愛知大学現代中国学部加々美ゼミ

テーマ:    「日中関係」は「政冷経涼」へ?

概要:

日中関係は、なかなか感情的摩擦の悪循環から抜け出せないでいる。本来、歴史と伝統の重みがつまった濃密で複雑な関係であるにもかかわらず、日中両国の多くの人々の相互イメージは、驚くほど単純である。そして、世界の人々が日中関係をみる眼も、日中間の感情的いがみ合いにとらわれ、対立関係、競合関係の側面を強調するものがほとんどである。最近、日中関係が一挙に氷河期に突入したような感がある。 確かに、これまでにも長崎の国旗事件、安保騒動などと両国間には緊迫した時期があったが、国交回復以降は問題が出てもあまり大きくならないうちに収束し、日中間の経済交流を促進して日本も潤うと同時に中国の急速な経済発展を実現させるとともに、日中経済関係は新しい段階に入った。だが、二十一世紀に入ってから中日間の不調和音は大きくなるばかりで、「政冷経熱」の言葉がでるほどだった。小泉総理の任期が終わるまで日中関係は好転しないという中国筋の観測も現れた。そして、尖閣諸島問題、またこれまで店晒しにされていた東シナ海の日中中間線区域での石油ガス採掘問題まで各メディアで取り上げられ、きな臭いにおいが漂い始めていた時に、中国が国家統一に関わる最大問題としている台湾問題に対し、台湾問題を日米の共通の関心事としているとわざわざ日本が表明することで、中国もとうとう小泉内閣に見切りをつけたというのが一般の見方である。日中国交正常化以来、両国の間には両国関係の基礎を揺るがす「潜在的な摩擦」が終始存在している。なぜそういう「潜在的な摩擦」が出現するか、その「潜在的な摩擦」は一体何だか、また、「政治」と「経済」の連帯関係は何であるか、なぜ最近、両国が「政冷経熱」という状態になって、なぜ将来、「政冷経涼」という関係を予想するか、ということを検証する。

序論:

戦後日中関係の焦点(一九八〇年初まで、日中関係の回顧)

 戦後の日中関係の推移を大づかみに検討するには、貿易関係が一つの基準となる。もちろん、貿易関係のみが二国間関係のすべてではないし、貿易関係によって二国間関係の他の側面がすべて規定されてしまうわけではない。しかし、貿易関係には、二国間関係の他の側面の影響が多かれ少なかれ反映しているのも事実である。とりわけ、中国のような社会主義国の場合、貿易にも政治の影響が強く現れるため、関係の全般的動向を見るのには、便利な指標となりうるのである。第二次世界大戦後、中国では共産党と国民党の内戦が続き、一九四九年に共産党が大陸制圧に成功し、中華人民共和国を設立した。それと同時に、国民党の中華民国政府は台湾の移った。日本では、中華人民共和国との国交を望む声も大きかった。しかし、サンフランシスコでの多数国との講和後の一九五二年、日本は台湾にある中華民国と日華平和条約を締結し、日本にとって、中国とは台湾にある中華民国を指すことになった。しかし、一九七二年、日本は台湾と断交し中華人民共和国と国交を樹立する。以後、日本にとって中国とは中華人民共和国を指すことになった。こうして、一九七二年を境にして、日中関係は法的にきわめて異なる時期に分けられることになる。一九七二年以前の日中関係において、日本と公式の国交のあったのは台湾にあった中華民国政府であり、北京の中華人民共和国政府とは非公式の関係しか存在しなかった。そして、一九七二年以後は、日本が正式に国交を持つのは中華人民共和国政府とであって、台湾とは非公式の関係しか存在しなくなったのである。

1.注目られていたの「一九七二年」――――日中国交正常化へ

 一九七二年の世界は、ニクソン訪中で明けたといっても過言ではない。「世界を変えた一週間」とニクソンが自画自賛した。もちろん、ニクソンが「世界を変えた」と思うほど、急激にすべての人々の見方や行動が変わるわけではない。日本にとっては、一九七二年は、まず何よりも政権交代の年であった。また、日中国交正常化は、何よりも先に新政権が取り組まなければならない「内政」上の懸案であった。当時の日本における日中問題は、外交問題であるよりも国内問題だ。明治百年の歴史を見ると、いかなる内閣においても、最大の難問だった。そして、七月五日、自民党総裁選で、田中角栄が当選する。彼は、田川らに語ったように「速戦即決」で日中復交に進んでいった。早くも七月七日には、初閣議の後「中華人民共和国との国交正常化を急ぎ、激動する世界情勢の中にあって平和外交を強力に推進していく」と言明した。これに対し、中国側もすばやく反応した。周恩来は、九日、イエメン人民民主共和国代表団歓迎宴での演説で、「長年にわたって中国敵視政策を取り続けてきた佐藤政府は、任期の完了を待たずに下野した。田中内閣は七日成立、外交に関し、日中国交正常化の早期実現を目指すと明らかにしたが、これは歓迎に値する」

