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第3回性差の科学研究会 (文責 功刀)

1.日時1997年12月16日(火)pm3:30〜pm5:30
2.場所京大会館(京都) 103号室
3.講師篠田 晃先生(山口大学医学部解剖学第二講座教授)
4.演題ヒト脳のホルモンによる性分化について
--特に辺縁系を中心として--
5.講演要旨下記
 ヒトを含む哺乳動物における脳の性分化は、本来の遺伝子発現によるというよりは、むしろ脳内の性ステロイド環境に大きく依存しており、これがそれまでの遺伝子発現の流れを強引に雌雄どちらかの方向へ誘導している。特に、胎生期から周産期(脳の性分化の臨界期)に大量のテストステロンに曝されると、脳は本来の路線(おおよそ女性化路線)を外れて、男性化(あるいは脱女性化)の路線を辿っていくことが知られる。

 性分化を性ホルモンに委ねる脳には、その受容体が豊富に存在する。特に電気生理学的に雌雄の生殖機能に関わるとされる内側視索前野や内側扁桃体等の辺縁系関連領域には、アンドロゲンやエストロゲンの受容体が集中している。これらの領域は、大きさや形の形態的雌雄差(性的二型性)が著明で、遺伝子やタンパクの発現レベルにも雌雄差(性的二型発現)がしばしば認められ、脳の性分化の中心的領域と考えられる。従って、性ステロイドによるこれらの領域の分子レベルや細胞、組織レベルでの性分化が、脳の機能レベルでの性分化に重要な鍵を握っていると推察される。最近、この内側視索前野や内側扁桃体領域に、アンドロゲンをエストロゲンに転換する芳香化酵素(アロマテース)を持ったエストロゲン合成ニューロン群の存在が、霊長類を含む哺乳類の脳内で証明されてきている。局所的なエストロゲン産生が脳の性分化や生殖機能の発現に強く関わることが指摘されており、今まで混乱を招いてきた性ステロイドによる脳の性分化メカニズムに解明や、脳の性分化障害に基づく男性同性愛や視床下部性の性周期異常や排卵障害などの原因解明に糸口を与えるものと期待が寄せられている。

講演内容(より詳しく知りたい方のために)

1.本研究会での論点 --脳の性分化に関する現在の問題点--

(1)従来の解釈と問題点

 ヒトを含む哺乳動物では、胎生期あるいは新生仔期に「脳の性分化の臨界期」と呼ばれる特別な一時期が存在し、その時期におけるホルモンの特別な働きにより「性的二型核」と呼ばれる部位が誘導され、生殖機能やホルモン分泌での性差が生じる、と言われている。このような脳における性的二型性が、ヒトでは男女の行動や意識における性差の要因とする説も聞かれるが、これはまだ推測の域を出ない。現在のところ、精子が持つXあるいはY染色体の違いにより、受精の瞬間に決定される遺伝的性が、身体上で発現される第一歩を司るのは「ホルモンの特別な働き」であることは、数多くの実験結果あるいは遺伝性ホルモン分泌障害からほぼ間違いのない事実である。
 「ホルモンの特別な働き」として当初、「脳の性分化の臨界期」に雄の血液中には、発生初期の精巣から大量のアンドロゲンが分泌され、このアンドロゲンが脳の細胞に作用することにより雄化が決定ずけられる、といわれていた。受精後、共通の発生過程をたどっていた雌雄がこの臨界期に当たり、雄はアンドロゲンなるホルモンにより強引に雄化の方向へと偏移され、偏移を受けない固体が雌として成長する。この説の根拠となる実験データとして、脳の性分化の臨界期に雌のネズミにアンドロゲンを与えると、成長後雄型の性行動をとることが挙げられた。

 ところがその後の動物実験から、この説に矛盾した結果が得られるようになってきた。例えば、雌に大量のエストロゲンを与えても雄化が誘導されたり、雌にアンドロゲンを与えると同時にエストロゲンの働きを止める物質を与えると、雄化がみられない、などである。これらの実験結果は、あたかもエストロゲンが雄化を誘導している印象を与える。
 このように、現在脳の性分化の仕組みに関する問題点、あるいは混乱をきたしている点は、脳の性分化において特別な働きをしているホルモンが、アンドロゲンあるいはエストロゲンのいずれであるか、つまり“雄化のキーホルモン”がどちらなのか、という点である。
 そこで現在までに得られている実験結果を無理なく説明するために、脳に存在するアロマテース(芳香化酵素)(注1)の存在が注目されてきた。この酵素は、アンドロゲンをエストロゲンに変化させる機能を持っており、ヒトや哺乳動物の脳では胎生期で既に発現していることが最近わかってきた。これによると、エストロゲンが“キーホルモン”として有力と言えそうだが、エストロゲンの従来の呼称である「女性ホルモン」からの概念的連想は、“雄化のキーホルモン”という説明を納得させないであろう。

