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第3回性差の科学研究会資料

1、はじめに

 内側視索前野や内側扁桃体は雌雄の生殖機能に関わり、性的二型性が確認される性分化の中心的領域であるが、最近これら領域に、エストロゲン合成能や性ステロイド受容体を持ったニューロン群の存在が、霊長類を含む哺乳類の脳内で証明されてきている。特に局所的エストロゲン合成による性ステロイド環境の制御が、脳の性分化や生殖機能の発現に強く関わることが指摘されており、今まで混乱を招いてきた性ステロイドによる脳の性分化メカニズに解明の糸口を与えるものとと期待が寄せられている。本研究会では、脳の性分化に関する研究の進展を概説しながら、内側視索前野や関連する分界条床核と内側扁桃体に分布する性ステロイド受容体やエストロゲン合成能を持ったニューロン群の重要性について形態学的視点から考察してみたい。

2、脳の性分化における芳香化仮説

 脳の性分化を引き起こす原動力は、脳組織の遺伝子発現のカスケードの性分化にあり、それは発生初期には雌雄に共通していたこのカスケードが、形態機能形成の何処かの時点で、何かを契機に、その流れが雌雄の何れかに偏移していったことを意味する。生殖隆起では、その機転となるのは、精巣を誘導するSry/SRY遺伝子の雄特異的発現であり、脳でもY染色体上の雄特異的遺伝子の発現(そのあたりは脳内ではまだ十分に解明されていない)が重要な出来事であるには違いない。しかし、サルやラットなどの哺乳動物では、脳組織の遺伝子発現のカスケードの流れを男性側に偏移させ、脳の性分化に決定的な影響を与えるのは、本来の遺伝子発現というよりは、胎生後期から周産期(脳の性分化の臨界期)に精巣から大量に分泌されるテストステロンであると考えられている。それでは、脳の性分化の臨界期におけるアンドロゲンが脳を男性化に、エストロゲンが女性化に誘導するのかというと、実際には、いろいろな矛盾した事実がある。例えば、ラットでは、胎生後期から生後一週間の間にテストステロンに曝されることが脳を男性化や脱女性化に方向付けるが、芳香化されないアンドロゲン(ジヒドロテストステロン)には、こういった作用はあまり強くない。むしろ新生仔期における雌ラットへの過剰量のエストロゲン投与が、テストステロン投与と似た効果を示し、将来その雌に脱女性化を引き起こす。一方、1970年代前半、Naftolin等は、in vivo での分離脳や in vitro での脳組織を用いたアンドロゲンの灌流実験を精力的に行い、ヒト胎児を含む多くの哺乳類で、脳がエストロゲン合成能を有することをクロマトグラフィーを用いた方法で示した。こういった事実から、アンドロゲンによる脳の男性化(脱女性化)作用の本態は、実は脳内で芳香化されたエストロゲンによる作用ではないかとの仮説(芳香化仮説)が提唱され始めた。以来、アンドロゲンのA環を芳香化しエストロゲンに変換する芳香化酵素(アロマテース)が、実際に脳内に存在するのか、存在するとすればどこに局在するのかが問題の争点となっていった。

