愛知大学現代中国学部加々美ゼミ

中国自動車産業の基本的な枠組み

 SARS騒動により、ホンダの広州での小型車量産延期などの報道(『日本経済新聞』2003年5月19日付)もあるが、実は、ここにきて、中国の自動車をめぐる状況は急を告げている。ここで「ブレイクする」というのである。特に、中国自動車関係ではあまり話題に登場してこなかった日産自動車や三菱自動車工業などが、ここが勝負どころと虎視眈々と状況をにらんで取り組んでいる。さらに、台湾が重要な役割を演じそうだ。
 事情に疎い読者に、中国自動車産業の基本的な枠組みから紹介していこう。
 中国が改革・開放に踏み出したのは1978年末。その年の自動車生産台数はわずかに約15万台。うち乗用車は約5000台にすぎなかった。乗用車としては、幹部が乗る紅旗号とベンツの形を真似たとされる上海号しかなかった。また、商用車については、旧ソ連の援助によってつくられた長春の第一汽車(自動車)と、第一汽車のコピー工場とされた湖北省の東風汽車(旧・第二汽車)が4トントラックを生産していた。78年当時は全体で年産15万台に対し、自動車メーカーは55社とされていたことも興味深い。中国は伝統的に省別のフルセット主義が取られており、各省が基幹産業を一通り所有する。経済効率よりも安全保障が優先されるのである。



「三大、三小、二微」の厚い壁と現在


 ところで、改革・開放後、中国ほどの国では、当然のこととして、自動車(乗用車)の国産化が目指されていく。他方、各国の自動車メーカーも、将来の中国市場を深く意識し、80年代初めには北京に事務所を構え、対中関係を模索していく。だが、80年代は時期尚早との判断があり、大半の自動車メーカーは北京から引き揚げた。
 この時代、中国に積極的に踏み込んだのはドイツのフォルクスワーゲン(VW)であり、84年に上海汽車と合弁、上海VWを設立し、85年からサンタナの生産に入っていく。その後、このサンタナは2001年には約22万台(シェア約30%)を数えるトップ車種になっていった。なお、このサンタナは実はかつて日産の座間工場で生産されていたものであることも興味深い。
 だが、日本での評判はあまり芳しいものではなく、日産がVWに返上したという代物であった。VWは処理に困り、一時期、南アフリカに設備を移動させたが、さらに、84年に上海に持ち込んだのであった。ちょうど、タイミングが合ったということであろう。
 90年代に入り、特に、?小平の南巡講話のあった92年の頃から中国は劇的に変わっていく。世界の自動車メーカーは改めて中国進出の模索を開始する。だが、その頃には、中国側は「三大、三小、二微」という枠組みを突きつけてきた。90年当時の中国の自動車生産台数は約50万台、メーカー約120社とされていた。
 このままでは将来、国際競争力のあるメーカーを育成することはできないとして、乗用車に関し、将来はビッグ3、当面は、大型車生産3社、中小型車3社、そして小型車2社の計8社に統合していくことを意識していた。それが先の「三大、三小、二微」という枠組みであった。
 さらに、中国サイドだけではまともな乗用車はつくれないとして、それぞれに外国企業を1社ずつ張り付けていた。ただし、そのリストを見ると、世界のトップ3(GM、フォード、トヨタ)、日本の5大メーカー(トヨタ、日産、ホンダ、三菱、マツダ)は入っていなかった。日系ではスズキが合弁、ダイハツと富士重工が技術支援で入っているにすぎなかった。そして、90年代後半まで、この壁は極めて厚いものとして取り扱われていた。
 そして、90年代中頃のトヨタの苦戦ぶりは語り種にもなっている。90年代前半に自動車問題で訪中すると、関係者から「86年のことが忘れられない」と指摘されたものだ。「それは何か」と尋ねると、「トヨタが北京の事務所を撤収した年」と言われた。
 それは、個別トヨタのことだけではなく、日本自動車工業界の総意であり、「日本は中国を見捨てた」とまで言うのであった。
 その後、VWとの合弁により成功を収めた上海汽車は、上海・浦東新区で3000cc級、10万台(将来30万台)のプロジェクトを計画していく。この中国における最大級のプロジェクトに関しては、パートナーを盟友のVWではなく、世界のトップ3のどこかと合弁する意向を示していく。だが、これもいかにも中国的な結末として、世界最大の自動車メーカーであるGMで決着し、98年末にはBUICKが市場に投入されていった。
 また、この間、「三大、三小、二微」の一つであった広州汽車のパートナーであるプジョーが撤退を決め、その後釜にホンダが座り、99年春にはアコードを市場に投入していく。そして、その頃から、「三大、三小、二微」の声は聞こえなくなっていく。おそらく、中国側の判断としても、将来はビッグ3を意識するものの、当面は規制をかけるよりも、世界のメーカーを引き込み、競争させることのほうが有益との判断を固めたように思える。トヨタもようやく天津汽車との合弁が可能になり、2002年末にはヴィオスを市場に投入している。さらに、浙江省の私営企業である吉利汽車が格安の乗用車を生産し、注目を集め始めたのも、2001年の頃からであった。
 2003年春、SARS騒動直前の北京で、私は日本の有力自動車メーカー各社の関係者と接触した。同時に訪問した電機各社の方々は中国市場の難しさに憔悴しきっていたが、自動車各社の方々は沸き立っていた。2001年の中国の自動車生産台数は約230万台、うち乗用車は約72万台まできていたが、2002年は急増し、約325万台、うち乗用車は約110万台というのである。地元の受け止め方では、2002年からブレイクしたとされる。北京で対中関係を模索する日本メーカー各社は「この先が読めない」と興奮していた。


