中国における韓国の化粧品
目次
はじめ
第1章 化粧の歴史
1−1 化粧の歴史
1−2 韓国の化粧の歴史
1−3 日本の化粧の歴史
1−4 中国の化粧の歴史
第2章 化粧と経済
第3章 化粧品市場の特性
3−1 技術集約的な高付加価値産業
3−2 ブランド重視
3−3 内需志向産業
3−4 顧客の多様な需要
第4章 中国の化粧品市場現況
4−1 中国の化粧品市場の発展過程
4−2 中国化粧品市場の特徴
第5章 多国籍企業の中国攻略の事例
5−1 ロレアル
5−2 資生堂
第6章 韓国企業の進出現況
6−1 太平洋
6−2 韓国化粧品
まとめ
はじめ
女性において化粧というのは昔から欠かせないことである。私も化粧をし始め、この化粧というのはいつから、どうしてするようになり、化粧品はいつから作られたのかが気になり始め、このテーマを選択した。そして、韓流ブームで韓国の化粧品について研究するようになった。
2002年5月SAMSUNG経済研究所が発表した‘BEAUTY産業の浮上と成功戦略’という報告書によると‘BEAUTY’を急浮上する市場として紹介している。特に、経済発展が資本、労働、土地などの有形資産から技術の第1段階の無形資産と知識の第2段階の無形資産、第3段階の芸術と感性の無形資産へ移っていく中で最も代表的な第3段階の無形資産で‘BEAUTY’産業を選んだ。全世界の化粧品産業の市場規模が1995年以降年平均7%の成長を見せながら2001年基準約100兆ウォンを超える事実がこれを証明している。地域別ではヨーロッパが35%で最も大きな枠を占めて、アメリカが32%、アジア・太平洋地域が22%順である。しかしヨーロッパとアメリカの市場が飽和状態に入り、アジアと中南米市場が急浮上している。得に、中国の場合これから10年間焼く12%の成長をすると思われ、2010年には市場規模がドル基準92億ドルに達すると思う。
中国社会科学院の傘下の政治経済研究所と国務院の傘下の研究開発局等4つの有力期間が作成した報告書からも‘BEAUTY’産業が不動産、自動車、情報通信、観光などに続いて5代高収益業種に入っていたのが分かった。2003年の場合化粧品産業分野の全体売り上げ金額の規模が520億元(62億7,000万ドル)規模に達したと集計した。付け加えて800万人に達する人々がBEAUTY業界に勤めていて、持続的にBEAUTY関連製品を購入する消費者たちの数だけで3億人を超えていると思う。
これによって多国的の化粧品企業たちが中国に進出して攻撃マーケテイングをしている。中国市場に進出した多国的化粧品企業は現地の関連法規と地域的の特性、事業時留意事項、生活水準向上、国際化の雰囲気などを早く受容して素早く対応しながら市場を拡大している。
韓国の企業も中国市場に進出しているがまだまだ初期段階である。しかもグロバール企業たちの国内市場を占めている中ね韓国企業が生き残るためには中国市場の開拓しかない。
本研究は化粧品市場の特徴を基にして中国市場の現況と韓国の対応戦略を工夫することを目的にする。第2章では化粧品市場んじょ全般的な特徴を研究、第3章では中国化粧品市場の発展過程と特徴を研究した。第4章では多国的企業たちの中国攻略の事例について、第5章では韓国企業たちの進出現況に対して研究する。そしてまとめでは韓国企業たちにあげる時事点を提案することで、この研究をまとめにする。
第1章 化粧の歴史
化粧はその時代背景や文化によって、様々な変化を遂げてきた。時代ごとによって、その様子や歴史的変遷を見ていく。
1−1 化粧の歴史
化粧の起源−現代の人類に近い骨格を持っていると言われているクロマニヨン人のいたおよそ4〜5万年前までにさかのぼると言われ、大変に長い歴史を持っている。この時代は遺品から生活道具や武器が発見され、歴史上初めて動物やその他の家畜・生活様式を壁画に残したといわれている。また、一説には約20万年前のネアンデルタール人の時代までさかのぼるとも言われている。この時代の化粧とは、狩猟の儀式の際に体にペインティングしたものという説があり、[1]赤の粘土・赤い顔料を体に塗ったものを言う。また、紀元前3000年ごろの遺跡で化粧瓶・化粧パレット・手鏡・コール壺が発見された。これが、はっきりとした化粧行為の確認といえる。
1−1−1 古代エジプト
西洋の化粧文化流れの出発点とされている。この頃には樹脂や練り香水が作り出され、エジプト人は香りのよい水で水浴するという習慣もあった。また、特徴としては目を強調するためのアイメークがよく見られた。当時の女性は今でいうアイライン・アイシャドーみたいなもので目の周りを真っ黒に塗っていた。この化粧は目をパッチリ大きく見せるために目を縁取っていたのかもしれない。しかし、これには他の意味があったと言われている。それは太陽の光を和らげるためや信仰のための二つだ。今では美しさのためにとする化粧だが、化粧の始まりは宗教に関連していた。
1−1−2 古代ギリシア・ローマ
この時代の化粧はエジプトのものが伝わったと言われている。ローマでは色白が美しさの基準であったため入浴が盛んに行われていた。現代で言うパックのようなものも盛んに行われ、鉛白や白亜(チョーク)などが使われていた。また、スプレニアも流行した。この時代の付けぼくろはオシャレが目的と言うよりは、吹き出物などを隠す役割を果たしていた。そして、贅沢を好むローマ人は香料を大量に使用していたよ。特に貴族たちは髪に付ける香油を浴室に持ち込み、一日に三度もすりこんでいた。
1−1−3 中世
この時代はキリスト教の影響で化粧はあまり進歩せず、むしろ回教(イスラム教)の世界で大きく進歩した。
1−1−4 16〜17世紀
ルネサンス期を迎えるころ、イタリア・スペインを中心に香水が流行した。これは、入浴して体を清潔に保つといった心遣いがなくなり、衛生に気を配るよりも香水のにおいでごまかすことをしていた。その後、香水は欧州全域にも拡大した。香水は官能を刺激するものとしてだけではなく、いろいろな伝染病(特にペスト)に対して有効な予防薬として考えられていた。また、この時代にも付けぼくろ(パッチ)が流行した。これは古代ギリシア・ローマ時代のものとも異なり、肌の白さを引き立たせるためのものだった。素材もベルベットやサテンでつくられており、この流行は次の世紀まで続いた。
1−1−5 18世紀