3、アロマテースの脳内局在

 脳内アロマテースの存在証明や局在部位の検索は、当初、切り出された微小領域のアロマテース活性を tritium-water assay を用いて微量測定する方法と、tritium 標識したテストステロンを in vivo で投与して、その後アロマテース阻害剤や非標識エストラジオールの投与でテストステロンの結合が阻害される部位を調べる方法で行われた。これらの研究は、解像度にも特異性にも限界があったが、脳内芳香化の中心領域は、おおよそ内側視索前野や内側扁桃体にあると推論されるようになった。その後、抗原や抗体の特異性に問題をはらんだ初期の免疫組織化学的研究による混乱はあったが、遂に1993年、筆者等は、イムノアフィニティカラムを用いて得られた単一のシトクロムP450/アロマテース(P450 arom)抗原に対する抗体を使って、初めて信頼できる脳内アロマテースの免疫組織化学的同定に成功した。すなわち、哺乳類脳内でのエストロゲン合成が予測されて20年以上を経て漸く、エストロゲン合成ニューロン群の存在が証明され、その局在と分布が明らかにされた。
 ラットで得られたデータによると、アロマテース含有ニューロン群は個体発生に伴い発現の変化を示し、そのピークを迎える時期により胎生期型、胎生新生仔型、若年成獣型の三群に分類される。胎生期型のニューロン群は胎生後期にピークを迎え生後一週間以内に発現が消失するもので、前内側視索前核、視索前野室周囲核、視床下部腹内側核腹外側部が含まれる。胎生新生仔型は胎生後期から新生仔期にピークを示し、成獣に至るまでアロマテース発現を維持するニューロン群で、内側扁桃体核、分界条床核主核、内側視索前核等が属する。若年成獣型は、生後三週以降に出現し始め若年から成獣にピークを示し、扁桃体中心核、分界条床核卵円核、外側中隔核等にあるニューロン群がこの群に相当する。中でも脳内最大のエストロゲン合成ニューロン群は胎生新生仔型で内側視索前核から分界条床核主核および内側扁桃体核後背側部に架けての内側視索前野−扁桃体弓(mPO-AM)に分布する。この領域は、過去のアロマテース阻害剤やエストロゲンの投与でテストステロン結合が阻害され、アロマテース活性が高いとされた部位で、脳内芳香化の中心領域と考えられる。その後 P450 arom の in situ hybridization の結果でも、mPO-AM に最も顕著な mRNA の発現が見られたことでその正しさが裏付けられた。mPO-AM は、電気刺激で雌雄の性行動や雌の排卵を誘発し、破壊でこれら生殖機能を阻害する脳の性分化の中心的領域で、成獣で雄が雌より数倍大きい性的二型性を示している。また前内側視索前核や視索前野室周囲核といった胎生期型の領域では、mPO-AM とは逆に領域の大きさに関し雌優位の性的二型性を示す傾向にある(若年成獣型の領域では性的二型性の有無は不明)。性分化との関係は単純ではないが、アロマテースの発現時期と性分化の方向性に何か関連があるかもしれない。

 免疫電顕法によるニューロン内分布の検索により、P450 arom は主に核膜と小胞体膜に局在していることが明らかにされた。P450 arom の膜貫通領域はN末に近い糖鎖付加領域のC端に近接しており、基質結合領域や芳香化領域やヘム結合領域からなる活性領域はC末側に片寄っているので、アロマテースは、活性部位を細胞質側に向け、糖鎖を内腔側に向けて、核膜や小胞体膜を貫通して存在すると推察される8)。このことから、細胞内に入ってきたテストステロンは、アンドロゲンレセプターやエストロゲンレセプターの存在する核内へ侵入する手前で、核膜や小胞体膜上のアロマテースにより効率よくエストロゲンに変換されると想像される。

 最近では、マウス4)やサル5)でも、同様な P450 arom 陽性細胞が内側視索前野から内側扁桃体にかけて分布していることが報告されている。以前にアロマテース活性を測定したデータに基づけば、哺乳類以外でも、鳥類、爬虫類、両棲類、魚類といった脊椎動物、さらには、円口類や節足動物の神経系にも認められ、アンドロゲンからエストロゲンへの芳香化能は、むしろヒトを含む系統発生においてよく保存された脳の基本的な特徴であるとさえ思われる。

4、脳内アロマテースの領域および時間特異的制御

 正常ラットの若年以降の脳で、mPO-AM における P450 arom の発現は、細胞の発現量においても発現する細胞数においても顕著な雄優位の雌雄差が認められ、去勢によってその発現は落ち、アンドロゲン投与で回復する。このことから、脳内アロマテース発現の制御にはアンドロゲンが強く関与していることが考えられる。しかし、胎生期から新生仔期にかけては、雌でもかなりの P450 arom 発現が認められ、若年以降ほどの明らかな性差は見られない。マウスの神経培養による研究から、胎生期から新生仔期のアロマテースの性差は、個々の発現量の違いというよりも、この領域の細胞数の雌雄差を反映した結果ではないかと指摘されている。また、胎生期型や若年成獣型の P450 arom 発現では、性差は確認されておらず、去勢やアンドロゲン投与による影響もあまり見られない。はっきりとアンドロゲンの up regulation を受けるのは mPO-AM を含む胎生新生仔型のアロマテースだけで、他の脳領域のアロマテースも同様にアンドロゲンの制御を受けるとは限らない。

 近年、遺伝子工学、分子生物学的研究の進展により、卵巣や胎盤などの末梢組織のアロマテースは組織特異的スプライシングによって発現していることが明らかにされ、その発現制御は組織により異なることが想像されている。最近、ヒトやマウスの脳にも、脳特異的スプライシングによる mRNA が存在することが証明された。そして、その脳特異的エクソン1fのプロモーター上流300bpにはアンドロゲンレセプターの結合部位様配列があると報告されている。しかし、上述したように、脳内各部位で発現制御が異なる可能性があり、同定された脳特異的 mRNA がどの領域のものなのかを明確にすることが、今後の課題であろう。

