愛知大学現代中国学部加々美ゼミ

卒業論文 伊藤佳寿子

卒業研究

東亜同文書院の目指したもの

〜いま、アジア主義を問い直す〜

02c8120  伊藤 佳寿子

目次

序論 「アジア主義の観点からみた日中再考」

第一章  東亜同文書院とは

(1) 創設までの歩み
(2) 書院の建学精神と特徴
(3) 学生生活と大旅行
(4) スパイ容疑
(5) 日中戦争と書院の運命


第二章  近衛篤麿と初期アジア主義

(1) 「抵抗」の契機としてのアジア主義
(2) 明治維新の力学〜「復古」と「開化」の影響
(3) 中世天皇制と近代天皇制の比較 〜権力と権威の観点から〜
(4) 国学のあゆみとイデオロギーの変化


第三章  東亜同文書院と日中友好のゆくえ
(1) 現代におけるアジア主義と日中関係
(2) 靖国問題をどう見るか

最後に

・日中関係はどこに進むべきか 
〜書院の精神を振り返って〜



(第2稿)

第一章     東亜同文書院とは


 東亜同文書院は1901年、東亜同文会(会長:近衛篤麿)によって中国の上海に設立された。日中友好提携の人材育成を目的とし、戦前海外に設けられた日本の高等教育機関としては最も古い歴史を持つ。

 明治維新以降、日本人の目は欧米に向けられた。一方で、漢文などの美しいイメージが中国に対して向けられていた。明治維新後、書院の創設者の一人であった荒尾精は、長崎で中国についてのさまざまな事柄を聞き、自身の興味を掻き立てられた。

荒尾の生きた時代に、岸田ぎんこう吟香という人物がいる。彼岸田は岡山県の出身で、幕末はに江戸に出て学問を志す。彼はまた日本初の商人ともいわれる。横浜にてでヘボンと出会い、ヘボンと辞書を作る構想を練るとともに、英語で目薬についての本を書き、上海で出版したらそれが大ヒットした。

この岸田のもとで、荒尾はさまざまなことを学んだ。荒尾は『中国産業地理要覧』を日本で出版し、日本人に対して広く中国のことを伝えた。後にも記すが、当時は中国人との直接貿易が難しかったため、荒尾は中国との貿易要員が必要と考え、日清貿易研究所を設立した。

このことについて、次以下に詳しく述べる。



(1)創設までの歩み

 書院創設の主な立役者は、近衛篤麿、荒尾精、根津一(初代学長)の3人があげられる。1890年、荒尾精は上海に日清貿易研究所を設立した。当時の日本は明治維新をへて、長期にわたる鎖国政策を開放し、西欧およびアジア近隣の諸国と外交・経済関係を樹立しようとしていた。ところが清国政府や民間との交流の際に言葉や習慣、思想等が障害となった。そこで荒尾は研究所において中国語の訓練と中国の当時の状況を理解することに重点を置いた。しかしその後日清戦争に突入し、研究所は廃止されることとなる。このような経緯で、1901年、東亜同文書院が創設される。東亜同文書院は、前年に設立された南京同文書院を吸収したものである。そしてこの同文書院を経営したのは近衛篤麿が1898年に結成した東亜同文会である。

なぜ、これらの学校が中国の上海に開設されたのか。その理由として、小崎昌業氏は次のように述べている。「第1に、当時の中国、すなわち清国に対する西欧列強の侵略活動と植民地化活動、第2に清国の衰退、第3に日清関係にあった」。

 当時の中国情勢を振り返ってみると、中国、すなわち清国は1840年のアヘン戦争の結果、1842年南京条約によってイギリスに対し香港を割譲、上海・広東など5港を開港し、イギリスの領事裁判権を認め、関税自主権を失った。この不平等条約によって中国の国際的地位が著しく低下した。清国はその後、アメリカ、フランスとも同様の不平等条約締結を余儀なくされた。さらに1856年の第2次アヘン戦争の結果、清国はイギリスに九竜半島南部を割譲し、さらに1884年の清仏戦争の結果、清国の属国であった越南(現在のベトナム地域)がフランスの保護国にされた。

さらに北方を見ると、ロシアは1858年、アイグン条約により黒竜江以北を領有したのをはじめ、1860年には北京条約により沿海州を併合し、ウラジオ軍港を建設し、ウラジオストクと本国を結ぶシベリア鉄道を1891年に起工して、満州への圧力を強めた。さらにロシアは1881年にイリ条約によって中国北部のイリ地方を領有した。

日中関係については、清国がイギリス・フランス等に上海を開港してから30年後の1871年に日清国交樹立を果たし、国交樹立後20年経っても友好関係、通商関係が両国の間に進展しなかった。このことについて、小崎昌業氏はまた次のような見解を述べている。「すなわち清国は西欧列強の武力外交には屈服したけれども、日本に対してはいわゆる中華意識を改めず、清国が独立国である朝鮮に対して宗主権を行使しようとして日本と衝突し、日清戦争となり、清国が敗北した」。そしてこの結果、1895年の下関条約によって清国は朝鮮の独立を認めるとともに、遼東半島と台湾を日本に割譲した。

ところが満州・朝鮮に野心を持つロシアは、ドイツとフランスとともに三国干渉によって日本に遼東半島の放棄を迫り、日本はこれに応じた。清国が日本を抑えるためにロシアに干渉と援助を求めたばかりに、ロシア・ドイツ・フランスは三国干渉の代償を要求し、中国は分割の危機に晒されることとなった。すなわち、ロシアは1898年に旅順・大連を租借し、東清鉄道の敷設権を獲得し、満州を勢力圏に収め、ドイツは膠州湾を租借し、山東半島を勢力圏に収め、フランスは広州湾を租借し、広東・広西・雲南を勢力圏に収めた。イギリスはこれに対抗し、山東半島の威海衛と九竜半島全域を租借し、揚子江地域を勢力圏にし、英、独、仏各国とも各自の勢力圏内に鉄道敷設圏を得たのである。