この頃から化粧の様子が少しずつ変化していった。具体的には頬の上に紅を丸く塗ったり、唇いっぱいに紅を塗ったりしたことだ。これはルイ14世の愛妾モンテスパン夫人の影響があるといい、彼女が出入りする以前の宮廷では紅はあまり使われていなかった。また、市民階級は地味な色、上流階級の貴婦人たちは鮮やかな色など紅の色合いで女性の階級などを区別していた。化粧品はすべて匂いが強かったが香料水を使うことも流行し、匂いが強ければ強いほど珍重された。さらに、エチケットとして毎日香水を変えることも要求され、この香水の流行が貴族階級から市民階級へと広まった。この時代も16〜17世紀同様に肌の白さは重要視され、引き立たせるために皮膚の上にうすく青色で1〜2本の血管を書いたりもした。
1−1−6 19〜20世紀
時代とともに濃厚な化粧はすたれ、控えめな化粧や香り、そして再び白い肌が好まれるようになった。第一次世界大戦後は日焼けした小麦色の肌が健康美としてもてはやされたが、1930年ごろまでにはまた日焼けを嫌う傾向へと変化していった。そして、1955年ごろにファンデーションが発売され、世界共通の化粧方法が生まれはじめた。その後、各国の化粧品メーカーが科学技術品としての化粧品に腕を競うようになり現在に至っている。
1−2韓国の化粧品の歴史
1−2−1 三国時代以前
金、銀、珠玉飾り慣習と新羅の霊肉一致思想が調和することで新羅人たちは清潔を重視する同時に化粧品と装身具などの発達を持って来た。すなわち新羅人たちは紅、髪油、香料、白粉及び色粉を使用していた。
1−2−2 高麗時代
化粧文化がもっと発達した。香料を服と身に振り撤いて、香煙が身に付くようにして、香嚢を何個ずつ佩用して、粉を畿重にも塗ったりしていた。
1−2−3 朝鮮時代
贅沢を禁圧した社会風潮にしたがって本来の美しさを土台にした美容で傾向が変わる。内外面の美の合一を追い求めて徳と度量の修練を重視した。
原始社会宗教意識で使って最高の化粧品と呼ばれる香料は韓国に仏教が紹介されながら大衆化されて上・下流男女が広く愛用した。民間で使った香料は香り濃い花びらとその幹を乾燥させて作ったものである。これ以外に動物、鉱物でも抽出して麝香はその中で、広く使われた香料であった。
B.C.2000年頃中国で初めて使った。白粉は米と黍粟(きびとあわ)のパウダーを 3:2で取り合わせて作り、韓国では 7世紀以前に作られた。
植物及び動物のいろいろ油が昔から化粧品または化粧品溶解制に広く利用された。この油は日の光や温度変化に敏感だったので、三国時代から土器及び陶器の油瓶の製造が促進された。
B.C.1150年頃中国で使って, 韓国では 1500年の前から使っていた。特に紅の赤色を雑鬼が憚るので開いてから鬼の接近を予防すると言って少女たちも額と唇、頬に広く利用していた。
先史時代の人々が冬、肌の凍傷を予防するためにドンゴを使用し、小豆または緑豆の泡を立てて洗い、蜂蜜を下地に使い、これを顔に塗って引き離したりした。
1−2−4 古朝鮮〜現代
檀君神話によもぎ、ニンニク美容法が紹介されたことで韓国人も原始時代から化粧をしたと信じられる。三国時代には新羅が一番化粧術が発達して百済は粉は塗るのに紅は塗らない仄かな化粧法を楽しんだ。高麗の時も粉は白く頬には紅も塗って髪油までも使い、鳳仙花水で洗顔をした。朝鮮時代宮廷や良家の箱入り娘たちは鳳仙花水や小豆を磨って顔を洗って、一般女性はきゅうり、蜂蜜、よもぎ等求めやすいものなどで顔を飾ってきた。近世に入って 1916年 ‘朴勝輯’と言う人が韓国の最初で朴家粉という粉を開発して市販した。1930年代に作られたドンドングリムというのは韓国で作られた最初のクリーム形態の化粧品だった。60年代に入りながら非イオン性界面活性剤[2]が導入して化粧品工業は技術的に油絵と可溶化に画期的な転換を持って来た。70年代に入りながら化粧品は量的、質的に大きく成長し始めた。80台に入りながら新規化粧品業社の急増で新しい製品開発が要求された時期だった。90年代は市場開放で収入化粧品の国内市場蚕食が加速化されながら国内化粧品の国際競争力向上が至急な課題で頭をもたげた。最近は植物原料や天然成分を使った自然性、資源節約型、ごみ減らし型包装容器等、親環境の製品開発が増えている成り行きである。
1−3 日本の化粧品の歴史
1−3−1 古代
まだ文字というものが、発明されていなかった縄文・弥生時代は、埋葬された人骨が資料となった。例えば、抜歯や削歯をすることで所属する部族の違いや成人か否かの区別をしていたことや、人骨に付着した朱や埴輪の顔面に塗られた赤などから顔料を顔に塗布=彩色したことが推測されている。顔料を塗布した理由は鎮魂や魔よけのため、あるいは種族の表示を意味したといわれている。そのほか土偶や埴輪に描かれた線や色などから顔に入墨が施されていたことが知られている。いずれもその目的は断定はできないが、呪術など、人間の力の直接及ばない対象に対するメッセージ、あるいは他の集団に対して自分達の所属を明示してその違いを見せる表示目的で化粧が行われていたと思われる。
又、『日本書紀』の上代では、顔に赤土を塗る風習があったことも記されている。
以後、遣唐使が廃止されて国風文化が誕生する平安時代半ばまで、中国大陸、当時の隋や唐の影響を受けた美意識が発達する。その中で一番記述が多いのは眉に対する美意識である。『古事記』や『万葉集』などには、いずれも孤を描くような細い眉が美しいとされました。大陸文化の影響を受けて眉の形を整える美意識が発達していたことが想像できる。
白い肌を尊ぶ考え方も眉の美意識同様、大陸文化の影響と考えられる。
1−3−2 古代末〜中世
平安時代も中期になると、文化の諸分野でそれまでの唐の影響を脱して優美な和様が主流になり、いわゆる国風文化が発達していく。化粧においても、白粉や頬紅、お歯黒、眉化粧が貴族階級で発達し、私たちが知っている伝統美の基本が形成される。特にお歯黒と眉化粧(眉毛を抜き、さらに額のうえに描く方法)は前の時代は見られなかった美意識であった。
万葉の時代には眉の形にこだわりながらも、平安時代後期以後、成人すると、本来の眉を消去して、額の上部に画き眉をする風俗を生み出した。同時にこの時代、歯を黒く染める風習は、鉄漿(かね)ともいわれ、貴族社会で女性が成人になったしるしとして始まった。お歯黒の原理は鉄を酸に溶かしてタンニンを混ぜて黒く染めるのだが、その起源には様々な諸説がある。のちに貴族の男性も行うようになり、公家の男性の化粧文化として明治になるまで続いた。
この時代の顔に関しては、中高という美の基準と顔隠しの文化が存在した。中高とは正面から見て真ん中、すなわち鼻が高いという意味で、転じて美人を表した。顔隠しとは垂髪の額髪を耳に挟むことははしたないとされ、人前でやたら顔をあらわにするものではない、という美意識の発達をうながした。外出時も被り物(被衣や子女笠・虫の垂れ衣などにはじまり、江戸時代の帽子や頭巾類をさす)をして顔を見せないのが当たり前とされた。