と述べたのである。

  日中国交正常化に至る過程において、きわめて特徴的なことは、政府の正式の代表者でない人物がきわめて重要な役割を果たしたことである。田中内閣成立後も、そのような「非正式接触者」として、たとえば、社会党の佐々木更三元委員長が周恩来から田中総理の訪中を歓迎する  伝言を受けていた。しかし、国交正常化直前に決定的な役割を果たしたのは、公明党委員長の竹入義勝であった。竹入は、中国側の強い勧めで七月二五日訪中したところ、驚くべきことに,二九日、周恩来から中国側共同声明案を示されたのである。

そして、「戦争状態の終結と日中国交正常化という両国国民の課題の実現」とし、「戦争状態が終結していない」』とする中国側の主張と「日華平和条約で戦争状態は終結している」とする日本側の認識のズレから生じた対立を、両国が譲り合って政治的判断によって処理した。また、周恩来からこの中国側共同声明案から三項の黙約事項:1)世界には一つの中国しかなく、それは中華人民共和国である。中華人民共和国は中国人民を代表する唯一の合法政府である。『二つの中国』、『一つの中国、一つの台湾』、『一つの中国、二つの政府』など荒唐無稽な主張に断固反対する。 2) 台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であり、しかもすでに中国に返還されたものである。台湾問題は、純然たる中国の内政問題であり、外国の干渉を許さない。『台湾地位未定論』と『台湾独立』を画策する陰謀に断固反対する。 3)『日台条約』は不法であり、無効であって、破棄されなければならない。という復交三原則と提案した。日本側は、中華人民共和国政府が提起した『復交三原則』を十分理解する立場に立って国交正常化の実現を図るという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものであるということを宣言した。

結局、一九七二(昭和四七)年九月二十九日午前一〇時二〇分、北京の人民公会堂で日中共同声明の調印式が行われた。日章旗と五星紅旗が飾られたテーブルに着席した田中角栄首相と大平外相、周恩来総理と姫鵬飛外交部長は、毛筆で日中国交正常化に合意する共同宣言文に署名した。調印式のあと、大平外相がプレスセンターで次のような談話を発表した。これまでの日中間の不正常な関係に終止符が打たれたことは、アジアの緊張緩和に重要な貢献をなすものと考える。日中国交正常化の結果として、台湾と日本との外交関係は維持できなくなる。そして、戦後三〇年近くもの間、歴代内閣が手のつけられなかった外交課題をわずか三ヶ月で片づけるという、いかにも「コンピュータ付きブルドーザー」の異名をもつ田中角栄らしい仕事だった。「日中友好」新時代の到来を誰もが感じ取った。

2.日中平和友好条約

 一九七二年の日中国交正常化によって、それ以後の日中間の基本的な枠組みは決まったが、実務的には、両国の関係を実質化する過程が残されていた。国交正常化時の日中共同声明にも、「両国間の関係を一層発展させ、人的往来を拡大するため、必要に応じ、また、

既存の民間取決めをも考慮しつつ、貿易、海運、航海、漁業等の事項に関する協定の締結を目的として交渉を行なうことの合意した」と宣言されており、これら実務協定の交渉が始まることとなった。また、このような実務関係を充実させることとともに、より象徴的な文書として、平和友好条約を締結することも、共同声明には記されていた。それによれば、「両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行なうことに合意した」のである。しかし、この日中平和友好条約は、一九七四年末に交渉が開始されたにもかかわらず、一九七八年八月に至るまで締結されなかった。「反覇権条約」をめぐって、交渉が行き詰まってしまったからである。条約の交渉は一九七四年に開始されていたが、『反覇権』条項をめぐって長引いた。中国は米ソ両大国の覇権主義を強く非難していたが、米中接近により、この覇権主義批判は実質的にはもっぱらソ連に向けられるようになっていた。中国は日本との国交を反ソ活動の一環として位置づけ、条約に覇権主義条項を入れるように強硬に主張、日本は反覇権が反ソを意味することが明らかである以上、同意はできないという立場を当初はとっていた。

一九七六年、中国の政局は大きく動いた。この年、周恩来、毛沢東といった人物が相次いで世を去り、文化大革命を推進した『四人組』が逮捕され、華国鋒政権が成立し、ケ小平が復活した。日中平和友好条約はアメリカの中国政策にも合致するものであり、日本の財界も中国との関係の深化を期待したとともに、四つの現代化の道を模索する中国も日本との経済関係の緊密化を期待していた。このような双方の一致した要求により、『反覇権』問題でも妥協が成立し、1978年八月一二日、『反覇権』条項が書き込まれた平和友好条約が調印された。

