愛知大学現代中国学部加々美ゼミ

沖縄から見るアジア

                                  02c8150  小栗 愛香



はじめに

 在日本の沖縄に存在する多くの問題。と同時にアジアとの問題も多いが国内であるはずの沖縄問題を未解決のまま海外のアジアとも問題を解決するのは難しいだろう。まずは沖縄に対してどうしたらよいかを考え、沖縄が克服しなくてはいけない部分にも触れたい。

 私は留学中に知り合った一人沖縄の友人がいる。彼女は私と話す時「内地の人は内地の人は」とよく「内地」という言葉を使っていた。私にとって「内地」という言葉はとても新鮮で、自分とは異なる沖縄独自の意識を感じたことから、卒論のテーマを沖縄にしようと決めた。

 今日本人に沖縄のイメージを尋ねるならきっと観光地や南国などとマスコミで取り上げられている米軍基地のイメージだと思う。しかし、沖縄が抱えているものはそんなものだけではない。独自の文化をもち、ひとつの独立国として存在していた琉球王国が、なぜ、どうのように近代日本に取り込まれていったのか、またそれによって第二次世界大戦では住民までもが多大な被害を被った。戦後は米軍の占領下に入り、1972年にようやく日本に復帰するという苦難の歴史をたどっている地域なのである。

今回沖縄が歩んできた歴史の中で、琉球が日本に取り込まれてく際に重要視された教育にしぼって調べていこうと思う。ここでいわれる教育とは、言語教育を柱とし、天皇に忠実な民を作るという、皇民化教育である。本土とは異なる沖縄独自皇民化教育と同化政策によって近代日本に組み込まれていったこの教育は、当時の台湾、朝鮮と同じように行われていた。むしろ、沖縄はそのさきがけであり、海外へと拡大していく前段階であった。

当時台湾などで行われていた同化政策、統治政策と比較することで、現在は国内の問題である沖縄を通して日本とアジアが抱える問題の根本を見つけたい。最後に、沖縄に関して同じ国民として必要なことと沖縄が自ら克服しなければいけない部分についても触れたい。

沖縄の現在の意識、その背景にある被差別意識形を成させた一部分として当時の教育、同化政策にも原因があるのではないかと考え、重点をおいて調べたいと考えている。日本は単一民族の国だろうか?ヤマト、アイヌ、琉球など独自の文化が存在する中、「同化政策」を通して日本の一部となった沖縄は多くの点で中国、朝鮮、アジアに通じ、沖縄から始まり、最後は地上戦という形で戦争全体の終わりをも迎えた地域であることは、現在でも大きな意味を持つことだと思うからある。





第一章:近代沖縄の歩んだ経緯

    @琉球王国と日本、清との関係

    A琉球処分(近代日本への従属)

    B第二次世界大戦中の沖縄

    C戦後の米軍統治から本土復帰



第三章:日本政府の統治と教育

    @日本政府の皇民化教育

    Aアジアの植民地政策



   第四章:日本政府の台湾教育

    @

    A



第五章:日本政府の沖縄教育

    @言語政策

    A皇民化教育

    Bその中から生まれる沖縄学



第六章:現在の沖縄

    @沖縄の意識

    A沖縄が抱える諸問題



     結論

第一章

歴史的背景

沖縄の歴史



 王国時代の国語政策

国語の定義

国語とは「同一国家の属する国民の、祖先以来継承してきた民族語で、現にその国民によって語られている、国家的性格をもった言語。」[1]とされている。

琉球王国時代、日支同属政策を常に採らなければいけなかったため、知識人や当地に関与する者たちはすべて国文と漢文の習得が必須の教養であり、必要な知識であった。

本来琉球に存在していた独自の文字は、日本語と漢語によってもともとの文字は使われなくなってしまったとされていて、現在琉球文字は残っていない。それは、文字と言っても中国の漢字や日本の仮名のようなものではなく、一種の記号のようなものではないかといわれている。その上、漢字と仮名文字に押され、琉球独自の文字を残そうという意思がどれだけあったかは不明である。また、沖縄地方の方言、琉球語と呼ばれる言語は一つではなく、いくつかの方言の総称であり、その中での共通語は「首里語」とされていた。