 そして1900年には義和団事件によって9か国の連合軍が北京を占領するという重大な事件が発生し、ついに各国の間で中国分割論、共同管理論までもが台頭した。

 以上のように、列国がそれぞれの勢力範囲を協定し、中国を分割する段階に入り、中国はいまだかつてない危機を迎えたのである。

 このような中国の状況と運命に対し、日本は大きな憂慮を抱いた。

 中国の興亡は東亜の安危に、そして日本の盛衰に繋がることを認識し、二中両国の提携によって中国の保全とその興隆を念願した志士たちが輩出した。その先達として近衛篤麿、荒尾精、根津一の3人がいた。東亜同文書院はこの3人の先覚者を中心に、教育分野における日中共同の理想を具体化して生まれたものである。その初代院長には近衛篤麿の趣旨を体し、荒尾精の遺志を受け継いだ根津一が選ばれた。



(2)書院の建学精神と特徴

 書院の建学精神と目的は、根津院長が提唱した「大学の道」に学び、日中輯協、すなわち日中友好協力の基礎を固めるために、必要な人材を養成することにあった。同文書院の学生は各府県から2名のみ選抜され、そのために熾烈な競争が繰り広げられた。選ばれた学生はすべて公費学生となった。したがって選ばれる学生の家庭状況は必ずしも裕福でなくとも、学生自身は品徳と学業に優れ、中国を中心とする商業活動に志を抱く者ばかりだった。下関条約締結後は、台湾人が法律上日本の公民となったことによって、台湾の青年も選抜されて上海に渡った。

 上海同文書院は日本の対中貿易取引に携わる人材の育成を旨とするため、現代中国語(なかでも北京語および上海語)、英語等の外国語や商科関係の科目を重視した。しかし注目すべきは、当校書院は創立以来儒教精神を重んじ、また中国にたいして友好的立場を明確にしているところだ。それは根津一の著した『興学要旨』に見ることができる。根津一は理論面で中国の伝統的儒教精神の尊重を主張するだけでなく、実際の教育方針の面においても、礼知並重の原則を厳守した。

 同文書院卒業生の記述したものによれば、根津院長の建学精神と教学理念は、そのままこの学校独特の風格となって現れている。学生たちは礼節を重んじ、恥を知り苦しみに耐え、品徳と勇気に富み、先輩と後輩のあいだは深く強い友情で結ばれている。

 根津一は倫理道徳の修養を重視した。それには2つの理由がある。1つは学生たちがみな全国各地から選ばれたもので、その資質においては優れている。しかし彼らが中国の土地に生活している以上、その言行は日本の知識青年を代表し、日本の品格を損なうようなことは許されない。2つめに、学生たちは全寮制によって、いろいろな出身家庭を背景に長期にわたって1つの学校の中で生活する。それによって兄弟同様の情を養い、ともに助け合い、励まし合わなければならず、それによって望郷の念を慰める、というものだった。

 設立当初の同文書院は3年制の高等専門学校だったが、1921年に4年制となり、その後1939年に大学へ昇格した。それにつれて学生の在学期間も4年から5年へ延長された。



(3)学生生活と大旅行

  1901年に設立された上海同文書院は、「清国保全と清国自強」と「興亜と日中提携」という2つの理念に立っていた。この「興亜」にあたる部分が創設者の一人である近衛篤麿の抱いていた理想であると考える。

  書院のもう1つの特徴は研究調査旅行、いわゆる「大旅行」である。学校の規定によれば、学生は卒業前に必ず中国各地へ散らばって調査旅行に出かけなければならない。通常は卒業1、2年前の夏休みに3ヶ月から半年、数人一組となって中国内地の各地や東南アジアまで回って見聞録や日記を書き、学校で学んだことと総合して報告する。旅行の後「調査報告書」を書き、それを卒業論文とした。この大旅行の伝統は第1期生から始まり日本の敗戦まで45年間途絶えることなく続いた。学生たちの旅行記は各期毎まとめて『大旅行誌』として印刷され、毎年刊行された。

この大旅行は、当時の中国政府および日本政府の多大な支援の下に実現したといっても過言ではない。なぜなら当時の政情不安定な中国にあって、外国人である日本の若者たちが荷物ひとつで中国を旅したのだから、その危険は計り知れない。資料1は学生たちに与えられた通行許可証(今で言うパスポート)である。これは当時の中国政府が発行したものだ。学生たちはこの通行許可証を常に肌身離さず携帯した。通行許可証があれば危険な目に遭うリスクが避けられた。当時の日本の外務省からは、3万円の寄付まであった。

学生たちは大きな麻袋にすべての荷物を入れ、会計係は銀貨を体中にまきつけて出発する。学生たちが身に着けていたものは当時の中国ではまだ珍しく、彼らが携帯していた目薬などは中国の農民たちが欲しがったのだという。農村の農民たちは学生たちに友好的で、ときには食べ物も与えてくれた。農村での好待遇に学生たちは喜び、ますます中国に対して好感を抱いた。

(資料1)学生たちの携帯した通行許可証

さて、書院の学生たちは入学時どのような夢を描いていたのだろう。ここに書院生を対象にしたアンケート結果が残っている。資料2を見ると、圧倒的多数が「中国で働く、骨を埋める」と答えている。他に、「日本と中国・アジアのために」、「中国人のために」、「中国を見、学びたい」といった答えがあるように、入学者のほとんどが中国を中心とするアジアや世界に大きな関心を抱いていたことがわかる。さらに、書院生の将来の就職先として、外交官や新聞等のジャーナリストを選ぶ者が少なくなかった。このことから、書院生は国際感覚にあふれた意欲旺盛な若者たちであったであろうことが推測される。

(資料2)書院生 入学時の夢

(4)スパイ容疑

<書院生に対する中国側の追い出し風潮>

 中華学生部といって、書院にも中国人および台湾人を受け入れるクラスがあったが、入学する学生は必ずしも多くはなかった。はじめのうちは中国政府の多大な支持を得られていた書院だったが、日中戦争が泥沼化するにしたがって、しだいに中国側の反感をかいはじめるようになる。書院が毎年行っていた大旅行調査が、中国に対するスパイ行為ではないかと捉えられるようになったことが原因の一つとしてあげられる。書院がスパイ学校ではないかという疑いは、戦後、さらには今に至るまでずっと拭えないでいる。ときには書院が日本軍国主義の手先として扱われさえもする。このことについては、私は非常に遺憾に思う。書院の創設とその理想や実態を知れば、書院がスパイ学校でないことは明らかである。書院の目指した「日中友好」の理想を理解し、不本意な汚名を晴らすことは日中友好を志す今日の我々にとって、とても重要な課題である。