「日・中・台」メーカーの不思議な関係

 日本のマスコミの扱う日本メーカーの対中関連の話題は、トヨタの生産開始、広州ホンダの動向、さらに、2002年秋のカルロス・ゴーン日産社長の訪中と東風汽車との包括的提携などであろう。だが、それ以外でも、興味深い取り組みが深く潜行している。
 例えば、三菱自工の場合は、瀋陽とハルビンでエンジン生産を行っていることは知られるが、完成車に関しては、技術支援により現地ブランドで生産している場合がいくつかあるにすぎない。だが、ここにきて、興味深い動きが生じてきた。その一つは台湾の中華汽車との関係である。
 実は、中華汽車は両岸関係という中国と台湾の特殊な関係の中で、あの「三大、三小、二微」の厳しかった95年の段階で、対岸の福建省の福州汽車との間で合弁(東南汽車)を成立させている。この中華汽車には三菱自工の資本が約20%入っており、東南汽車は三菱モデルのデリカ、ランサー等四車種を現地ブランドで生産販売している。国内市場60万台とされる台湾は自動車メーカーが10社近くもある激戦地であり、中華汽車は台湾では8万台レベルにとどまっていた。
 この点、東南汽車は2000年の1万8000台から、2002年には4万8000台に急増しており、2003年には8万5000台が予想されている。台湾メーカーよりも規模が大きくなりつつある。このため、中華汽車は生産能力の拡大を目指し、さらに台湾の部品メーカー35社を福州に建設した工業団地に進出させている。
 パソコン、半導体に続き、台湾の自動車メーカーは中国に新天地を見出したということであろう。この流れに三菱自工がどう関わっていくのか、今後の取り組みが興味深い。
 さらに、三菱自工はダイムラークライスラーとの関連で北京ジープの改革に踏み込みつつある。北京ジープの生産するチェロキーは、いまひとつうまくいかず、数千台のレベルにとどまっていた。ダイムラークライスラー傘下(37.3%の出資比率)の三菱自工が北京ジープに動員され、2003年3月からパジェロモデルの生産に入っている。
 このプロジェクトには三菱自工の出資はないものの、初めて三菱ブランドのクルマが中国で生産販売される。
 三菱自工の判断では、中国全体の四輪駆動車の市場はこれまで2万台強とされていたが、ここにきて、5万〜6万台が期待されている。このように、中国自動車産業をめぐって事態は急角度に展開し始めているのである。
 たとえば、日産は7月1日から東風汽車での操業を開始する、と発表したが、これまでの進出実績としては、鄭州でのピックアップトラックの生産程度であった。だが、北京や上海周辺で、最近、ブルーバードを見かけることが少なくない。
 どうなっているのか。実はこのブルーバード、日産の台湾のパートナーである裕隆(日産の出資比率は約25%)が、広州で東風汽車と合弁(風神汽車)で生産しているものである。しかも、その生産台数は、2002年、あの注目されているホンダのアコードの約4万台とほぼ同数まできている。
 当面、日産の出資はないが、車両の前後に、「ニッサン」「ブルーバード」がつけられている。なんとも不思議な景色である。
 他方、昨年9月の東風との包括的提携は、乗用車は日産側のフルラインアップ、商用車は東風ブランドで対応するとされ、投資額約2700億円を半分ずつ持つことになっている。東風の本拠は内陸の湖北省であり、私は立地的な不利さと、相手の懐に入る合弁の難しさを心配していたのだが、当面、乗用車生産に関しては、沿海部の広州の風神汽車をベースに拡大する方向で決まったようである。おそらく、内陸で苦労してきた東風にしても、沿海への進出が意図されてきたのではないかと思う。
 その結果、かつて機械産業の過疎地であった広東省の広州には、ホンダと日産、さらに東風、裕隆などが集まり、一大自動車産業集積を形成しつつある。さらに、広州市政府は、市街地に隣接する広州空港の巨大な移転跡地を、一大自動車部品工業団地にする構想を発表するなど、中国自動車産業をめぐっては、ここにきて全く新たな可能性が見え始めている。さて、このSARS騒動以降、日本の関連企業はどうするのか、まことに興味深いといわざるをえない。

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