(2)篠田の新たな解釈

 そこでまず、ホルモンの働きについて少し考えてみよう。
 ホルモンが本来の働きを発揮するためには、それぞれのホルモンが働く部位に受容体(レセプター)(注2)と呼ばれる特別な物質の存在が必要である。そこで“雄化のキーホルモン”を推測するには、哺乳動物の胎生期から新生仔期における脳でのアンドロゲンおよびエストロゲン受容体の存在状況も重要である。
 今回の講演では、ネズミの脳における性的二型性を示す部位で、アンドロゲン受容体とエストロゲン受容体の存在量が胎生期からおとな(成長後)にいたるまで、どのように変化しているかを詳細に述べている。それによると、胎生期のなかでも特に脳の性分化の臨界期にあたる時期では、アンドロゲン受容体は雌雄共に殆ど存在しない。反対にエストロゲン受容体はかなりの量が存在し、しかも雌雄差は認められない。ところが成長するに伴ない、性的二型性を示す部位でアンドロゲン受容体は雌雄共に増加するが、特に雄での増加が大きく、明らかな雄優位の性差が出現する。一方、エストロゲン受容体に関しては、雄では胎生期と殆ど変わりなく発現しているが、雌では成長に伴い増加することが観察されており、こちらは雌優位の性差が存在する。

 ここで、脳の性的二型性を示す部位におけるアロマテース活性、アンドロゲン受容体、およびエストロゲン受容体の発現状況および性差の有無について、以下のような表にまとめてみた。


胎 生 期 雄(男) 性差 雌(女)
アロマテース活性
アンドロゲン受容体
エストロゲン受容体

成 長 後 雄(男) 性差 雌(女)
アロマテース活性
アンドロゲン受容体
エストロゲン受容体
(胎生期と同程度)

(胎生期より増加)


 胎生期の表から篠田の推測を解説すると、胎生期の雄で大量に分泌されたアンドロゲンは、アロマテースによりエストロゲンに変換されるが、生成した大量のエストロゲンは down regulation によりエストロゲン受容体を減少させる(注2参照)。これにより「脱女性化」がまず誘導される。次に、エストロゲンに変換されなかったアンドロゲンは up regulation によりアンドロゲン受容体の発現を促進する働きをしていると考えられ、これにより胎生期では少ないアンドロゲン受容体が、成長後は雄の脳で雌より明らかに多く存在することになる。そして、アンドロゲンは受容体と結合することにより雄化を促進していると考えている。
 つまり雄性化とは、「脱女性化と男性化」という二段階のプロセスをへて誘導され、いづれか一方では不完全である、という解釈を篠田は示している。
 この解釈では、アンドロゲン、エストロゲン共に基本的には男性化、女性化を促進すると考えており、エストロゲンによる男性化という一見矛盾しているかのごとき実験結果を、大量のエストロゲンによる受容体の減少誘導による脱女性化の促進、というストーリーで切り抜けている。
 では、ここで言う「脱女性化」および「男性化」とは、具体的にどのような生理的、身体的あるいは精神的な発現を伴うのであろうか?
 この問いに関して、篠田は具体的な答えは出しておらず、今後の研究課題としている。しかしながら、男性同性愛者や性同一性障害者の存在は、上記の二段階プロセスを受け入れ易くすると思われる。さらにこの解釈であれば、「エストロゲン=女性ホルモン」という概念的連想も邪魔にはならないであろう。
 ところが最近のホルモン研究から、エストロゲンは卵巣、胎盤、乳房などの女性生殖組織と同様に、精巣における精子形成などの男性生殖組織にも必須であり、さらに生殖組織以外の肝臓、皮膚、血管、毛髪等でもそれぞれの組織特有な生理機能に不可欠であることがわかり、従来の「エストロゲン=女性ホルモン」という概念の変革が求められている、と言っても過言ではない。
 脳の性分化、とりわけ雄性化の仕組みにおけるアロマターゼ/エストロゲン系の根幹的関与は、おそらく否定できないであろう。また、遺伝子レベルでのアロマテース不全症の患者も見つかっており、アロマテース/エストロゲン系の発現異常が、脳の性分化形成不全を引き起こすことは予想され、男性同性愛や性同一性障害の原因となる可能性も考えられる。

(3)関連した疑問点、

 3-1.脳の形態的性差として、最近脳梁の形態差がもっぱら取り上げられているが、実際に有意差は存在するのか?

   篠田らの解剖結果によると、現在言われている形態的性差は、男女ともそれぞれ約6割には当てはまる。しかし、約1割では逆転しており、残り3割は差がみられない、ということである。ただし、検体はいずれも老人のため、このデータから一般的解釈は誘導できない。

3-2.ヒトの血液中におけるアンドロゲンとエストロゲン濃度の正確な値は?

   最近、ホルモンの分析技術の進歩により、血液中のホルモン濃度がより正確に測定されるようになった。それによると、アンドロゲン濃度には若干の男女差が認められるが、エストロゲン濃度には男女差がみられないと言われている。従来、明らかに男女差のみられる数値が何処にも掲載されているが、これは単に分析技術の差によるものなのか?



注1
***アロマテース(芳香化酵素)とはどのような酵素か?