1−3−3 近世
江戸前期では額の形を良く見せるために生え際の化粧、際化粧が、後期には衿足をすっきり見せる衿化粧が発生し、日本的な顔の化粧美を成熟させていった。
古代末から始まったと思われる顔隠しの文化は化粧を通して普及していった。とくに武家階級の女性にとって、嫁いだ先の親や夫の前でさえ、素顔を見せてはいけない、必ず白粉を塗って化粧するのが女性のたしなみとしつけられた。質素を旨とした武家社会では、化粧はしなければならなかったが濃いのは嫌われ、口紅もほんのり桜色につけるのがよいとされた。
この時代は商工業の発達で、化粧品の製造と消費が増大していった。当時の白粉の三大消費地は歌舞伎と遊郭と大奥の世界といわれ、歌舞伎役者にちなんだ商品名が登場した。
紅は紅花から採ったものがもっぱら口紅として使用された。「紅一匁(もんめ)、金一匁」といわれるほど紅は高価で、口唇が玉虫色に光るほど濃く塗るのは贅沢とされ、武家社会では嫌われた。江戸時代後期には、墨を下に塗って少量の紅を塗ると、紅をたくさん塗ったときに同じ効果がでることから、笹色紅(ささいろべに)とよばれる化粧法が流行した。
お歯黒は江戸時代には一般の女性にも広まっていく。結婚と同時に婚姻と貞節(黒はほかの色に交わらない、貞女は2人の夫につかえない)の表示として行われるようになり、既婚者のしるしとされた。それまで上流階級の女性のあいだで行われていた眉を剃り落とす慣習は、この時代には一般女性にまで普及し、結婚して子どもができると眉を剃り落とすようになった。
1−3−4 近代
明治に入ると、内面的には武士道という日本的なものを求めながら、外見は少しづつ欧米化していく。それまではあたりまえのお歯黒や眉化粧が野蛮とされ、まず公卿や華族に対して明治初年に「歯ヲ染メ眉ヲ掃」ことをやめる禁止令が出されて近代化への道を進み始めた。これは、長い伝統的価値観や美意識を根底から崩し、生まれたままの美しさ、健康的美しさを発揮していく先駆けとなった。化粧品も政府の殖産興業施策により石鹸などの新しいものも製造され始めた。
お歯黒や剃り眉が廃止された背景には、幕末から明治にかけて来航した異国人達の日本風俗批評の影響もある。新しい時代の到来によって、何百年と守られてきた風習は、表面的には終焉を迎えた。しかし、「ぬれからす」という簡単なお歯黒用の粉末もこの時期売られており、まだこの風習は一般の人の間では行われ、地方によっては、昭和になってもまれにお歯黒をする人もいた。
又この時代には、化粧の第一としての白粉化粧に使われていた鉛白粉の鉛の毒性が問題化していった。鉛白粉を使っていた歌舞伎役者の足の震えが止まらなくなったりするなど、社会問題化していった。そのため、害を防ぐための無鉛白粉の開発も、この頃から始められた。日露戦争の頃から本格的に無鉛白粉が販売されると、その品質のよさと宣伝効果によって無鉛白粉は徐々に普及していった。しかし、鉛白粉は売られ続けた。
鉛白粉の人気が高かったのは、使用感、仕上がりが良かったためで、俳優など職業上必要な人は、有害とわかっていても使い続けた。
眉化粧は明治初年に眉を剃ることが禁止されて以来、生やすということが、若い娘に限らず全女性の新しい化粧法となり、新しい美意識を生んでいった。又、この時代ではマニキュアなどの美爪術も西洋から伝えられた。
明治期に多方面にわたって紹介された欧米の美容は、上流階級を中心として模倣されたが、大正時代になるとそれがもう少し下の層まで広まり、同時に、日本流にアレンジされ始めて、大衆化の道が切り開かれ出した。こうした背景には第一次世界大戦がまずあげられる。この戦争に加わった日本は、大戦景気を招き、産業も非常に発達した。戦争によって欧米の大国と肩を並べるようになり、世界の動向―経済、思想、文化、風俗―の影響をより直接的に受けるようになっていった。
女性の風俗面をみると、欧米では、この大戦により大きな変化が起こった。男性と同様に女性も社会に出て働き始め、服飾や髪型なども活動しやすい機能的なものへと変化していった。スカート丈も短くなり、髪も短くなった。この影響は日本にも時をかけずして入ってきた。女子の職場進出も目ざましく、女医、教員、婦人記者など知識階級の職業から、事務員、女給、デパートの店員、バスガール、電話交換手なども現れた。こうした中で、服装、髪型とともに、美容も手軽さ、機能的であることがうたわれ出した。新しく開けていく文化の時代に生活する女性は、第一に手軽で短時間にしっかりと仕上がる化粧を工夫する必要があるとされていた。髪の乱れや白粉くずれを気にせず、仕事がきちんとでき、他人に快い感じを与える化粧が求められたのである。
需要増加とともに化粧品の種類も増え、雑誌の広告量も増大した。この頃は、化粧、美容が大衆のなかに浸透すると同時に、日本流の近代美容が築かれる一方、古い価値観もまだ存在していた。
白粉は大正時代に入ると文字どおりの白い粉から肌色(当時は肉色と呼ぶ)になり、自分の肌色に何色の白粉が似合うのかを考えざるを得なくなった。
口紅は、練り紅や水紅が用いられ、頬紅も大正時代に健康美を表す化粧法として使用され始めた。当時はまだ口紅は点す(さす)もので、塗るという意識になるのは第二次世界大戦後しばらくしてからである。いずれにしても、この時代の基本的な化粧やマナーに対する美意識は、前の時代に武家社会がもっていた価値観を受け継ぎ、大衆化していったことが特徴であるが、化粧そのものの大衆化は次の時代まで待たねばならなかった。
1−3−5 現代
大正の末から昭和初期にかけて、都会では時代の先端をいくモダンガール、モダンボーイ達が話題をふりまいた。断髪、洋服姿のモダンガール、長髪のモダンボーイ達は、銀座の町を闊歩し、人々の目を奪った。
女性たちは、束縛からのがれ自由に思いのままに化粧もし始めた。その背景には、めざましい女性の社会進出と、また女子教育などの高まりによって新しい意識に目覚め出したことがあげられる。
昭和では、第一次世界大戦の負傷兵の顔を整形するためのものを応用した美容整形が女性たちの間で行われ始めた。その内容は、瞼、あごなどのたるみ、シワなどを取るものや、二重まぶたにするもの、切れ長の大きい眼にする方法、目の上のくぼみを治すものなど多種にわたった。
化粧では、肌色化粧が定着する中、小麦色化粧が流行した。日本人には、小麦色を土台として、二色、三色をまぜ合わせて、肌の色に近くするのが最も良いとされた。このときは目の縁を淡く隈取り、まぶたにも化粧をした。まさに洋風化粧であった。