(3) 日中戦争と書院の運命

 日中戦争の荒波は書院と書院生の運命を大きく変えた。45年の敗戦に伴って書院は廃止され、その建物は中国側に接収されることとなった。

 日中戦争が激化すると、書院の中国研究成果に眼をつけた当時の日本軍部から書院は利用されるようになる。一つの実例をあげると、当時の日本の軍部は書院に対し、数名の学生を中国語の通訳要員(従軍通訳)として中国戦線へ派遣するよう要請したのである。私の祖父も従軍通訳として中国戦線に借り出された。不本意ながら、あの時代に生まれてしまったために、日中友好を掲げた自分たちの意図に反して中国に反目し、中国人と戦わなければなかった。中国人を敵とする軍部に手を貸さなければならなかったのである。いかなる人間も時代の変化に逆行することはできない。中国人に剣を向け銃を向けることは彼らにとって非常に残酷なことであっただろう。中国に住み、中国人の作った服を着て、中国人の飯を食い生きていた。そして中国を心から愛していた。そんな彼らの日常を戦争というものは非常情なまでに奪っていった。

 運命に翻弄された書院と書院生たちであったが、戦後、活動の基盤を失った一部の教授たちを中心に有志で集まって書院を復興しようという動きが日本で起こった。そうして1946年11月に生まれたのが今日の愛知大学である。愛知大学は書院の精神を受け継ぎ、日中友好と平和の理想を掲げている。





第二章 近衛篤麿と初期アジア主義

(1) 「抵抗」の契機としてのアジア主義

<アジア主義の定義>

 アジア主義とは何か。我々が「アジア主義」と聞いて真っ先に思い浮かべるのが、「大東亜共栄圏思想」に代表される、「戦前の日本帝国主義的侵略を、美辞麗句で粉飾した思想」というイメージである。しかしこれは竹内好が指摘するように、「アジア主義の無思想化の極限状態といえるもの(1)」であった。また竹内は、この「大東亜戦争」を「脱亜が興亜を吸収し、興亜を形骸化して利用した究極点(2)」とも指摘する。[1] 

 では、アジア主義とはいかなる思想か。竹内好は次のように言っている。「つまり、私の考えるアジア主義は、ある実質内容をそなえた、客観的に限定できる思想ではなくて、一つの傾向性ともいうべきものである。右翼なら右翼、左翼なら左翼の中に、アジア主義的なものと非アジア主義的なものを類別できるというだけである。(中略)アジア主義は、膨脹主義または侵略主義とは完全に重ならない、ということだ。またナショナリズム(民族主義、国家主義、国民主義および国粋主義)とも完全に重ならない。むろん、左翼インターナショナリズムとも完全には重ならない。しかし、それらのどれとも重なり合う部分はあるし、とくに膨脹主義とは大きく重なる。もっと正確にいうと、発生的には、明治維新革命後の膨脹主義の中から、一つの結実としてアジア主義が生まれた、と考えられる。しかも、膨脹主義が直接にアジア主義を生んだのではなくて、膨脹主義が国権論と民権論、また少し降って欧化と国粋という対立する風潮を生みだし、この双生児ともいうべき風潮の対立の中からアジア主義が生み出された、と考えたい。」

 ここで注目すべきは「傾向性」という言葉である。この言葉がアジア主義の融通無礙さを旨く表現している。アジア主義は、あらゆる思想に付随して言わば心的ムードとして立ち現れてくるものである。換言すれば、アジア主義はある時代状況の要請によって、ある思想をより時代(当然アジア主義的言説がその国家にとって有利な時代)に適合させるべく動員された「傾向性」なのである。[2] そして竹内好は最後に次のように結論づける。「アジア主義は、前に暫定的に規定したように、それぞれ個性をもった「思想」に傾向性として付着するものであるから、独立して存在するものではないが、しかし、どんなに割引きしても、アジア諸国の連帯(侵略を手段とすると否とを問わず)の指向を内包している点だけには共通性を認めないわけにはいかない。これが最小限に規定したアジア主義の属性である。」

<岡倉天心の例>

アジア主義者の1人に岡倉天心があげられる。松本健一著『竹内好「日本のアジア主義精読」』によると、美術家でもあり思想家でもあった彼は、次のように考えていた。

「美(そしてそれと同義の宗教)が最大の価値であり、文明はこの普遍的価値を実現するための手段である。美は人間の本性に根ざすから、西欧だけが独占すべきでない。そのためには『西欧の光栄がアジアの屈辱』である現状を変革することが急務であり、したがって「アジアは1つ」であらねばならない。」[3]

 この「アジアは1つ」という考え方が、後に日本ファシズムによって悪用され、彼は後世まで帝国主義者の汚名をきせられることになったのである。しかし天心の思想は、本来の意図したところでは、帝国主義(大東亜共栄圏思想)とイコールで結ばれるものではない。むしろ帝国主義は、天心によれば、西欧的なものであって、美の破壊者として排斥すべきものなのである。この点において、彼は純粋なアジア主義者であったといえる。

<北一輝の例>

またここに1人、北一輝という人物を挙げておきたい。

北一輝は、明治16(1883)年、酒造業を営む北慶太郎の長男として新潟県佐渡部湊町に生まれた。本名の輝次郎は、これまで長男が早死にしやすいことから名づけられたという。中国風に北一輝と改名したのは中国革命に深く関わってからである。アジア主義者としての北一輝の人物的評価は、次に挙げる李彩華氏の論文「北一輝のアジア主義と中国」を参考にしたい。「戦前・戦争直後に行われた日本の北一輝に関する研究では、北の思想は一般的に右翼的イデオロギーとしてネガティブに扱われていた。これは彼の思想が当時において『二・二六事件』と関連づけられて理解されていたことが多かったからである。北は第一次世界大戦終結後における日本の体対内外政策の混迷した状況の中で、軍国主義の色調に近い『日本改造法案大綱』を執筆し、近代国家日本に対して『剣の福音』による急進的な国家改造を構想しようとした。その結果、北は「昭和維新」をめざした軍事クーデター『二・二六事件』の思想的指導者と見なされ、軍事裁判によって死刑と判決された。この事件によって北の思想は、戦前、戦争直後を通じる思想界において『日本的ファシスト』の典型としてほぼ全面的に否定されていたのである。」[4]戦前・戦争直後における北一輝の評価は高くはないものの、昭和30年代に入ってから北に対する評価に変化が現れ始めた。