3.フィーバーと摩擦  

日中平和友好条約の締結によって、国交正常化以来の日中両国の基本的な関係を設定する枠組みはすべて構築されることになった。さらに一九七八年十二月に発表された米中国交正常化によって、米中関係が安定する。また、日中平和友好条約に「反覇権条約」を入れたことによって、日本は中ソとの関係においても、ある種の決断をしたことになった。こうして、日中関係は、戦後はじめて、米ソいずれからの牽制も受けずに発展させることが可能になった。アメリカは日中関係の進展を好意を持って見るようになっていたし、ソ連に対してもはやそれほど考慮を払う必要はないという雰囲気が日本を支配し始めるようになったからである。これ以後、日中間の交流はさまざまの側面で爆発的に増大する。しかし交流の増大は、必ずしも政治問題が消滅することを意味しない。国際環境とは直接に関係しないいくつかの側面で、日中関係に米中は摩擦が生じたのであった。そして、その摩擦には、日中関係の歴史およびそれについての解釈に関する問題、日本と台湾との関係から生ずる問題、日中の経済関係の増大から生まれる問題、そして日本の経済大国化から生ずる問題などがあった。一九七八年以後の日中関係は、関係増大をフィーバーする動きとこれらの摩擦の発生が交互に繰り返すサイクルによって特徴づけられることとなるのである。

(1)フィーバー

フィーバーが襲ったのは一九七八年であった。日中平和友好条約が締結される半年前の一九七八年二月、「日中長期貿易取決め書」が日中の民間団体によって締結されていた。この取決めの有効期間は一九七八年から八五年までの八年間で、中国側は原油、原料炭、一般炭を計一〇〇億ドル前後日本に輸出し、日本側プラントおよび技術を七〇〜八〇億ドル、建設用資材、器材を二〇〜三〇億ドル、合計一〇〇億ドル前後を中国に輸出するとされた。そして、日本政府がここでとった一つの政策は、中国に対して経済協力を行うという決断であった。一九七九年十二月、太平正方総理は、日本の総理としては一九七二年の日中国交正常化以来はじめて中国を訪問た。この訪中のいわば「おみやげ」として中国側に提示されたのが、巨額の中国向けの円借款である(第一次対中円借款)。しかし、この対中援助を行うにあたって、太平正方総理は次のような方針を明らかにした「対中経済三原則」、すなわち、「中国の近化には、わが国としてできるかぎりの協力をしていきたい。中国への経済協力を進めるにあたっては、(1)欧米諸国との協調を図る、(2)アジア、とくに東南アジア諸国連合(ASEAN)とのバランスに配慮する、(3)軍事協力はしない、との三原則のもとの行っていきたい」というものである。

  (2)趙紫陽の「三原則」から「長期安定」の中での「初」摩擦

一九八二年五月三十日から六月五日にかけて、趙紫陽総理が日本を初訪問した。この間、趙総理は鈴木総理と二度にわたって会談し、国際情勢と日中二国間関係について意見交換を行い、六月二日には共同新聞発表が行われた。この訪日において特筆すべきは、趙総理が今後の日中関係のあり方として、平和友好・平等互助・長期安定の三原則を提唱したことである。この三原則は、訪日時の趙総理の発言で明らかにされたものであるが、同様の趣旨は、訪日直前の五月十四日に、日本ジャーナリスト代表団との会見で同総理が明らかにしている。その中で、重要なのは第三項の「長期安定」ということである。趙総理は日本ジャーナリスト代表団に対して、「国際情勢が激動している今日、中日両国は国際情勢的風波の影響を受けない、長期に安定した友好協力関係の確立と発展に努めなければならない」と述べている。この原則は、第一、第二の原則のように過去一〇年間の評価というより、今後の課題なのであって、ここにこの三原則を打ち出した最重要目的があったのである。