頬紅は、顔の短所も長所も支配し、化粧法の巧拙は、頬紅のさし方で決まるともいわれるほど、近代美容の中では重要な役割を持っていた。塗りさえすればよいという身だしなみ時代は過ぎて、この時期は、白く塗って平面的になった顔を立体的にするものと考えられた。
口紅は、描き方によって顔全体の印象が異なるものであった。特にこの時期になると、口元を隠して微笑むのではなく、はっきりと鮮やかに笑いの表情を出すのが、近代女性とされたため、口元は注目されるところであった。口紅も頬紅も年齢、肌の色、服装との調和を考慮して色を選択するようにいわれた。
眉は、喜怒哀楽の感情を表現し、描く形は時代思想を最も表現するものであった。描き方に和と、洋の区別がつけられ、和服の場合は、自然な弧を描く感じで、洋服の場合は、多少直線的に長めに描くのがよいとされた。いずれにしても、自分にふさわしい眉を研究するのが、近代女性に不可欠のことであった。
まつ毛は、長く濃いほど魅力的とされ、「つけまつ毛」や「かきまつ毛」も紹介され、まつ毛をカールさせる器具の宣伝も登場したが、素人にはあまり勧められなかった。
目の化粧としては、この時代に新しく、洋装の普及に伴ったそれにふさわしい化粧が取り上げられた。目の形により、アイシャドウのつけ方も考えられ、色も緑、茶、ダークブルーなどが日本人に似合うとされた。又、目を大きく見せる方法として、アイペンシルで目張りを入れることも出てきたが、話題となった目の化粧も、外人の真似は日本人にふさわしくないという批判もあった。
その他、マニキュアは赤や黒など個性的な色も登場した。アイシャドウやマニキュアなど時代の先端をいく化粧は、まだ受け入れられる素地ができていなかったようで、第二次世界大戦後しばらくして、徐々に浸透していった。
明治時代に欧米美容が紹介されて大正時代から徐々に日本流にアレンジされ、昭和時代にはさらに消化した形でそれが浸透し始めた。そして、欧米の新しい美容も時を経ずして紹介されだす一方、日本の伝統美容は徐々に廃れていった。こうして、日本の近代美容が築かれていった。昭和十年代後半には、雑誌や本で美容を取り上げるものは少なくなり、美容面では空白時代を迎えたが、これまで築かれた近代美容は消えることはなかった。それは、戦後著しく発達していく美容の基盤となっていった。
戦後の化粧史は、従来の伝統的な日本の美意識からの脱却、および社会的な枠組み(身分や未既婚、職業)としての化粧からの解放であり、大衆化し、若年化していく歴史でもあった。
戦後の化粧風俗は、アメリカの進駐軍と直接に接していた女性たちから始まったといっても過言ではない。長い髪、ロングスカート、ショルダーバッグ、ネッカチーフに、黄色い白粉にフレームレッドの真紅の口紅が特徴的で、しだいに一般の女性たちにも流行していった。
1950年代は、1940年代から続くアメリカン・スタイルの全盛に始まり、しだいにヨーロッパ指向へと移っていく時代であり、映画が流行をつくった時代であった。その顕著な例は、ショートボブとよばれるヘップバーンカットとピンク化粧の流行である。当時はパーマネントが一般化し、女性たちは軽やかなヘアースタイルを求めはじめていた時期であった。ファンデーションの色は戦後まもなくは平均的肌色より黄味の強い、オークル系の色がよく使われたが、ハリウッド映画をはじめ、1950年より上映されはじめた国産の天然色(カラー)映画の登場により、肌色の流行はピンク系に傾いていった。同じころ、蛍光灯が普及しはじめたが、蛍光灯の下では顔色が不健康な土色に見えたので、それを補正するために明るく赤味の強いピンク化粧が要求されたという事情も流行を推進させたといわれている。こうして、白粉、ファンデーションのピンク系の流行が、1960年代後半まで続いた。このピンク化粧は、健康な血色が表に出ているように見え、頬紅と同じ効果があったので、頬紅はそのあいだ、流行しなかった。
1960年代後半の流行といえばミニスカートであった。その全盛の時代にはアイシャドウ、マスカラ、つけまつ毛、目の下にまつ毛のように描きこむ「描きまつ毛」も現われ、フェイス・シャドウなど使えるものはすべて使いながら、日本人離れした西洋的な立体感のある顔にメーキャップして、装飾的メーキャップの極みを行うまでに至った。
1970年代に入るころから、ウーマンリブ・女性解放運動の影響を受けて、伝統的な化粧観、すなわち人前では素顔を見せないという江戸時代の武家社会以来の化粧観が崩れ始めた。なぜ女性だけが化粧(メーキャップ)しなければならないのか、という批判が発生し、その結果、素顔(ノーメーク)で公の場に出る女性が登場しはじめ、「素顔も顔」と考えられるようになった。この「素顔も顔」という考え方の登場によって、若い女性たちの化粧観がそれまでの社会性の強い化粧から個人的な化粧へと変わり始めた。エチケットだからというような、社会から強制されていた化粧意識から、本人の意思に任された、自分の表現としての化粧意識への変化である。又この年代は、公害が社会問題となり、自然志向が強まった。化粧においても化粧しているかどうかわからないようなナチュラルメイクアップという化粧法が流行した。
1980年代以降には、男性の化粧観が変化してくる。男性が化粧(メーキャップ)することは化粧の歴史や文化をみれば珍しいことではない。しかし、この時代の変化は従来とは異なる要素を含んでいた。その始まりは、1960年代に男性のヘアースタイルに長髪が取り入れられたことで、髪の長さで男女差がなくなったこととも大いに関係している。すなわち、この時代の男性化粧は男性像の変化によりもたらされた結果であった。1980年代に入ると、音楽の世界で男性のメーキャップが流行した。たとえば、YMOの坂本龍一、沢田研二、郷ひろみたちである。アイカラーを入れ、口紅まで塗るメイクアップは男性性を否定し、女性的な要素を強調するフェミニンなものであった。結果的には中性的な魅力を出して、それほどの嫌悪感なく受け入れられていた。その後の化粧動向をみると、若い男性は黒いパック剤やスクラブ入り洗顔料をはじめとする基礎化粧品を購入し、素肌の手入れに重点を置きはじめた。これが清潔志向の始まりである。臭さや毛深さが嫌われ、脱臭、脱毛が要求されるようになった。その結果、従来の生物的に成熟した男性像よりも無臭無毛ですべすべの肌をもった「かわいい」男性が支持されるようになった。
1990年代に入ると、テレビに出演する歌手の影響を受けて、若い女性を中心に眉を細くする化粧法が流行した。「茶髪」がブームとなったのもこのころである。染める人も女性に限らず男性も行ない、年齢も高校生から従来白髪染めで黒く染めていた中高年の女性まで広がり、毛染めを楽しむようになった。伝統的な「日本人は黒い瞳に黒い髪」という価値観は完全に崩壊し、黒い髪は1つの選択肢になりさがった。ガングロの流行で肌の色も白肌指向だけではなくなり、髪の毛の色同様、自由化(ボーダーレス)の時代になる。