 ところで末梢組織において、P450 arom を含む6種類全てのステロイド産生 P450 は、そのプロモーター上流に cis-acting element のひとつである Ad4 配列を共通に持っている。この Ad4 配列を認識する Ad4 結合蛋白 (Ad4BP あるいは SF-1)もまた、副腎、精巣、卵巣、胎盤などステロイド産生組織に特異的に発現する。しかし、ラットやマウスの脳では、Ad4BP は内側視索前野ー扁桃体領域 (mPO-AM)や視床下部腹内側核腹外側部などのアロマテースニューロンには発現せず、あまり P450 arom の発現が強くない視床下部腹内側核背内側部に選択的に発現している。さらに、Ad4BP 遺伝子のノックアウトマウスを解析した結果、末梢のステロイド産生臓器(副腎、精巣、卵巣)と視床下部腹内側核の欠損が明らかにされ、ステロイドがほとんどないにもかかわらず、生直後の脳には正常マウスと同様に胎生期型と胎生新生仔型のアロマテースニューロンが存在していたのである。この事実は、脳内アロマテースが、末梢組織のものとは違った制御機構を備え、選択的スプライシングを受けていることを示すとともに、胎生期から生後まもなくの脳内アロマテースの発現誘導にはステロイド以外の未知なる因子が主導的役割を果たすことをも示している。すなわち、アンドロゲンは、生後の mPO-AM 等の胎生新生仔型の P450 arom 発現の維持や増強には強く関わるとしても、胎生期や新生仔期には、補助的役割しか果たしておらず、その発現制御には領域特異性だけでなく時間特異性もあることが示唆される。その他のステロイドによるアロマテースの制御に関しては、不明な点が多い。

5、アロマテースによる性分化制御メカニズム

 アロマテースが、脳の性分化に関わるとすれば、それは、脳内の局所的性ステロイド環境を制御して、周辺の性ステロイド受容体刺激を調節しているためと考えられる。ラット周産期の脳でアンドロゲン受容体とエストロゲン受容体を調べてみると、アンドロゲン受容体は、雄で視索前野室周囲領域にわずかながら認められるも、一般に内側視索前野から分界条床核、内側扁桃体にかけて、雌雄ともにあまり発現していない。一方エストロゲン受容体は、内側視索前野に雌雄ともかなりの発現が認められるが、尾側では明らかに雌優位の発現の性差がある。また分界条床核および内側扁桃体核では、(雌でやや高いが)雌雄ともに発現レベルが低い。思春期を過ぎて成獣になると今度は、雄でアンドロゲン受容体が内側視索前野、分界条床核、内側扁桃体に大量に発現し始める。この時期、雌でもかなりの発現はあるが、雄優位に著明な性差がある。エストロゲン受容体は、成獣になっても雌雄ともに基本的に周産期における発現と大差はないが、思春期以降、雌の mPO-AM では、アロマテースが落ち始めると反対にエストロゲン受容体は雌特異的に発現が増強し始め、ここでの性差が顕著になってくる。これらは、「雄の脳では、アロマテースにより転換されたエストロゲンが、脳を男性化に導く。」という初期に提唱された芳香化仮説と大きく矛盾するもので、むしろ、「雌性化を促進するのはエストロゲンで、雄性化を促進するのは基本的にアンドロゲンである。」という古典的な考えを支持する。
 最近、アンドロゲンはアンドロゲン受容体を up regulation するが、エストロゲンはエストロゲン受容体を down regulation することが明らかにされてきている。これに従えば、雄では、大量のテストステロンから mPO-AM を中心に局所的に産生されるエストロゲンにより、近辺のエストロゲン受容体を down regulation し、脳を脱女性化に導く一方、芳香化されなかったアンドロゲンは逆にアンドロゲン受容体自身を up regulation し、将来のアンドロゲン受容体発現を促すことで脳を男性化に誘導していることが想像できる。すなわち、脳内アロマテースは、局所的な性ホルモン環境の調節を介し、性ステロイド受容体発現を間接的に制御し、脳の性分化の方向付けを行っていると考えられる。アロマテースによる性ステロイド受容体制御機構の解明は、近い将来、脳の性分化障害に基づく男性同性愛や視床下部性の性周期異常や排卵障害などの原因解明にも重要な手掛かりを与えるのではないだろうか。


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