教科書問題:趙紫陽訪日で見られた日中の友好ムードは、一九八二年七月下旬からのいわゆる「教科書問題」で一挙に吹き飛んでしまった。この問題の発端は、同年六月二十六日付の日本の各新聞の教科書検定に関する(誤報を含んでいたとのちに判明する)報道であった。これに対して、新華社電は簡単なコメント抜きの報道をただちに行い、「人民日報」も三〇日に「歴史を歪曲し侵略を美化する日本の教科書検定」題する記事を掲載した。しかし、その後一九日間、中国はこの問題に関し沈黙を続けた。ところが、七月二十日、「人民日報」第7面に「この教訓はしっかり覚えおくべきだ」と題する「短評」が掲載され、以後の本の文部省に対する激烈な批判が続々と現れることとなるのである。そして、二六日には、中国外交部の肖向前第一アジア司長が北京の日本大使館の日本公使に正式の抗議を行った。その内容は、「文部省が・・・・歴史教科書の検定において、日本軍国主義による中国侵略の歴史を改ざんし、「華北侵略」を「華北進出」と変え、「中国への全面侵略」を「中国への全面進攻」と変え、はては南京大虐殺の発端を「中国軍の激しい抵抗にあい、日本軍の損害も多く、これに激昂した日本軍は、多数の中国軍民を殺害した」としている。こうしたやり方は明らかに歴史の真相を歪曲するものであり、同意できない。・・・・中国政府は、日本政府・・・・文部省の検定した教科書の誤りを正すよう希望する」というものだった。ここに、発端からちょうど一ヶ月後、教科書問題は日中間の外交問題となったのである。しかし、中国共産党第一二回党大会の中で「趙紫陽の日本訪問時の日中関係からすると、中国の教科書問題に関する対日判断は不可解な面が多い。「国際的風波の影響」を受けないはず長期安定的関係が、国内の風波の影響をもろにかぶって動揺してしまったのである」という意見を発表した。結局、教科書問題によって、趙紫陽訪日時に示された中国の対日政策の基調が変化することはなかった。

 以上は戦後一九四五年から八〇年代までに、日中関係として、さまざまの交渉の中で、ある重大的な交流過程であった。また、「成熟の時代」の八〇年代、「本番の日中危機」の九〇年代、ということを続けて説明したいと思う。つまり、一九八〇年代初までの日中関係は友好的な状態でも言えないし、摩擦的な関係でも言えないと思う。しかし、中国側の日本観とに本則の中国観という両方的な認識を判断した時には、以後の両国間に「教科書問題」のような事件が起こらないとは言えないだろう、という本格化的な懸念を考えられる。

本論:



第一章:「成熟の時代」の一九八〇年代

 一九八〇年代から後半にかけての日中関係は、基本的にはきわめて友好的で、その関係を揺るがうような事態は起きなかった。国際環境もまた、日中関係の進展に有利なものであった。日中関係は「成熟期」に向かいつつあるといわれたこともある。しかし、日中関係に何の摩擦も生じなかったわけではない。一九八五年には、日本政府官僚の「靖国神社公式参拝」に端を発して、北京で学生デモが起きるなどの問題が生まれた。また、一九七八年には、日本政府が対GNP比一%という防衛費の上限を撤廃したことに対して、中国は懸念を表明した。



1.「成熟期」の最良状態

 一九八三年末から八四年にかけての日中関係は、「二千年の歴史で‘最良の状態‘にある」といわれていた。胡耀邦中国共産党総書記

の訪日が実現したとともに、日中関係四原則(平和友好・平等互助・長期安定・相互信頼)が合意され、「日中友好二十一世紀委員会」

の設立も合意された。また、胡総書記は、日本の青年三千人を中国に一週間招待する計画のあることを披露した。そうして、日中間には緊急に解決を迫られるようにな懸案はない、といわれるような良好な状態になっていた。

 一九八四年に入り、三月二三日から二六日にかけて、中曽根総理が訪中した。二三日に行われた中曽根総理と趙紫陽総理との首脳会談

では、胡総書記訪日時に合意されていた「日中友好二十一世紀委員会」の発足と委員の人選が正式に決定された。また、中曽根総理は一九八四年度から八九年度まで四千七百億円と見込まれる円借款を供給するとの考えを明らかにした。そして、一九八四年から八五年にかけての日中関係は、経済関係の拡大に特徴づけられるようになった。貿易総額でみると、一九八三年の約一〇〇億ドルから、一九八四年には一三二億ドルへと、三二%も上昇したのである。特に増加したのは日本からの輸出で、四九億ドルから七二億ドルへと、実に四七%も増加した。この結果、中国からみた対日貿易赤字は、十三億ドル弱となった。

 経済関係以外の交流も盛んになった。たとえば、防衛関係においても相互交流がみられるようになった。一九八四年四月には日本の国防会議事務局参事官がはじめて訪中し、六月には自衛隊制服組が訪中した。七月には、中国国防部長が訪日し、日本防衛長官と会談

した。会談の中で、「日米共同防衛の問題については、中国は政策として賛成している。いかなる国も自分を守る権利がある。そのためには強力な防衛力が必要」であると述べたといわれる。防衛交流はその後もさらに続き、一九八五年五月には、日本の夏目晴雄防衛事務官が訪中した。

 こうした交流の頂点になったのが、九月一〇日東京で開かれた日中友好二十一世紀委員会の初会合であり、同月下旬から一〇月上旬にかけての日本青年三千人の中国訪問であった。建国三五周年を祝う国慶節の大パレードに招かれた日本青年三千人一行の姿は、日本との関係強化を歓迎する中国の態度を表していた。しかし、このような一種の「お祭り行事」が二国関係の成熟をただちに意味しなかったことは言うまでもない。一九八五年に入ってからの日中関係は、底流で除々に緊張の度合いを強めていく過程にあったのである。