1990年代半ばには、若い男性のなかには眉の手入れをして形を整える人が出始めた。基礎化粧品の男女平等化に続いて、メイクアップの世界でも男女のボーダーレス化現象が起きているといえるが、余分な眉毛を抜いてきれいに清潔に見せているという清潔志向もあるといえる。
このように、20世紀後半は、伝統的な男女の壁、大人子どもの壁、日本人らしさというような社会的な枠組み、化粧観が崩壊して、カラーコンタクトによる瞳の色の選択も含め、自由に外見を選択できるようになっていった時代であった。
1−4 中国の化粧の歴史
BC6世紀の〈詩経〉に見える蛾眉が中国で一番古い化粧に関する記録である。女性の眉毛は昆虫の触角のように細くて長いことが一番美しいとなっているので貴婦人たちは先を争って炭や木炭で眉毛を細く描いていた。このように眉毛を細く描く風習はその後 2000年以上伝来された。特に唐代の絵画や詩にこのような眉毛を持った女性がよく登場する。口紅や白粉も眉墨と同じく古くから中国で使われた化粧品であり、これを合わせて脂粉とも言った。この話はBC 4世紀の文献によく現われ、その時代の遺跡で出土した化粧道具ではその残り物が出た。初期の白粉は鉛白や滑石で、口紅には銀化合物の辰砂(朱丹)、赤土が使われた。漢代に入って女性の化粧法は急速に発達した。油にこねて作った白粉が登場して、顔はもちろん首と肩まで白粉を塗り、まつやにと鉛を混ぜたポマードで頭を整えるのが流行った。また眉墨に黄土を使って描く黄眉、悲しみを含んだように描く愁眉、目下の白粉をわざわざむいて泣いたように見えるようにする滞粧などの独特の化粧法まで考案された。そして西域ではすでに紅花が栽培され、花から紅(ベニ)が作られていた。
漢方化粧品は「温故知新」のたとえのように、本当に「古くて新しいもの」といえる。
第2章化粧と経済
資生堂のビューティークリエーション研究所では、女性の化粧と経済発展の関連も研究しているが、戦後の高度成長期以降の、総じて日本経済が上昇基調の時代には、アイメーキャップを形成ぬるめ、眉など顔の情半分に活気が見られ、自己主張が明快であるとともに、強い「さむらい顔」になっていると分析している。さらに、バブル経済の頂点に立った昭和末期から平成初期は女性のメーキャップは穏やかな表情となり、経済発展の頂点を極めたあとのくだり坂、即ちオイルショックの後やバブル経済の崩壊期にはなんとなく冷めた表情のアンニュイなメーキャップが主流となっている。
平成1桁期後半に見られる細かい眉は景気回復の低迷を表現し、それに続く清楚な幹事の太い眉への変遷は今後の景気回復の期待感を漂わせている。このように女性の化粧は経済発展の状況に大きく左右されると分析している。
しかし、一方では、化粧が女性の意識を変革させる役割も果たしており、元気のないときであっても、溌刺としたメーキャップで自分自身を勇気づけ、周囲を明るくさせる効果もあり、その意味では化粧が家族や社会を活気づけ、ひいては景気を良くし、経済発展に大きく貢献しているということもできる。化粧文化が化粧品産業の発展につながり、日本経済の発展にも結びついていく意味から、その業界発展の背景を知り、歴史をひもとく価値は、今後の日本経済を占う意味からも有意義なものと言えよう。
第3章化粧品市場の特性
3−1 技術集約的な高付加価値産業
化粧品産業は化学、生物科学、薬学、生理学など基礎科学と応用技術が複合的に作用される技術集約的の高付加価値産業だ。化粧品は製品別で独特な成分と製品工程を持っていて単純な模倣生産が混乱である。また、研究開発で創出された新技術で製造された製品は高付加価値を創出研究開発費を相殺してもあまる利益がある。
3−2 ブランド重視
化粧品の場合最初の製品の選択はブランドで左右、一度形成されたブランドイメージは持続される傾向を見せるため化粧品産業にとってブランドイメージの創出と管理はとても重要なことである。
3−3 内需志向産業
化粧品工業は内儒志向的の産業として地域別で多様な皮膚タイプが存在し、化粧の習慣も違う。だから化粧品産業の場合内儒中心で発達してきた傾向が見える。
3−4 顧客の多様な需要
消費者個人個人の皮膚タイプと好みによって選ぶ商品が違う。そして、嗜好性と流行性が強くなって顧客の需要を読みこれを反映した製品開発が継続に要求される。
要するに、化粧品を購入する時にはブランド認知度が重要な役割をする。また各国家別で多様な皮膚タイプと要求が存在するためグローバルなブランドイメージを維持しながら各国別で特性化された市場需要に適応することも重要である。そのため化粧品企業が海外進出をする場合、グローバル化と現地化を同時に追及する必要がある。固有ブランドだけのイメージを全世界的に同一に維持するグロバル戦略を使う一方、各市場毎の特性に合わせて製品と事業を多様化する現地化戦略が調和するのが重要である。
第4章中国の化粧品市場現況
4−1 中国の化粧品市場の発展過程
4−1−1 第1段階(1970年代〜1982年):上海ローカルブランドの国内市場独占
まだ本格的な開放が成り立つ前の時期で中国の中でもっとも発達した商業都市だった上海の化粧品ローカルブランドたちが全国を風靡した。
4−1−2 第2段階 (1982年-1996年) : グローバルな企業の進入
多国籍企業らが先を争って進出した時期で地元企業たちの悲喜はより鮮かになった。 ロレアル、Ohui、ジョンソン &ジョンソン、資生堂などが進出して高価の製品で高所得層若い女性を攻略した。 一方地元企業たちは中低価市場で強気を見せたが中小企業たちが雨後の竹の子でできながら企業の興亡が割れるようになった。
4−1−3 第3段階 (1996-2002年) : 地元企業たちの隙間市場攻略
地元企業たちが大型外国係企業らに対立して細分市場で侵透して入って行き始めた。 2002年市場規模は 1982年の 200倍位に達する。市場の規模が拡がって消費者欲求の多様化で新しい機能性製品たちが発売開始されて愛されている。紫外線遮断、美白、補習、傷あと除去、アロマ、男性用化粧品などが新しく浮かんでいる。地元企業たちは市場を細分化して隙間市場に対する専門化で勝負をかけている。
4−1−4 第4段階(2002年-現在) : 化粧品企業らの市場拡大