彼のアジア主義思想に関する位置づけは、さまざまな中間的な言論を除いていえば、だいたい帝国主義、侵略主義への転落を指摘する観点と真のアジア解放論者としてほぼ全面的に肯定する観点との二極に分かれている。北のアジア主義を「心情と論理が分裂している。論理が一方的に侵略の論理に身を任せてしまった」と分析し、帝国主義段階の新しいタイプであるとする竹内好の主張、辛亥革命に対する北の情熱を高く評価しながらも、東洋の盟主たる日本の使命をひたすら「剣の福音」の中に求めた彼のアジア主義は、結局のところ帝国主義、侵略主義になだれ込んでしまったと見る花田清輝、野村浩一、松本健一氏らの見解は、おおむね前者の論議に属するものである。そして、北を「『改造日本』と『革命支那』の提携を基軸として、アジアの解放、アジアの発展を推し進め、欧米の支配した世界を変革しようとした革新的思想の持ち主」であるとする岡本幸治の論評は、後者の代表的なものといえよう。

 北の思想と行動は、李氏も自身の論文で指摘しているように、ごく大まかに捉えていうと、日本革命の思想家として近代日本に対する国家改造を企図することと、そしてアジア主義者として近代日本のアジア諸民族との関係を模索することとの両面において展開された。北の活躍した20世紀初頭の日本は、国内では近代国家として独立・発展するための変革の問題、そして国外では西洋の帝国主義のアジアへの侵略及びそれによって複雑になったアジア諸民族との関係問題などの課題に直面していた。

明治36(1903)年、満州・朝鮮の制覇を争う日露戦争が勃発寸前となり、日本の世論は日露戦争の是非を巡って沸き立っていた。世論では主戦の声が圧倒的に多かったが、幸徳秋水らの社会主義者をはじめ一部の知識人による非戦論の主張も強く打ち出されていた。この頃すでに社会主義者と自称していた北は、社会主義者の非戦論に反対し、「吾人は社会主義を主張するが為に帝国主義を捨つる能わず」と断言して主戦の立場を表明した。日露戦争へのこうした言動は、彼の視野がアジア問題へ開かれていったことを意味している。

日露戦争開戦にあたって北が主戦論者の立場になった理由として、李氏は次のように分析している。「開戦の根拠として北が第一に挙げたものは、日本民族の運命とアジア民族に対する日本の使命の問題であった。北は日露の戦いを日本民族とアジアの存亡にかけての正義の戦争として捉えたうえで支持の論理を展開している。北によれば、日本はロシア強豪の力に対して力をもって対抗するしかない。これは、日本の存亡問題となっているからである。(中略)さらに、これはアジアの存亡問題でもある。(中略)つまり、ここで北は日露戦争の正当性を日本民族の正義のみならず、アジアの解放・保全の正義にも見出していたのである。北にとって、日露戦争は日本が日本だけのためにロシアと戦うものではなく、アジア諸民族の権益を保全するための戦いでもあったのである。ここまでの主張はアジアの同胞を助けて欧米列強の帝国主義に対抗するというアジア・ナショナリズムの思想、いわゆるアジア主義の一般的な論理に共通しているといえる。」[5] このように、北もはじめは欧米列強への抵抗を契機としてアジア諸国の連帯・共存をめざす、純粋なアジア主義者であった。しかし、しだいにこの戦争を逆に日本の領土・人口問題を解決する好機と見なし、欧米帝国主義の強権政治への対抗策として、日本も領土拡張に乗り出さなければならないと力説し始めた。


 アジア主義の原型を辿ってみると、明治時代に現れた代表的なアジア主義の書である、樽井藤吉の『大東合邦論』に行き着く。この書はアジア主義の原型を示唆し得るものであり、この書自体の変遷や受容のされかたが、現在の我々に対して何らかの問いかけを与えてくれるだろう。

欧米帝国主義諸国によって東アジア3国の独立が脅かされているという危機感を背景として、大井の朝鮮出兵計画、福沢諭吉の「脱亜論」、そして樽井藤吉の「大東合邦論」は全て1884(明治17)年の甲申事変を契機として、その翌年に展開されたものだとわかる。

この「大東合邦論」は、非常に奇抜な発想でアジアの連帯を説いている。すなわち、日本と朝鮮が合併して1つの国(合邦)となるという壮大なアイデアものである。そのメリットとして樽井は「これと相合すれば清・露と通商の便を得 」「韓人は体躯大にして膂力強し。ゆえにわが兵制を習い、わが兵器を用うれば、露寇を防ぐに足る」と経済・軍事の2つの点を挙げている。また、「今両国の旧号によらずして、もっぱら大東の一語を以て両国に冠するは、この嫌いを避けんと欲するのみ」「欧洲の連合諸邦も旧名を各州に存し、総称をその上に冠す。今両国の合邦もまた、各々旧号を用い、それを総ぶるに大東の号をもってすれば、事態穏当にしてその間に隙を生ずること無きなり」と、新しい国名を「大東」とすることで両者共々納得のできる合邦をするべきだと述べている。

 さらに樽井は「両国の地勢は輔車唇歯相依る。いずくんぞ相離れるべけんや」と主張して「接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず」とした福沢の「脱亜論」を痛烈に批判した。「それ戦ってこれを取らば、必ず国力を疲疵し、もってその怨を買わん」「今協議してもってこれを合するは、その大幸たるはたして何如ぞ」「けだし大公を持してこれを合すれば、我は兵を用いずして朝鮮を取るなり。朝鮮もまた兵を用いずして日本を取るなり。一将の功成らずして、万人の骨枯るるなし」と、軍事力ではなく温和な話し合いによる合邦を説いていることからも、樽井が朝鮮との対等な連帯を思い描いていたことが読み取れる。


 例えば「朝鮮の政治は蠧秕甚だ多し。わが立憲政治と相合すれば、積弊自ずから除かれ、その国の安寧、その民の幸福多弁を要せざるなり。合邦は両国の共和よりして成る。故に立憲国の合邦は、名誉と懿徳とをもって元気とする」などの部分に対し、朝鮮に対して見下した意識が垣間見られる、などという考え方もできるだろう。「しかれども天運の循環は往きて復らざるは無し。東方の時運を熟察するに、鶏すでに鳴き、天まさに曙けんとするの辰なり。わが日本は亜洲の東極に位す。よろしく先覚者となり、もって友国の迷夢を破り、これを富強開明の域に導くべし」「これ東極に在って東号を冠するものの義務なり。いわんや親和合同は東人の天賦の性なるにおいておや」という表現に見え隠れするような「先覚者」意識である。竹内好は「そもそも日本が朝鮮を指導できるとする根拠は、日本が朝鮮に先駆けて「西洋化=文明化」したこと一点にのみ求められる」と『大東合邦論』を論評した 。