八十年代の日中関係は、前に言った通り、完全的な友好状態だけではないと考えている。人と人の比較から国家と国家の比較までどんな事物でも、「安定の背後は不安定である」と思っている。日中関係でも同じ、最良状態の背後に不安定がどんどん浮かんでいた。



2.不安定関係の進展

(1)貿易不均衡の拡大

   まず経済面として、一九八五年に入ってからも、日本から中国への輸出は上昇を続けた。上半期(一〜六月)の日本からの輸出は約六〇億ドルに達し、前年同期比で一〇八%増、約二.一倍になった。その結果、中国は日本の貿易相手国としてはアメリカに次いで輸出

二位となった。中国から日本への輸出も増加して約三二億ドルとなったが、急激な輸出増に比べればかなり少なく、中国の対日貿易収支は、二八億ドルの赤字となった。一九八四年一年間の対日赤字を半年で倍以上も上回ってしまったのである。この結果、一九八四年七月には一七〇億ドルあった外貨準備が、八五年三月には一一二億ドルまで減少してしまった。

 これに対処するため、中国は、三月末頃から強力の輸入抑政策をとり始めた。特に、一九八四年に急上昇していた洗濯機、カラーテレビ、冷蔵庫などの家電製品については商談が停滞し始め、五月に入ると発注はほぼ完全に止まってしまった。日本側では、中国の急激な対日貿易赤字拡大の原因を、もっぱら中国側の事情によるものと見なしていたが、徐々に中国側からも対日批判がでるようになってきた。七月一六日の「経済日報」紙は、中国の対日赤字を「一つの深刻な問題」と述べ、日本は「中国からの輸入をどのように拡大し、中国の輸出能力を高めるためどのように援助するかについては、ほとんど考慮していない」と不満を述べたのである。

 両国間の貿易不均衡が拡大する中で、七月末から開かれたのが第四回日中閣僚会議だった。この席で、中国代表団団長である谷牧国務委員は、「両国の経済、技術協力は評価するが、中日の良好な友好関係、有利な条件に比較して大きなギャップがある」と不満を述べ、貿易不均衡是正、日本の対中投資の促進、技術移転の拡大について日本側の積極的対応を求めたといわれる。特に日本の大幅な出超については、「中日間の正常な発展を阻害する」と指摘した。また、日本の対中投資については、「貿易量に比べて余りに投資額は少ない」し、技術移転も「日本との間では余り進んでいない」と語ったと報道した。



(2)靖国問題

 第四回日中閣僚会議については、両国とも成功であったと評価した。日中関係全般についても、貿易関係で問題が残るものの基本的関係は良好であるとの印象が強かった。しかし、同年八月一五日の日本政府閣僚の靖国神社公式参拝をめぐって問題が起こってきた。

 日本で「閣僚の靖国神社問題に関す懇談会」の報告が八月九日に出ると、「人民日報」は、一一日に早速「中曽根首相が・・・・戦後の首相として始めて靖国神社を公式参拝する」と報告し、日本国内の批判を紹介した。そこでは、後々まで中国が問題にし続ける東条英機らA級戦犯がすでに触れられており、中国の靖国公式参拝批判の原型となっていく。そして、一四日には、中国外交部スポークスマンが記者会見で「中曽根首相ら日本の政府閣僚が靖国神社を参拝すれば、世界各国人民、軍国主義の多大な被害を受けた中日両国人民を含むアジア諸国の人民の感情を傷つけることになろう」と警告を発することになる。実際に公式参拝が行われてからは、何日かにわたって、日本国内に批判が多いという報道が中国であった。そして九月一五日には、中国方面が、日中議員連盟訪中団に対し、「歴史的ないきさつに拘泥していては友好は進まない。不愉快なことは早くけりをつけるのがよい」と語ったと伝えられた。これは、日本の報道では、中国が靖国批判にケリをつけたものと解釈された。しかし、そこで終わりでなかったのは言うまでもない。九月一八日、天安門広場で北京大学の学生らによるデモが起こったからである。