多国籍企業たちは中低価市場で市場を拡張して地元企業たちは中古が市場で市場の変化をはかっている。資生堂も比較的に高級ブランドであるオプレの後を引き継いで、‘Za’という中低価ブランドを出市した。ロレアルはミニナース(mininurse) ブランドを引き受けすることで中低がブランド市場に進出した。M&Aだけでなく合弁会社の場合パートナー持分を引き受けて事業を拡張したりすることで、Avonの場合、合弁会社の中国側パートナーマスンの持分20%引き受け、5500余りの中国内販売網を独自的に運営する事にした。
4−2中国化粧品市場の特徴
4−2−1 多数の企業出現
中国内化粧品生産業社は貿易開放初期の 80年代初盤ただ 50余所に過ぎなかったが、 2000年代に入って生産ライセンスを取得した業社だけ3千7百余所に至るほどに大きく増加した。これら会社らは2万余種の化粧品を生産しているし、大部分中小企業たちだ。合資や外資形態の企業が全体約 20%である 7百余所に至る。全体市場でこれら合資と輸入ブランドがそれぞれ 30%にのぼるほどに大きいパーセントを占めている。このように上位 10社が全体市場の60%を占めているし、販売収益基準では 45%だ。これら企業らは15〜 20%台の高い成長率を見せて全世界的なブランド認知度とイメージ、広告など先に進んだノーハウが裏付けされて地元企業らとの競争で先に進んでいる。地域別ではローカルブランドが強気をたたえている。
4−2−2 市場の細分化
化粧品選択の主要根拠は年齢と収入だ。高級ブランド市場は海外の有名ブランドが占めているし、収入が多い中年女性や若い女性たちを攻略している。中価市場は価格が比較的高い合作会社のブランドたちが市場を占有している。Ohuiや AVONが代表的だ。主に中低所得層位の女性の対象だ。低価市場は底所得層女性や学生たちが与えてください対象にして地元企業が占有している。中年層には古いブランドであるタバオ(大宝)が人気があり、若い女性と学生たちにはミニナース(mininurse)とタンバピ(丹巴碧)が人気がある。
4−2−3男性化粧品市場の成長
男性用化粧品の代表ブランドといえばタバオ(大宝)である。タバオは女性の場合には年齢が高くて収入が少ない人か学生層を対象にしたが、男性の場合には年齢が低く比較的に高い収入を享受する階層に小口している。彼らは購買力があって生活の質的水準に対して高い欲求を持っている。男性消費者たちは化粧品に対する要求が一応女性たちより気難しくない。女達のようにさまざまな機能性製品を願うのではないから中低価ブランドが效果的である。男性たちは高価ブランドに対しては魅力を感じることができないと現れた。またこのように製品選択基準が単純だからひたすらブランド知名度のみを見て決定をする場合が多いである。
男性用化粧品市場はこれから潜在力が大きい市場と見られる。高価の海外ブランドの場合には、男性たちを対象でハンサムキャンペーンをする必要がある。
4−2−4 ブランド忠誠度微弱
いまだに市場が成長段階にある状態だから中国消費者たちのブランドに対する忠誠度が不足である。 また底所得層の場合には価格による実用的な選択を好む方である。だから市場で確固に席を取るためには他のブランドとの差別性を見せるのが重要である。倦まず弛まないマーケティングを通じてブランドを構築してチェリピコドルを自分の忠誠顧客で作らなければならない。
4−2−5 多様な流通網
詳細市場毎に専門売り場とフランチャイズ、薬局などで流通網が多様である。ここに最近中国政府の訪問販売許容でこれを通じる化粧品販売も活発になることと予想される。ボディー用品とハンド用品は 55%が大型スーパーマーケットや大型ショッピングセンターで購買されて、マスク用品と子供用品は 30〜50%がデパートで購買される。またこれに加えて薬局用化粧品も市場に進出した。このように多変化されている市場の流れに歩調をあわせてそれぞれに適当な戦略を樹立するのが重要である。
4−2−3男性化粧品市場の成長
男性用化粧品の代表ブランドといえばタバオ(大宝)である。タバオは女性の場合には年齢が高くて収入が少ない人か学生層を対象にしたが、男性の場合には年齢が低く比較的に高い収入を享受する階層に小口している。彼らは購買力があって生活の質的水準に対して高い欲求を持っている。男性消費者たちは化粧品に対する要求が一応女性たちより気難しくない。女達のようにさまざまな機能性製品を願うのではないから中低価ブランドが效果的である。男性たちは高価ブランドに対しては魅力を感じることができないと現れた。またこのように製品選択基準が単純だからひたすらブランド知名度のみを見て決定をする場合が多いである。
男性用化粧品市場はこれから潜在力が大きい市場と見られる。高価の海外ブランドの場合には、男性たちを対象でハンサムキャンペーンをする必要がある。
4−2−4 ブランド忠誠度微弱
いまだに市場が成長段階にある状態だから中国消費者たちのブランドに対する忠誠度が不足である。 また底所得層の場合には価格による実用的な選択を好む方である。だから市場で確固に席を取るためには他のブランドとの差別性を見せるのが重要である。倦まず弛まないマーケティングを通じてブランドを構築してチェリピコドルを自分の忠誠顧客で作らなければならない。
4−2−5 多様な流通網
詳細市場毎に専門売り場とフランチャイズ、薬局などで流通網が多様である。ここに最近中国政府の訪問販売許容でこれを通じる化粧品販売も活発になることと予想される。ボディー用品とハンド用品は 55%が大型スーパーマーケットや大型ショッピングセンターで購買されて、マスク用品と子供用品は 30〜50%がデパートで購買される。またこれに加えて薬局用化粧品も市場に進出した。このように多変化されている市場の流れに歩調をあわせてそれぞれに適当な戦略を樹立するのが重要である。
第5章多国籍企業の中国攻略事例
5−1 ロレアル
10年前だけでも全体売上げの75%がヨーロッパで発生したロレアルが世界 No.1 ブランドで成長することができたことはまさに現地企業のM&Aを通じる多角化戦略のためだった。現地市場で中間規模の企業をチープな値段に M&Aした後、品質とブランドイメージを集中的に改善させる方式である。イメージが改善した現地ブランドはロレアルという企業ブランドの下で一緒に成長するのである。
ロレアルが良い実績をあげることは多くのブランドを従えることでそれぞれのブランドがそれぞれ独特の文化的イメージを構築しているということにある。メイブルリン、ラルプロレン、レドキンなどのブランドはアメリカの実用的なイメージを強調する。ランコムとロレアルはフランスの古典的な美しさを象徴する。一方ジョルジオアルマーニはイタリアの上品で美しいイメージで勝負する。