 しかし、忘れてはならないのは「外人のこの地に拠るを恐るればなり」という、樽井が合邦を説くに至った背景である。欧米帝国主義諸国から独立を維持するために朝鮮と合邦すべきなのであって、当然そこには欧米に対抗しうる力が必要だった。そしてその意味で樽井は福沢の「脱亜論」の中の文明論的思考は否定していない。文明開化の進んだ日本が朝鮮を先導するのは至極当然であり、それは対等な合邦であることと矛盾しないだろう。竹内は「日本の帝国主義と西欧の帝国主義を分かつ論理は雲散霧消 」と述べているが、少なくともこの時点では、日本と西欧の立場には「守ろうとする者」と「奪おうとする者」という大きな差異があったはずである。いや、前者については、これを帝国主義と呼ぶのさえはばかられる。

 そして樽井は、「しからばすなわち数十年を出でずして、アジア黄人国の一大連邦を致すべきなり」「わが黄人、天然肥沃の大洲に生まれ、白人に数倍する口数有り、しからば競争社会に処してまた畏るるに足るもの無し」と最終的に全アジアの連帯を視野に入れていた。大東国と清が結んで黄色人種の一大連邦を築き、欧米帝国主義への対抗するべきだと叫んでいるのである。これを「興亜論」と呼ばずして、なんと呼ぼうか。(この段落、本当に佳寿子さん自身の文章ですか?)国際的な「競争」のための「朝鮮との合邦」 ではありえない。「競争」ではなく「抵抗」なのである。

 結局のところ、樽井のアジアに対する思いは、列強の圧迫下にあった段階の被侵略者としての仲間意識や共感に他ならなかったのである。どの国も微弱で欧米諸国の侵略を恐れている哀れな存在である。そこで樽井は「脱亜」を選ばずに連帯を選んだ。福沢が「東方の悪友」と称した清を樽井は「東国の益友」と表現した。もちろん「欧米の諸国は、一個人制度たり。一個人制度は、一身をもって国本となすの謂なり。故に、その人親愛の情おのずから薄し」「東亜の諸国は、家族制度たり。家族制度は、一家をもって国本となすの謂なり。故に上下相保つの心最も切なり」「故に合邦は、もとより東方諸国に適するものなり」といった合邦の根拠にこじつけの感があるのは否めないが、それも欧米によって抑圧されている立場だという「共通性」を強調しすぎたにすぎない。「日朝同祖論」が同化政策に使われたように、こうしたこじつけの「共通性」が危険なことは確かである。けれども、当時の樽井がアジアの連帯を心から願っていたのは疑いようのない事実である。

日清戦争の結果、日本は朝鮮から清の影響力を排除することに成功し、また清から受け取った多額の賠償金は日本の財政を潤わせた。しかし、この戦争の勝利は、日本人にとってのアジア観に影響を与えたという点でも重要視することができるのではないだろうか。福沢諭吉の「脱亜論」の項で、当時の日本人が「アジアと日本」から「アジアの中の日本」へと意識変革をまだ達成できず、それはその後近代化がある程度進むまで待たなければならなかったと述べた。(この段落、佳寿子さんの本編には言及がない。したがって誰かの論文、多分松本健一論文からの「丸写し」と思われる。もしそうなら「松本は言う『・・・』のような引用符を付さなければだめ」すなわちこの日清戦争の圧勝は日本の近代化の成功を如実に物語っていたものであり、その意識変革を可能にする要素をもちえたのである。  しかも、1885(明治28)年の下関条約によって清から日本に割譲されるはずだった遼東半島は、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉によって放棄させられた。日本の国民がこれに対して激しい怒りを覚えたのは想像に難くない。そんな状況で「脱亜論」を批判する「興亜論」は生まれた。言葉としての「興亜」が誕生したのはこの時期である。それは「日本はすでにアジアのなかで朝鮮や中国よりも進んだ国家になっている。その日本が中心となってアジアの解放を進めるべきだ」という思想であった。当然そこには、近代化に成功した立場として日本がアジア解放の旗を掲げて先頭を歩くべきだという自負が存在する。しかし目的はあくまでも「興亜」であった、そこにはまったくアジア侵略の意図はなかった。

さて、その「興亜論」の初期の提唱者として荒尾精まで遡ることができる。荒尾は日本中が「脱亜」を叫んでいた時期に、一少尉として熊本聯隊の強化に成果をあげながらも「西力の東漸が甚だしい。さらにロシアの東亜に対する圧迫が急だ。防ぐにはどうするか。東亜を安泰ならしめるためには、支那を目覚めさせ、力をつけさせ、日支が力を合わせて西力の東漸にあたる 」と独自の「興亜」思想を抱き続けた。その以前、1882(明治15)年に陸軍士官学校を卒業する際にも、荒尾は「祝いの言葉は東洋興隆のときに受けたい」と言った。

