ人々はそうした会話を自明のこととして、質問も答も「予期していた」ように交わすことができるのだろうか。そしてまた、例えばいま社交の場にいるとして、なぜ自分はこのような場にいるのだろうか。そのことに「なにか脈絡がるとすれば、ぼくにはその脈絡が理解できない。しかし、ほんとうは、脈絡があるかどうかということすら、わからないんです。」 だが、果たして「ほかの人びとのまえでは小さなウィスキー・グラス」は、ほんとうに「まるで記念碑かなんぞのようにテーブルのうえにしっかり立っている」(B.44)のだろうか。大地は不動で、事物はそれぞれが自明の意味を担い、世界は確定しているのだろうか。むしろ、「生きようとする意志をもった人間ならだれでもいつかはぼくとおなじよう」に、「黄色い薄葉紙から切り抜いた紙人形のような格好になってしまう」(B.49)のではないだろうか。 (六) 現実が仮象となり、仮象が現実となるというのではない。カフカの『ある戦いの記録』からは、なにひとつ肯定的なものは生まれ出ることはない。それは文字どおり「生きることの不可能性の証明」にほかならない。われわれが現実的とみなすいっさいは仮象にすぎない。仮象は、さらに仮象を生み、無限の仮象の連鎖が世界を構成する。この連鎖をどこかで断ち切ることも、この連鎖の根を掘り起こすこともおそらくは不可能なのだ。
われわれにとっての現実とは、すなわちこの仮象の連鎖のことである。したがって世界は二重の仮象性に囚われていることになる。それを構成する仮象そのものの仮象性と、この仮象の生み出す無限の連鎖の仮象性とである。用語の混乱を避けるためにカフカ自身の言葉で表現するならば、次のようになる。「あるのはただ精神的世界だけだ。われわれが感覚的世界と呼んでいるものは、精神的世界における悪であり、そしてこの悪というのは、われわれの永遠の発展の一瞬間の、ひとつの必然性にすぎない。」(kafka, H.44) そしてまた、「悪は、いくつかの特定の移行状態における、人間の意識の放射物である。もともと感覚的世界が仮象なのではなく、その放射物としての悪が仮象なのであり、もちろんこれがわれわれの目には感覚的世界と映るのだ。」(Kfaka, H.49) 確かに、本源的にみれば感覚的世界は仮象ではない。だが、「われわれの目には」、それは「意識の放射物」としての「悪」として映る。これが第一の仮象性である。しかもまた、悪そのものが仮象なのだ。われわれがこの悪の織りなす仮象の連鎖から抜け出ることができないのは、悪そのものが、たとえ「われわれの永遠の発展の一瞬間」のことにすぎないとしても、「ひとつの必然性」だからである。 この二重の仮象性が構想原理としてカフカの文学的世界を規定している。断片『ある戦いの記録』においては、それまだ明確に確立された認識とはなっていないが、認識の萌芽がみられる。われわれはしたがって、カフカの文学的世界を一般的な意味で言われるところの虚構空間とみなすことはできない。ことはそれほど単純ではない。カフカの世界は、主人公に対して客観的に存在し、彼に対立するところの自立的な世界ではなく、彼の「意識の放射物」にほかならない。主人公はこの世界に立ち向かっていくことによって、いわば自己自身と関係することになる。問題は、この関係に対する客観的なパースペクティヴはわれわれ読者には与えられていないという点にある。物語の記述から世界と主人公との、すなわち彼と彼の自己との関係を精確に精確に測定する基準を得ることはできない。われわれが得るのは、主人公の意識に映った限りでのこの関係の仮象にすぎない。語り手の退却、視点の相対化がカフカにとって必然的だったのは、このような意味においてである。つまり、これによって物語は、その構造原理としての二重の仮象性を物語空間の「なかで」実現することが可能になったのである。 二重の仮象性、それぞれ本質的にレベルを異にするこの二重の仮象性から、仮象の無限の連鎖が生み出され、われわれにとっての世界の実像が文学的に形象化されることになる。すなわち、われわれが現実と呼ぶもの、われわれがそのなかに生き、そのものとの関係を認識することによって、われわれ自身のイデンティテートを確立しようとするものは、いうなればこの仮象の織りなす「万華鏡」の「渦巻」にほかならないであろう。
たとえ感覚的世界は仮象ではないとしても、われわれの「地上の汚れのしみついた目」には、それは見えない。トンネルの深い暗闇を透かして、「出口」と「入口」とを見極めることはできない。「感覚の混乱」と「感覚の極度の過敏」のために、われわれが目にするものはただ「妖怪変化」ばかりである。そして、この仮象の連鎖の果て、「万華鏡の光彩」が繰り広げる「渦巻」の奥の奥は、チャンドス卿が垣間みた「虚無」に続いているに違いない。 (註)本論中でのカフカの作品からの引用に際しては、次の引用略記号を頁数の前に付して示す。ただし、訳文は『決定版カフカ全集』(新潮社)の各巻の当該の個所を用いた。 |