個別ブランドたちが自分だけの独特で差別されたイメージを持っているからロレアルは骨折って企業ブランドを強調しない。むしろランコム、メイブルリン、ヘレナルビンスターなど、個別ブランド名をもっと浮上させるマーケティング戦略を駆使する。しかしロレアルのグローバルブレンディング戦略が成功することができたことは化粧品がイメージで勝負する製品であるからである。イメージを売る化粧品会社は多様な文化的雰囲気を漂うほど有利である。
5−1−1 地元企業 M&Aを通じる多角化戦略
去る1996年中国市場に進出したロレアルの場合2003年度にこの市場であげた売上高が約 1億5.900万ユーロ(2億200万ドル)に達して、1年前に比べれば 69%や飛び上がった実績を果たした。これも中国内の地元中小企業に対する M&Aを通じる事業拡張を通じて初期にマーケットーシェアを育てることができたのである。ロレアルはまた 2004年上半期にだけ売上げ成長率が 85.3%に達したことで現われた。それにこの数値はロレアルが 2003年末買い入れたミニナース(Mininurse) ブランドと2004年初引き受けたウィエーサイ (Yue-Sai) ブランドの実績は含まれないのである。
ロレアルの M&A戦略の場合は中国内それぞれの多様な消費階層を狙うことができるという点で效果的だったと見られるし、成長中である中国化粧品市場でマーケットーシェアを先に先行獲得することで立地が確固できた。これはロレアルの先進マーケティングノーハウを土台で成り立ったのである。
5−2 資生堂
資生堂は大多数の売上げを占めた日本市場で景気低迷といっしょにシェア下落及び競争加速が一般化されると、新しい市場で目を向けるようになった。日本企業という特性の上、アジア市場で優位を占めていたし、またアジア化粧品市場の急速な成長とともに韓国市場を除いたアジア進出国家ではシェア 1位ブランドになった。現在資生堂は中国市場に集中するために 2004年 4月‘東アジア事業部’を‘中国戦略部’に変えて国内営業課中国市場事業を中心として組職を再編したりもした。資生堂にとって中国市場は明らかなスター市場として日本市場を含めた他の市場でのリスクを解決することができる良い機会になる市場である。
資生堂は外国係企業の中で中国市場に非常に成功的に進出した企業で数えられる。特に資生堂の流通戦略は中国に進出する多くの企業らに重要な亀鑑になっている。資生堂の2004年中国売上げは約 30億元(約 500億円)に推定される。外資企業の中で中国内化粧品市場シェア先頭である。資生堂がこんなに成功をすることができた理由は三つに分けて思うことができる。
5−2−1 中国化粧品市場の環境変化による戦略多変化
資生堂は 1981年フェイシャル、メークアップ化粧品を中国北京市で販売し始めた。他の企業らより中国市場に早く入って行くことはしたが、 改革開放初期時期だったからリスクが高くて中国現地の風土に対する理解が不足だったから資本投入が少なくて危険が少ない輸出の形式を選んだ。
1991年には北京リウィエン(麗原)会社と合作して 〈資生堂リウィエン化粧品有限公社〉 を設立した。中国では海外企業の 100% 持分所有形態の子会社設立が法で禁止されていたから合作投資形式を選んだが、資生堂側の出資の割合を 65%で維持することで安定的経営が可能となった。しかし従業員 967人の中で日本人従業員は 6人だけ使いながら現地化に力をつくしたりもした。
中国の化粧品市場の先行獲得のために多国籍企業らの攻撃的経営をするようになってから、引き受け合併が活発に成り立っている。資生堂も合弁会社の中国側持分引き受けと地元ブランド引き受けを通じて本格的にこの競争に跳びこんだ。2008年まで 5000個中国企業たちと中低価化粧品販売契約を結ぶ計画である。
5−2−2 オプレ(Aupres) 現地ブランドランチング−現地化
オプレは 1994年にランチングされて中国内で資生堂の発展を導いた核心ブランドと言える。オプレは中国市場専用商品で現地ブランドとして開発された。現在 25種類の製品カテゴリーで 12種類が生産されている。資生堂は中国市場 "専用"の意味を全面的に中国女性の皮膚を研究して世界最高水準の技術を利用して生産した化粧品であると説明している。 価格競争が熾烈な中国でも資生堂のPrestige 戦略を広げているのである。
オプレは現在 60余の都市の 360余のデパート及び大型商店に進出しているし、 最近 2年間 30% 以上の高速成長を見せた。こういうわけでオプレは中国内 300余のデパートで化粧品売上げ順位 1位に上がっているのである。ランチング以後、およそ 10年あまり間たゆまぬ成長街道を走って最近には連続3年北京優秀外国投資企業に選定されることもあった。
表 : 資生堂のイメージ向上戦略
5−2−3 3H戦略駆使、サービス強調 −ブランドイメージ再考
中国でも所得が高くなりながら高くても高品質サービスを捜す中国人が急増している成り行きだ。これは資生堂の 3H戦略ともかみ合う。3Hと言うのは "High Quality、High Service、High image"を意味する。資生堂はオプレの成功的なランチングのためにブランドイメージ向上に気を使って莫大な広報費用を支払った。既存の流通チャンネルを利用しなくて、直接販売事務所を設立して直営体制を運営した理由は消費者カウンセリングに集中して高級ブランドイメージを維持するためだった。
資生堂は会員制美容センターを北京と上海の二ヵ所で運営している。会員たちは美容センター内の美容室を無料で利用することができるし商品に対する相談及び自問サービスと季節ごとに最新商品に対する情報と会社動態、流行及びファッション係成り行きに係わる情報を提供される。資生堂会員だけの特権として全方向で専門的なサービスを享受するように考慮している。
また社会共益事業と中国体育事業などのその他社会活動にも参加しながら全方位的なブランド向上に力をつくしている。
第6章 韓国企業の進出現況
中国は国内化粧品輸出国の中で一番高いパーセントを占めている。去年輸出基準で中国は輸出国の中で 16.8%の比重で 1位に上がっている。国内企業の中国輸出も毎年増えている。2004年中国輸出は 1千6百95万ドルを記録、前年に比べて31.5%の成長率を現わしたし、主要業社たちの動きも活発で持続的に増加することと予想される。国内企業等は去る 90年代初盤から中国市場に進出し始めたが 2000年代に入って多数の企業らが中国を新しい市場または生産基地で判断しながら本格的に跳びこんでいる。最近荒荒しく吹いている韓流熱風も中国市場進出豪気に作用している。現在まで主要企業等の進出方式は現地代理上を通じる売り値が大勢を成していたが、太平洋と LG生活健康などのリーディング企業らは現地に生産、販売、研究法人などを設立しながらグローバル競争体制を取り揃えている。