1886(明治19)年、荒尾は陸軍中尉として大陸の実地踏査のために中国に渡った。立身出世コースである欧米留学をあえて棄て、志願して中国へと向かったのである。黒竜会出版の『東亜先覚志士紀伝』(1933)によると、「当今の俊才はいずれも争うて欧米留学を希望するが、足下ばかりはなぜあんな固陋きわまる支那などに行こうと思うのであるか」と尋ねられた荒尾は「世間のものは欧米に心酔して支那を顧みようとしません。それゆえ私は支那に行こうと思うのであります」と答えている 。まさにこれが「脱亜」から「興亜」への意識変革である。日清戦争前のこの時期にこうした思想を持った軍人がいたことは特筆に価する。  『東亜先覚志士紀伝』の中で、荒尾は「支那へ行って何をするのか」との問いには「支那へ行って支那を執ります」と答えたとされているが、続いての「支那を執ってよい統治を施し、それによってアジアを復興しようと思います」という言葉で、それが侵略的思考(実に黒竜会などが展開した政略に直結するような思考)ではないことが判る。日本は清を引っ張っていかなければならないと荒尾は考えていたし、それも全て白人至上の世界情勢への抵抗のためだった。実際、荒尾は日清戦争終結後の領土割譲にすら批判的な主張をしている。  荒尾は中国に渡ったのち、「世界人類の為、第一着手として支那の改造を期す」という大旗を掲げ、漢口の楽善堂(前述の岸田吟香が経営する点眼薬の薬舗)の堂長として活動していた。しかし「西欧に対抗するには、日中両国が提携し、力をつけてなければならない。まずは貿易を盛んにすることだ」と陸軍を辞め、上海イギリス租界の一角に日清貿易研究所を開設した。それはまだ1890(明治23)年のことであった。「五百年に一度は、天、偉人をこの世に下す。というが彼はその人ではあるまいかと信ずるくらい敬慕した 」と荒尾を絶賛していた玄洋社の頭山満は資金援助を惜しまなかった。研究所ではその後山崎羔三郎・島田経一ら玄洋社の若者たちが学んだが、日清戦争が勃発して閉鎖に追い込まれた。  荒尾にはほとんど著書がなく、また日清戦争終結後すぐに志半ばにしてこの世を去ったため、決してその知名度は高いとは言えない。しかし、彼の「興亜」の魂は確実に後世の思想家たちに受け継がれていった。彼の最後の言葉は「ああ東洋が東洋が」というものであったが、欧米帝国主義からのアジア解放のために立ち上がった者たちは、きっと皆がこのような想いを持っていたに違いない。

「隣国の/人愛せよと/のたまひし/君がみことば/耳に残るも」  この歌を残した近衛篤麿は、荒尾精の「興亜」思想を継承したその1人である。近衛篤麿はかの近衛文麿の父であり、「英米本位の平和主義を排す」に見られるような文麿の力強い思想にも大きな影響を与えた人物である。近衛篤麿は日清戦争中の1895(明治28)年、逝去する1年前の荒尾からその著書『対清弁妄』を寄贈されている。前述のとおり、荒尾はこの著書の中で、日本は清に勝とうとも領土割譲を要求するべきではないと主張している。必ず列強の干渉が入り、同時に列強による中国の蹂躙・分割を促してしまうだろうと予言し、見事に的中させているのである 。近衛はそれ以前に、日本の基本戦略として海運事業振興を唱えていた。それがアジア復興のために日本・清・朝鮮三国間の交通・貿易・交流の促進を提唱していた荒尾との接点を生んだ要因でもある。  荒尾との接触によって、近衛の中に育っていた「興亜」主義は一気に開化した。それが結実したものが、「同人種同盟 附支那問題研究の必要」という論文であった。この論文が雑誌『太陽』に掲載されたのは1898(明治31)年、ちょうど帝国主義列強による中国進出が激化していた時期である。近衛はこの中で「最後の運命は、黄白両人種の競争にして、此競争の下には、支那人も、日本人も、共に白人種の仇敵として認めらるるの位置に立たむ」「支那人民の存亡は、決して他人の休戚に非ずして、又日本人自身の利害に関するもの 」と、このままでは白人帝国主義の犠牲になってしまいかねないという危機感を背景に、中国との連携によって欧米帝国主義に対して抵抗するべきだと力説している。そして、中国人とともに「人種保護の策」を講じるために「今日の要は先づ支那問題を研究」しなければならないと主張した。  日清戦争は確かに「脱亜」の賜物だったのかもしれない。しかし、この19世紀の末、日本はようやく「脱亜」から解放される可能性を手に入れた。繰り返すが、それが近代化なのである。(佳寿子さんの本論文では別に「繰り返し」てはいない。この段落は削除すべき)近衛にしても、福沢諭吉が「脱亜論」の拠りどころとしていた「文明」の価値を、決して無視していたわけではないのだから。  さて、その中国との連帯という目的のため、近衛は同年(1898年)に東亜同文会を設立した。その綱領は「支那を保全す/支那および朝鮮の改善を助長す/支那および朝鮮の時事を討究し実行を期す/国論を喚起す 」というものであった。この東亜同文会は民間文化交流団体としての枠を取り外せるものではなかったが、それでもはじめて「支那保全論」が言葉として表れたと言う意味で重要である。これも日本が脱・「脱亜」という方向性を持てるまでになったことを示している。  当然、近衛の「興亜」意識は朝鮮・中国の保全論で留まるものではありえなかった。1898(明治31)年、近衛は失脚直後の康有為と会見しているが、この時「東洋は東洋の東洋なり」と述べて「アジア=モンロー主義」を提示している。康有為に対する「東洋に於て亜細亜のモンロー主義を実行するの義務、実にかかりて貴我両邦人の肩にあり。今日の時局容易に此事を行ふべくもあらず。而かも我最終の目的此辺にあらざる可らず 」という言葉からは、近衛の最終的な目標として、欧米帝国主義からのアジア解放というものがあったことがうかがえる。  ところでモンロー主義とは、そもそもアメリカ第5代大統領モンローの教書(1823年12月)に始まるアメリカの外交戦略である。相互不干渉を訴えて発布されたこの教書は、しかしながらアメリカ大陸とヨーロッパの関係においてのみ有効であった。アメリカがアメリカ大陸原住民の土地や太平洋の数々の島を手中に収めていくことはマニフェスト=デスティニー、すなわち「明白なる運命」として正当化していたのである。

近衛は翌年1899年、7カ月にわたる海外視察を行っている。ハワイにおいて日本人移民の半数以上が白人の奴隷と化し、アメリカ本土では中国人が迫害されている、そうした「身勝手で明白なる運命」の惨状を目の当たりにした近衛は、自らの対外観を確固たるものにする。太平洋において領土を拡張しているアメリカが、じきに東アジアを標的にするであろうことは明瞭であり、国家戦略を持とうとしない日本政府に対する近衛の苛立ちは高まる一方であった。

 そんな近衛が日露開戦論者であったのは至極当然だと言える。近衛は何と北京議定書の締結前からロシア、そしてドイツに対する開戦を総理大臣山県有朋に提言している。この時、近衛は北京からの撤兵をも進言している。これは、日露開戦において侵略的意思が全く付随しえなかったことを証明してくれている。