 九月一八日の数日前から、北京大学の学生たちは校庭に壁新聞を張り出し、九月一八日に天安門広場でデモを行い抗日戦の犠牲者を悼み、日本軍国主義の復活と日本の経済侵略に反対しようと呼びかけた。そして、同大学一万二千人の名義で全国の主要大学に行動に賛同するようにとの要請電報が打たれた。これに対して、大学当局はかなり慌てた形跡がある。事件直後の報道で北京大学当局者が、天安門広場でのデモおよび大学構内での抗議集会は「学生らの自発的意思で行われたもの」であって、大学側はまったく関与していない、「学生らの抗議の感情は理解できるが、内部にはさまざまな意見がある。抗議集会は北京大学全体の意見を必ずしも代表するものではない」と語ったと伝えられたが、これはかなり本音を語っているみてよいだろう。大学当局だけでなく共産党もこれを重視し、まず、北京市の副市長を北京大学に送り、学生の思想工作にあたらせようとしたが、結局失敗に終わった。そこでデモの前日、こんどは外交部のアジア司長が派遣され、現在の日中両国の友好関係を損なうことのないように慎重に行動することを求めたという。しかし、このような学生に対する説得工作はあまり効果がなかったらしく、いろいろな理由をつけた学生たちは天安門広場に集まり、デモ行進が行われることになった。このデモでは、「中曽根打倒」、「日本軍国主義打倒」、「靖国神社参拝反対」などのシュプレへコールが行われることになる。これに対し、警官や私服警官はまったく規制せず、遠巻きにしているだけだったといわれている。

 事件発生後、日中関係の緊張感がどんどん出てきたとともに、十月一五日から一七日にかけて日中友好二十一世紀委員会が解散開催され、靖国問題をめぐって意見の交換もあったという。ただ、中国側も、強硬論者ばかりではなかったようである。一方、日本では靖国神社の秋の例大祭への公式参拝を行うかどうかをめぐって自民党内で紛争が続いたが、結局、国会なかでの日程から参拝しないということになった。

 「靖国事件」を見ると、日本の閣僚の靖国神社への公式参拝はもちろん重要なキッカケであったことは間違えていないが、それは、やはりあくまでもキッカケであったと思う。底流に流れるより重要な要素としては、日中関係全体の現状、日中の政府のとっていた政策などが、複雑に絡まりあっているとみなければならないだろう。

   つまり、これらの摩擦はそれぞれ別々の理由で生じたものであり、それらの理解のためには、それぞれのダイナミックスの把握が不可欠である。しかしその背景には、やはり、徐々に進行していた国内情勢として、国際情勢があった。中国における対外開放政策の経済開放や政治改革が一方で進行するとともに、それらの改革とこれまでの制度・慣行・既得権益との間にきしみがうまれるようになった。このような中国の国内政治のきしみは、直接とはいわないまでも少なくとも間接的には、中国の対日批判と関係していたであろう。他方、この時代、日本の経済力はますます強まり、一九八五年以後、日本は世界最大の債権国となった。日本国内で中国を刺激するような発言が生じた背景には、このような日本の国際的地位の向上が何らかの形で影響を与えていたことがあるのかもしれないと考えている。



第二章:「さまざまな要因から起こった悪循環」の一九九〇年代

 八〇年代「成熟期」を過ごした日中両国は経済協力・技術交流の強化を図ったが、八九年日中関係の一大転機となった天安門事件が起こった。この事件は北京の天安門広場で学生・市民が民主化を求め占拠していたのを軍が鎮圧して数百人の死者を出した痛ましい事件である。アメリカなど西側諸国は人権侵害だとして経済制裁を行い、米国と協調関係にある日本も経済制裁を発動したから、日中関係は低迷した。中国首脳部はいかなる国際情勢であっても日中友好はかわらないとし、双方の努力もあって九一年海部首相の訪中が実現した。この訪中で関係は完全修復したかに見えた。しかし、状況は明らかに変化していた。日本人の間には民主主義を抑圧する中国の恐怖感が生まれて、対中感情が冷却し、また中国の経済成長が著しくなり始めたことにみられるように、従来の日本が中国の近代化を援助していた八〇年代とは明らかに異なる様相を帯びるようになってきた。冷戦の終結、ソ連邦解体など国際情勢がめまぐるしく変化する中、友好一辺倒だった日中関係は九〇年代になり新たな局面を迎えてきたのだ。特に九五年以降の日中関係は悪化の一途である。政治面では九六年橋本首相の公式参拝を中国は非難した。これには、村山前首相が過去の日本の歴史を否定するものと中国側に映ったのだろう。首相はその後公式参拝を結局中止したが、この時世論は真二つに分裂し、後々の政治問題の引き金となった。外交面では中国が民主化運動を反体制運動として取り締まり、九六年江沢民首席の歴史認識追求によって大きく世論は反中に傾き,初めて中国に親しみを感じない人が半分を越えた。一方日本が日米安保条約の再定義、ガイドラインの見直しを行ったのに際し台湾に利害を持つ中国は日米が台湾問題に介入するのではないかと恐れた。逆に、経済面では中国がマクロ的経済発展を遂げる一方、日本経済の長期低迷によるプレゼンス低下で日中間の力関係が従来と変わってきた。92年の那小平の南逆講話以降、改革・開放路線を加逆させる中国は国際経済への統合を強めている。94年に行われた通貨・元の実質的な切下げにも後押しされて、中国の輸出額は94年から2000年にかけて平均年率15%以上で増加した。そして、二〇〇〇年の両国間の貿易額は八五〇億ドルを超え、過去最高を記録した。中国から見て日本は八年連続で最大の貿易相手国であり、日本から見ても中国は米国に次ぐ第二の貿易相手国である。交流面も法務省統計によれば、中国を訪問した日本人の数は一九九六年に一〇〇万人台に乗り、以後九九年まで一〇〇万人台を保っている。二〇〇〇年九月からは、北京、上海、広東省からの中国人団体観光客に対する観光ビザの発給が解禁され、制限付きながら中国人の観光目的での訪日が可能となった。これにより、将来的に中国人観光客の増大が見込まれる。また、中国からの留学生数は約三万二〇〇〇人にのぼり、海外からの留学生数の五四%超を占める。友好都市関係も二五〇組以上あり、学術交流も年々増加している。