6−1 太平洋
太平洋は去1995年潯陽に現地法人を立てながら直接投資したことである。2002年には上海にも現地生産法人を設立しながら現地化に拍車をかけている。現在上海と北京を含めた 21ヶ所の都市と東北 3省に製品が入店になっていてデパートと専門店を主要流通チャンネルでラネズとアモーレ、マモンドなどを販売している。 太平洋はラネズ単一ブランドに集中広報と大型プロモーション活動を通じるブランドの認知度の強化を基本戦略にしている。またデパート主として高級ブランドにポジショニングして強いブランドを育成するという方針を立てている。 太平洋は特に上海を成功地域として指折っている。太平洋は優秀な製品開発能力と徹底的な経営の現地化戦略推進、そして韓流影響に負ったと思う。ここに初期、明確なターゲット地域と顧客選定で成功を隣近地域に拡散させてブランド集中を通じるイメージ創出でブランドパワーを強化することができた。太平洋は2001年台湾を含んだ中華圏地域で 8百37万ドルの売上げを果たした。2002年9百70万ドル、2004年 1千8百万ドルで前年に比べて85.4%の急成長を果たした。今年は中華圏で 3千万ドルの売上げを期待している。
6−2 韓国化粧品
韓国化粧品は1994年東北3ヵ省の地域の市販チャンネルを中心に初進出した以後、2004年と2005年直販と免税店、ホームショッピングなどでチャンネルを多様化しながら中国市場を攻略している。現在市販はカリブランドを中心にエージェントを通じる現地営業をしている。ホームショッピングと直販、免税店の場合もエージェントを通じて高価ブランドであるオーシャンを重点販売している。市販は東北3ヵ省の地域を中心に運営している。今後の南方を含んだ上海隣近にも進出する予定である。免税店は北京と大連などを中心に全体 10個所あまりを運営中である。直販は現在構築された 20個所を拠点で組職拡張を通じる販売力を強化、 東北 3省、山東、上海地域などで広げて行くつもりである。ホームショッピングの場合単一ブランド、オーシャンで上海地域を中心に放送されている。2005年の末まで 4個ブランドを追加ランチングする一方、上海を拠点でその他地域でも広げて行くという方針である。特に韓流熱風の代表走者であるキム・ソヨンをモデルにしたスターマーケティングに重点を置いている。
まとめ
ビューティー事業はこれから21世紀を導いて行く代表的な産業になって行っている。もう産業が飽和状態に至ったヨーロッパと欧米ではないアジアと中南米市場が脚光を浴びるようになった。特に、高速成長を繰り返えしてビューティー事業においても成長潜在力の豊かな中国は多国籍化粧品企業らの角逐場になって行っている。中国市場に進出した多国籍化粧品企業らは先進ノーハウを通じて現地の関する法規と地域的特性、事業時注意事項、 生活水準向上、国際化雰囲気などを素早く収容して機敏に対応しながら市場を拡大して行っている。固有ブランドだけのイメージは維持しながらも中国市場に当たるように製品及び事業を多様化するなどグローバル戦略と現地化戦略を適切に使って中国市場を先行獲得している。
韓国の企業らも続々と中国市場への進出を急いでいる状況だ。屈指のグローバル企業らの国内市場蚕食が活性化になっている中に韓国の企業らが生き残るためには中国への進出は必須だと言えるだろう。
しかしもう中国内に法人を立てて直接経営に出ている多国籍企業らとは違い韓国は相変らず輸出を通じる代理形態にとどまっている実情である。太平洋とLG生活健康のようなリーディング企業らを中心に現地生産、販売法人などを取り揃えて行ってはいるが、まだ中国に進出した大体の企業らは本格的な事業を広げることができない。
韓国の企業らとしては今後とも行く道が遠い。まず中国は機会の地であることには明らかだが外国企業だけも500余個が進出した位に中国市場は競争が熾烈だ。また他の企業らがもうブランドを構築してブランド引受などを通じて現地ネットワークを構築した状況なので後発企業として先発企業と同級の位置に昇るのは難しいかもしれない。しかし韓国はアジア全域に広がった韓流熱風と近接した地理的位置及び文化背景など利点も多い。近視眼的な事業戦略から脱して他の多国籍企業らのように中国市場に対する徹底的な理解を土台で積極的に市場を攻略しなければならないでしょう.
参考文献
場勢陣(2004)、 『グローバル経営』、朴領事。
ルチアーノベネトング・福原Yoshiharu(2003)、 『ベネ通過資生堂若さに言う』、考えの木。
イウンヨブ(2004)、『化粧品産業の現況と見込み』、 ブックトピア。
ウェブサイト
ロレアルコリア http://www.loreal.co.kr/
資生堂コリア http://www.shiseido.co.kr/
資生堂ジャパン http://www.shiseido.co.jp/
山斗再選(山頭在線) http://www.stonline.net/
湖心いんぎん門望(好心情中文網) http://fashion.goodmood.com.cn/(2004-4-2)
http://www.kanlema.com/gb/business/shiseido/
シナダッコム 男人女人 http://eladies.sina.com.cn/(2001-3-29)
中国保健協会 http://www.chc.org.cn/
化粧品新聞 http://www.hjp.co.kr/
週間新聞 http://www.cmn.co.kr/
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[1]赤色・・・昔の化粧で一番使われていたのが“赤色”であり、世界中で赤は化粧を代表する色とされているそうだ。日本では、縄文時代・弥生時代・古墳時代まで肌に赤い色を塗ることが化粧とされていた。赤色のイメージとしては、照りつける太陽や血液・燃えさかる炎など熱や生命力を感じさせる色であり強いパワーを持っている。その強いパワーを持つ赤色を昔の人は「魔よけの色」として使っていた。
[2]水にイオン化されないで溶解される界面活性剤。
界面活性剤:緩い溶液の中で界面に吸い付いてその表面張力を減少させる物質で表面活性制ともいう。
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