 1900(明治33)年9月、近衛を中心に国民同盟会が組織された。「夫れ支那の変乱は唯だ支那の変乱に止まらずして其禍の波及する所実に寰宇の全局に関す。況んや東亜に国するものは其利害の切なる同舟風に遭ふに異ならず」「東亜の平和を克復するは寰宇の平和を克復する所以にして支那を保全し朝鮮を擁護するは独り我が国権国利を自衛するのみにあらず 」と宣言した国民同盟会は、陸実・頭山満・中江兆民・犬養毅・平岡浩太郎ら朝野問わず幅広い人材を網羅していた。宣言の中にある「寰宇」とは世界・宇宙といった意味で、世界においてアジアを「快復」させるという切実な思いが表れている。国民同盟会は伊藤博文らの模索した対露同盟構築や満韓交換論を徹底的に批判し、満州占領を続けるロシアへの不快感を露骨に表した。下部組織として全国同志記者同盟会を抱えるなど、全国的な運動を展開の甲斐もあり、世論はほぼ中国の保全論に傾斜した。

 近衛は日英同盟の成立を手放しで歓迎した。満州問題解決への前進であったばかりでなく、日本政府が中国の保全や朝鮮の擁護を国是として確立したという、大きな意義を持つと考えたからである。実際、日英同盟は東洋の平和に充分貢献しうるものであった。アメリカが反ロシアの姿勢を強めていたこともあり、ロシアは清との間に満州還付条約を締結し、3年以内の撤兵を約束した。

 その直後、満州からロシア勢力を一掃することを主目的としていた国民同盟会は解散した。近衛はこの時、日本の利害や東アジアの安危を阻害する勢力が現れた場合、国民同盟会を再結成することを公言していたが、僅か1年でそれが現実のものとなる。ロシアが還付条約を履行せず、逆に満州・蒙古の各種権益を清に要求したことに対して対露同志会が結成されたのである。そして翌1904(明治37)年2月に日露戦争が勃発するに至るわけだが、近衛はその1カ月前に42歳の若さで逝去している。

 戦前の近衛に対する評価は概して高かった。日清戦争の勝利に傲ることなく国民の意識をアジアに向けさせ、ロシアの脅威を訴え、そして光栄ある戦勝を見ることなくして逝った近衛は、日中友好を推進させようとした「興亜」主義者として理解されていた。しかし、戦後になって、近衛の「支那保全論」をはじめとする「興亜」的主張が帝国主義的政策の一環だと解釈される傾向にあるという。たとえば、坂野潤治はその著書 の中で近衛を侵略者扱いしている。しかし、日本が東洋の盟主となるべきだとする近衛の提唱そのものが、すなわち彼を帝国主義者・侵略主義者としてみなす根拠になりうるのかは、甚だ疑問である。

 「支那保全論」は真に中国のことを思いやった結果の産物ではなく、切迫した国際情勢の中でロシアの脅威に耐えるために唱えられた、いわゆる自衛上の議論であったという見方もされている。これは確かに正論だと言えるのだろうが、国際関係において、とりわけ帝国主義こそ正統だとみなされていた時代で、自らの国益に最も重きを置くのは当然だろう。近衛も、それで侵略者扱いされてはたまらないだろう。しかも、少なくとも近衛が中国の利益を蔑ろにしていたわけではない、否、中国そして全アジアの快復を心より望んでいたことは覆せない事実である。

このように、先にあげた岡倉天心、北一輝、そして樽井藤吉の例を見ても、専制に苦しむ民衆を救うという展望において民族国家的狭窄と偏見がない。そして彼らの唱えたアジア主義は、もっぱら民衆の生活に根ざした草の根的な抵抗の発現として生まれた。つまり初期のアジア主義は、欧米列強の脅威に対する抵抗を契機としたのである。そしてその目的はもっぱら侵略主義にあったのではないことを付け加えておく。


(2) 明治維新の力学〜「復古」と「開化」の影響

(3) 中世天皇制と近代天皇制の比較 〜権力と権威の観点から〜

2000年5月、森首相は神道政治連盟国会議員懇談会の席上で「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国」と発言した。そもそも、象徴天皇という考え方は、戦後になって生まれたものなのか。「象徴」という意味は何か。天皇制とは政治的概念か、文化的概念か。かつて想定された「神性」をすべて捨て去り、人間天皇ととらえることが妥当なのか。これらの問題を考察することは、象徴天皇制の存続にとどまらず、日本の政治・文化の行く末に深く関わる。

1945年8月、日本が敗戦し、マッカーサー率いるGHQが日本を占領したとき、世界各国が直面した問題は、「天皇とは何か?」ということである。ソ連は「天皇制」という言葉を初めて用いた30年代の「コミンテルン・テーゼ」そのままに、「専制君主」ととらえようとしたが、それにしては天皇の直接的な専制支配がなされたようには思われなかった。イギリスやアメリカは、はじめは天皇の戦争責任を追及しようという意向が強かったが、しだいに戦争責任を追及するより、権能を行使することのない制度として天皇制を存続させるほうが有利と考えた。これにより、GHQの憲法草案には「天皇は国民統合のシンボル(=象徴)」と記載された。

 歴史をさかのぼると、7世紀末〜8世紀初頭、天皇が直接統治する形から、大臣が実質的権力をにぎる形に移行した人物が藤原不比等であるといわれる。天皇が直接統治をしないという意味での象徴天皇制度は1000年をつらぬく「常態」であった。しかし江戸末期に国学が発達し、天皇崇拝の思想が芽吹き始め、儒学は主君絶対視の解釈までもが登場した。幕末になるとそれが尊皇攘夷の思想へと結びつき、皇帝権力の強いプロシア型憲法が採用されたこととあいまって、明治国家は親政の思考を持つようになる。

 明治憲法は天皇を神聖な、侵されることのない存在と規定したが、これは一方では天皇のあらゆる面での免責と実効的不関与を意味した。しかしここで注意しておきたいのは、天皇制は「目に見える制度」であると同時に、心理や内面に食い込んだ「目に見えない制度」でもあるという二重性だ。なぜ、天皇制は今日まで滅びなかったのか。天皇制は単なる制度ではなく、じつは人々の内面を支え、さらには活性化させる役割をもっていたのではないか。天皇は「聖」の側面をもつと同時に「俗」の側面をもち、政治的存在であると同時に文化的存在である。こうした性質を踏まえて天皇制を見直していけば、日本の歴史は「象徴」ゆえに可能となる二重性から何を引き出すか、あるいはどのように利用していくのかの連続であったことに気がつく。