1.感情の分水嶺「日中論調」

一九九〇年代は国民一般の対中感情を悪化させる出来事が何度か起きた時期だった。それにもまして顕著なのは、メディアや識者の対中論調の変化だ。対中論調の重心はこの十年間で中国にはっきり距離を置くようになり、一部では強い反中論調が繰り広げられるようになった。その背景には二つの変化があったように思う。

第一は、メディアや識者が日中関係の将来を悲観するようになったことだ。その背景には中国における反日感情の根強さを思い知らされたこと、さらに九〇年代の後半に起きたいいくつかの出来事を通じて中国の対日政策に対する失望が募っていったことがある。第二は、中国に対する民族主義的な反発が強まったことだ。それは言うまでもなく中国の反日論調、とりわけ「歴史問題批判」に対する反作用だが、その背景に「失われた十年」という言葉の象徴される日本の閉塞状況とそれと裏腹の中国躍進が影を落としていることは否定できないだろう。

日本の対中論調にはっきりと転機が訪れたのは一九九七年から九八年にかけてだったように思う。一九九七年十一月江沢民主席の訪米があった。往路ハワイに立ち寄って真珠港を訪れた江主席は「人類に災禍をもたらしたあの世界大戦の際、中米両国民はファシストの侵略に抵抗するため肩を並べて戦った」と演説した。「ファシスト」が何を指すかは言うまでもない。

 一九九七年、アジア通貨危機に直面して大蔵省が打ち出した「アジア通貨基金(AMF)構想に対しては、IMF権益の侵食を嫌がるアメリカだけでなく、中国も「日本にアジアのイニシアティブを取らせまい」とばかり反対した。その一方で、九八年六月のクリントン大統領訪中時の共同記者会見では両首脳が揃って円の急落や経済の悪化を放置する「日本の無策」を批判した。クリントン大統領は一方で中国の「人民切り下げ阻止」の方針を高く賞賛し、おまけに日本を「パス」して帰国した。

 当時の日本は決して円安を傍観していたわけではなく、水面下で必死に米国に協調介入を動きかけていた。株価が円に連動して急落し、長銀を破綻に追い込むなど深刻な状況に直面していたからだ。会社が言い知れぬ不安に襲われるなかで、中米両国首脳から日本に投げつけられた言葉、振る舞いは日本人にとって忘れられない屈辱になった。

 同年十一月には江沢民主席が日本を掘れ訪れたが、一再ならず、果ては宮中晩宴会でも「歴史認識」問題で日本を批判した。これには日本の朝野を挙げて反発した。

 日本の対中論調が中国にはっきり距離を置くようになったのはこの頃だと思う。この頃を転機として「計算ずくで反日カードを操っている」、「日本を利用することしか考えていない」、「日本貶め、蹴落とすことが中国の国益なのだ・・・」。そういう認識がメディアや識者の意識に刷り込まれた。「中国がああいう風では(日中友好)に努力したところで徒労に終わる・・・」。多くの人が日中関係の今後に希望を持てなくなってしまった。期を一にして、対中批判がおおっぴらなものになっていった。そこに変化がないなら反中論調が流行するのも仕方がない。しかし、実は中国はこの点で変わりつつある。その変化を観察し、分析することが今後の日本の進路にとって決定的に重要であると思う。