 アロマテースとは、生殖関連ホルモンの生体内合成経路の最終段階、アンドロゲンからエストロゲンを生成するステップで働いている酵素である。つまり、エストロゲンはアンドロゲンから造られるのであり、アロマテースさえ存在すれば雄、あるいは男の体内にもエストロゲンは存在することになる。
 アロマテースの生体内存在部位として最近の研究から、女性生殖組織(卵巣、胎盤など)のほかに、精巣、副精巣、前立腺などの男性生殖組織、さらには脳、肝臓、皮膚、副腎、毛根濾胞、脂肪組織、骨組織、血管組織などのさまざまな組織にも局在していることが明らかとなった。また乳癌や子宮内膜癌のように、エストロゲンにより促進されることが知られている癌の周辺部位ではアロマテースの発現が顕著であることが以前から知られていたが、同様の現象が卵巣癌や前立腺癌のみならず、肝臓癌、胃癌、膵臓癌、大腸癌、肺癌等でも確認された。
 脳における本酵素の存在は1975年ナフトリンらにより報告されたが、精製が難しいことから長い間、脳での存在部位や発現時期が不明であった。
 本研究会の講師である篠田は、アロマテースの抗体を用いる検出方法により、脳内での存在部位と発現時期を特定することに成功した。その結果、性的二型核に多く存在することが確認された。また発現時期として、胎仔期では雌雄共にかなり多く存在し、性差はほとんどみられない。しかし成長後は、雄で胎児期同様かなり発現しているが、雌ではむしろ成長するに伴い発現の減少が観察され、雄優位の性差が観察された。

***アロマテースとエストロゲンの関係は?

 上述のようにさまざまな正常あるいは癌組織におけるアロマテースの働きは、必要に応じて血液中のアンドロゲンをエストロゲンに変化させることであり、生成されたエストロゲンはそれぞれの組織で特有の生理機能を発揮するのである。このことは、前述のエストロゲンが働いている組織と、アロマテースが存在している組織とが同じであることを意味している。性的二型核がこのような組織に相当する。
 また脳では、アンドロゲンによりアロマテースの発現が促進されることが明らかにされており、血液中のアンドロゲン濃度が上昇すると、脳ではアロマターゼが多くなる、つまりエストロゲンの濃度が上昇することになる。
 このようにエストロゲンは、アロマテースの働きにより生体内の多数の組織において、必要な時だけ局所的に作用する多機能ホルモンとして捉えられるべきであろう。


注2
***ホルモンと受容体とのいい関係

 ホルモンは内分泌器官と呼ばれる特殊な器官からごく微量分泌され、主に血液によって体中に運ばれ、生殖機能や免疫機能など様々な生理作用を調節し、体の恒常性を維持する化学物質である。一口にホルモンといっても数多くの種類が存在し、各々が標的器官、あるいは標的細胞と呼ばれる特定の器官や細胞に作用して、特定の働きをしている。
 ホルモンを分泌する内分泌器官には、視床下部、下垂体、甲状腺、副腎、腎臓、膵臓などのほかに、精巣や卵巣の生殖腺がある。ホルモンには、インシュリンや成長ホルモンのようにアミノ酸が連なったペプチドホルモンと、アンドロゲン(男性ホルモン)やエストロゲン(女性ホルモン)のようにコレステロールを材料としてつくられるステロイドホルモンがある。
 では、血液中を流れていくごく微量のホルモンは、各々が目指す標的器官あるいは標的細胞をどのようにして見分けるのであろうか。
 ホルモンが作用する細胞にはホルモン受容体(レセプター)と呼ばれる特殊なタンパク質が存在している。ホルモンとホルモン受容体との関係は、ちょうど鍵と鍵穴の関係に例えられるように一対一の対応があり、各々のホルモンはそれぞれに対応した受容体とのみ結合することができる。結合したホルモンと受容体は一体となって細胞核内のDNAに作用し、このホルモンに特有の働きを開始させる。このようなホルモンと受容体との関係は、例えて言えば生体内に放出された情報に対する“見る目、聞く耳”のような関係である。特定の情報に関して常にアンテナを張っていれば例えごくわずかな情報であってもアンテナにはキャッチされるが、アンテナがなければ大量の情報が流れても無駄に終わってしまうのである。生体内で分泌されるごく微量のホルモンが、的確に各々の標的細胞に作用するのは受容体の存在によっているのである。

 ホルモンと受容体の機能的関係は上記の如くであるが、この他に量的レベルで面白い関係が知られている。今、血液中へのホルモンの分泌量が増加すると、受容体の量が増加するする場合と、減少する場合がある。前者を up regulation 、後者を down regulation と呼び、いづれもホルモンの機能に依存した恒常性維持機構である。では、アンドロゲンとエストロゲンでは各々の受容体をどちらの方法で制御しているかというと、アンドロゲンは up regulation 、エストロゲンは down regulation で制御していることが、最近判明した。つまり、アンドロゲンの増加は受容体の増加を、エストロゲンの増加は受容体の減少を誘導する。となると、アロマテースによりエストロゲンが増加すると、エストロゲン受容体は減少することになる。

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