(4) 国学のあゆみとイデオロギーの変化 まず、国学としての神道の歴史を振り返ってみよう。神道を国学として復興した最初の人物は荷田春満(かだのあずまろ)である。次にその流れを継承したのが賀茂真淵(かものまぶち)、真淵の弟子になったのが本居宣長。宣長に学んだのが平田篤胤(ひらたあつたね)である。これら四人を称して“国学四大人”と呼ぶ。「国家神道」は江戸期の封建制に由来する絶対的な分権性国家体制を、より近代的な集権制国家体制に編成し直すための日本ナショナリズムの形成を意図したものである、と加々美先生は言う。

1853年7月8日、ペリー提督率いる黒船艦隊が浦賀沖に来航。日本人はこのとき初めて“西洋の衝撃”に出遭う。東南アジア・中国が徐々に欧米列強によって植民地化されつつある現状に、日本の一部の識者たちは、当時まだ近代国家ではなかった日本自身の姿を重ね合わせ、危機感を抱いた。平田篤胤などの国学者たちは、この社会を「国家」という1つの意識の下に統合することのできる思想を「国学」によって実現させることを目的とした。つまり西洋の圧力に直面するまで存在し得なかった「国家」意識を日本人の中に確固として根付かせたかったのである。それによって日本が近代化を成し富国強兵を図るための礎としたかった。しかし「天照大神のもと、日本をひとつに」という神道の思想は、やがて国家神道へと結びつく。この日本近代ナショナリズムこそ、昭和初期までに天皇制超国家主義体制を作り出し、ひいてはアジア侵略戦争を引き起こした精神的支柱となった。




第三章 東亜同文書院と日中友好のゆくえ

(1) 現代におけるアジア主義と日中関係

過去は現在にとって都合よく思い出される。都合の悪い過去は無視され、あるいはなかったかのように忘れ去られる。1930年代のアジア主義の歴史的経験の場合も同様である。戦前の否定の上に立ち、あるいは戦前を無視する今日の立場からアメリカへの対抗=アジアとの連帯を考えても、おそらくは同じ誤りを繰り返すことになるだろう。だからこそ、いまアジア主義を問い直さなければならない。そして我々にとってアジア主義とは何か、それを今後の日中関係にいかに生かしていくのか、これらのことを考えることが大切である。

 日中両国が現実に直面する問題として、次の靖国問題を例として挙げたい。



(2) 靖国問題をどう見るか

  2006年7月13日、私は東京の千鳥ヶ淵戦没者墓苑と靖国神社に行ってきた。千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、予想外にもひっそりとした広大な敷地の中央にぽつんと献花台が立っているだけだった。靖国神社はちょうど御霊祭りの最中で、お祭りを楽しみに来た若者や家族連れで賑わっていた。靖国神社というと、いつも終戦記念日間近になるとニュースなどで小泉首相が厳粛な様子で参拝している風景がテレビに映し出される。靖国神社は普通の神社と違い、どこか物々しい雰囲気さえ頭に描いていたので、お祭り気分で来ているたくさんの若者や家族連れを見て、どこか拍子抜けしてしまった。あれだけテレビで騒がれていても、実際に地元に住んでいる人々にとっては、靖国神社は私たちの想像以上にもっと身近な存在なのかもしれない。

遊就館の展示を観ていた際に、私はあることに気づき、大変ショックを覚えた。日本の歴史を記した年表をよく見ると、日本の古代史が神話の世界から始まっているのである。

「天照大神のもと、日本をひとつに」―この国家神道の思想がそのときふと私の頭をよぎった。現実に靖国神社が今も国家神道の歴史と深いかかわりを持っているのだということを改めて感じさせられた一件だった。




  <まとめ>

日中関係はどこに進むべきか 〜書院の精神を振り返って〜


1930年代の日本外交は、アジア主義を追及する過程で、アメリカなしにはやっていけない現実に直面した。アジア主義的な国際秩序は、アメリカの関与がなければ成立不可能であることが明らかとなった。日本外交は、対米関係を最重要視するようになる。

これを対米従属と呼ぶ人はいないだろう。日本外交は自主的な選択として、アジア国際秩序のための対米協調を模索することになったからである。

 では今はどうか。アジア主義の中に含まれる侵略の可能性を否定はせず、「アジアの解放と発展」の理想をより広範囲に広げていくこと。それにはまず、戦後の視点に立ちながらも、戦前を全面的に否定はしないことが重要である。先のアジア主義者たちが掲げた理想の意味を汲み取り、明日の日中関係に生かしていくことは、非常に意義のあることである。

  今の国際情勢にあって、我々日本人が対米協調路線を取りながらアジアとの友好関係を発展させていく、ということは至難の業かもしれない。しかし戦前のアジア主義者たちは同じように試みたのである。当時の状況にあってはアジア主義の理想がファシズムによって悪用される結果となってしまったが、今日の我々はこの経験を踏まえた上で新たな関係をアジアの近隣諸国と築いていくことができると信じている。そのためにも、いま、我々は真剣になってアジア主義のことを学ばなければいけないのである。



(参考文献)

『東亜同文書院大学と愛知大学』愛知大学東亜同文書院大学記念センター編
『常識「日本の論点」』「日本の論点」編集部編、文藝春秋発行、2001年
『中国21』2006.3 愛知大学現代中国学会編、風媒社発行、2006年
『東亜同文書院大学と愛知大学』第3、4集 愛知大学東亜同文書院大学記念センター編
『日本とアジア』竹内好著、筑摩書房発行、1966年
『日本史の思想―アジア主義と日本主義の相克―』小路田泰直著、柏書房発行、1997年
『近衛篤麿―その明治国家観とアジア観―』山本茂樹著、ミネルヴァ書房発行、2001年
『竹内好「日本のアジア主義」精読』松本健一著、岩波書店、2000年
『日本知識人のアジア認識』鈴木正編著、北樹出版、2003年
『アジア主義を問いなおす』井上寿一著、筑摩書房、2006年

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[1] ホームページ「アジア主義とは何だったのか」参照。(http://homepage1.nifty.com/tkawase/osigoto/asianism.htm)
[2] ホームページ「アジア主義とは何だったのか」参照。
[3] 松本健一著「竹内好『日本のアジア主義』精読」54ページ参照。
[4] 鈴木正編著「日本知識人のアジア認識」52ページ、李彩華氏論文「北一輝のアジア主義と中国」参照。
[5] 同58ページ参照。


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