2.両国経済状態――両国の経済交流まで

一九九〇年代に入って、中国政府及び共産党が積極的な「開放」政策を導入すると、事情はまたたくまに一変してしまう。開放政策、すなわち社会主義政権下における市場原理の推進は、農業や産業の自由化を促進し、個人や各種企業による利潤の追求、すなわち経済競争をもたらす。対外的にも中国の投資市場を開放、欧米や日本のみならず、台湾や韓国からも多額の資本が流入するのである。従来外交関係のなかった韓国と相互承認を行ない、一方台湾とも実務的な関係を樹立して、いわゆる華僑の里帰りを促進する。そのような積極策が功を奏する、中国経済は毎年一〇%内外の成長率を記録し、国内の市場経済も拡大されて、内外の消費物質が奥地にも行き渡るようになる。各地における道路の建設や工場の設立もおびただしく、大都会を結ぶコンピューターのネットワークも普及している。上海など一部の都市の活気は世界に例を見ないほどである。

 一方、日本景気は対照的に低迷しており、一九九〇年代に入ると生産高も消費高も前年比マイナスを記録する年が続く。それまでの躍進が信じられないほど、株価も土地の値段も下がり、一九八〇年代のバブル経済当時多額の投機をした企業や個人が、破産の憂き目にあうことになる。都心のビルに借り手がつかず、多くの工場が閉鎖、企業はより安い労働力を求めてアジア各地に転出、いわゆる空洞化現象ができていく。

 もちろん日中経済関係が逆転するには程遠い。ドル額に換算すれば、日本の個人所得は依然世界第一、二の水準を維持しており、中国(年間約一二〇ドル)とはけた違い、三百倍ほどある。しかしこの差が次第に縮まっているのも事実で、しかも物価の相違を考慮に入れると、中国人の生活水準が日本人と比べて特別に劣っているとはいえない。何れにせよ、二十一世紀に入る頃には、中国経済の追い上げは一層明らかになっていることであろう。少なくとも、一九九〇年代の日中経済関係は、もはや経済先進国と後進国とのものではなく、少なくとも潜在的には先進国化をとげつつある中国と、行きづまりを見せ始めた日本とのものになっている。しかも現代の日中の経済関係は、従来にも増えしてアジア・太平洋という地域内での動きと密接に関連している。アジア諸国の著しい経済発展は、すでに一九七〇年代から明らかになっていたが、八〇年代にはそれが加速的となり、九〇年代には、国際経済の中で最も活発な地域として注目されるようになった。



3.中国加盟交渉を回顧する

 二〇〇一年十二月十一日、中国は百四十三番目のWTO加盟国になった。中国が旧GATT(関税と貿易に関する一般協定)に加盟申請したのは一九八六年、助走はもっと早く改革開放が始まって間もなく一九八三年頃には政府部内で、GATT加盟で改革開放に弾みをつけるべしという意見が表れていた。

 九〇年代の米国の交渉姿勢からは想像しにくいが、八〇年代の米国は中国の加盟に乗り気で「いますぐにでも加盟させたらよい」といった意見まであったという。理由は当時の米ソ対立だ。「悪の帝国」ソ連と戦っていたレーガン政権にとって、中国を「西側陣営」に引き込むことには十分な理由があった(IMFには一九八〇年代加盟)。それが一九八九年の天安門事件と冷戦の終結で一変してしまう。天安門事件の対中制裁交渉は九二年まで中断してしまった。その間、旧ソ連の崩壊=冷戦の終結といった国際環境の根本的な変化がはっきりした。クリントン政権の下で交渉が本格的に再開された一九九四年、加盟のハードルはハネ上がっていた。そこから数えて八年間、本当に長い交渉だった。

 中国WTO加盟が本格的に交渉されたのはウルグアイ・ラウンド終結後の一九九四年以後だが、実務的な交渉が始まると、加盟国は直ちに難題に遭遇することになった。市場経済原理を旨とするGATT・WTO体制にとって、計画経済や移行経済は異質な存在だからだ。

 中国の市場経済への転換は一九七八年の改革開放とともに始まったが、八〇年代は主に   など沿海部「特区」に対する外資の導入が目立つ程度で、国内経済はまだ昔ながらの計画経済の色彩が濃かった。九〇年代に入るとようやく国内経済体制の転換に向けた動きが本格化し、九二年には「社会主義市場経済」の言葉も登場したが、その少し前、八九年には天安門事件が発生し、改革開放政策が窮地に立たされている。交渉が本格化した九四年当時は、まだ繰り返し「改革開放政策は本当に後戻りしないのか」が問われた時代だった。

二〇〇〇年の両国間の貿易額は八五〇億ドルを超え、過去最高を記録した。中国から見て日本は八年連続で最大の貿易相手国であり、日本から見ても中国は米国に次ぐ第二の貿易相手国である。日本から中国への直接投資は一九九〇年以降急激に増大し、九九年末までの累計は二四八.八億ドルで、香港・マカオを除くと米国に次いで日本が第二の投資国・地域となっている。現在、中国で操業している日系企業は二万社といわれ、一〇〇万人以上の雇用を産み出し、貿易の拡大やハイテク技術の中国への導入にも貢献している。


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