 現在、日本語と言えば東京の言葉を元につくられた標準語のことを指す。日本語という概念はいつから生まれたのか。

琉球語は日本語と同系統の言語であるという、日本語族琉球語派という考え方と、琉球語は日本に存在する方言の一種であり、南島方言もしくは琉球方言と呼ばれたりする。私が思う重要なことは、琉球語が日本語と同系統だが異なる言語なのかそれとも方言のひとつなのかということではない。他の外国語で考えて見たとき、ポルトガル語とスペイン語の差は日本語と琉球語の差と同じ程度もしくは小さいと言われている。しかし、立派な別言語とされており、方言とはみなすことはない。それと同じように中国語を見てみると、中国語には、普通話の元とされている北京語と上海語、広東語などがあり、それぞれ独自性を持っている。実際、北京語ができても上海語、広東語に関しては一切理解することができない。しかし、これらはあくまで中国語の方言とされており、外国語ではない。このように、異なった言語であるか、方言であるかは言語自体の性質と全く同じではないどころか、政治や国家構成などによって決まるものである。琉球語がはっきりしないのはそこにあると思う。現在、琉球が沖縄として日本の一部である状態と、過去に独立王国として存在し、独自の文化を作り出していたという事実が共存するからではないだろうか。

 今年なくなったアイヌ出身で初めて国会議員になった萱野茂[2]は国会委員会の質問をするにあたって、「日本にも大和民族以外の民族がいることを知ってほしい」いう想いから史上初アイヌ語で質疑を行ったことで知られている。これは沖縄にも通じる想いである。アイヌ語は現在話者の数よりも、研究の方が進んでいる状態にある。それは、アイヌ語が口伝いのみで伝えられてきたものであり、文字を持たないことにある。

 では琉球語はどうであったのだろうか。琉球では先に述べたように文字は基本漢字で漢文を書いていた。漢字を習得していなかった庶民たちは、蘇州?(すうちま)と呼ばれる象形文字の一種を使っていたが、日本の影響を受けるようになってからは廃止されている。15世紀から琉球王国になってからの公文書は漢字ひらがな交じり文で書かれており、カナは一切使用されていない。



古代沖縄はヤマトではなかった

現在沖縄県と呼ばれている地域は以前、「琉球王国」という独立した国をもっていた。その中で独自の文化、風俗を持ち、言語はヤマト言葉の影響を受けながらも本土とは異なっていた。そして地理的条件から中国と近く、明朝から朝貢貿易を続けていた。このような中で薩摩藩による琉球侵略が1609年に行われる。これによって琉球王国は中国と薩摩両方と朝貢貿易をすることになる。そして明治政府が「琉球処分」を行い、日本政府に組み込むまでの間、薩摩藩が間接的に統治するようになった。1871年の廃藩置県をきっかけに1879年に正式に琉球王国は滅亡し、沖縄県が誕生することになった。この背景にあったものは何か。



A「琉球処分」

1867年、大政奉還により江戸幕府が終わりを迎え、新しくできた明治政府は明治維新という改革の中で、地租改正、秩禄処分、廃藩置県などを行った。その中でも、1871年に行われた廃藩置県は、地方制度改革で、それまでの全国の藩を廃止し、県が置くという、中央集権を目的とした制度改革であった。その中で、それまでは独立王国として存在していた「琉球王国」はすぐに「県」が置かれたわけではなく、まずはそれまで存在していた「藩」が置かれるようになった。1872年王国が消滅し、「琉球藩」が置かれた。この過程において明治政府は警察と軍事力をもって抵抗する旧勢力を抑え込み、強行的に処分を行った。

では、それまで清と日本の間に存在し、独立した国家であった琉球がどうのように、日本に組み込まれるようになったのだろうか。ただ単に日本の民族統一を目指したのでない。

まず、はじめに当時日本では「征韓論」なるものが存在した。征韓論とは、西郷隆盛を中心に朝鮮に遣使する主張であったが、これを朝鮮との戦争につながるとしてまずは国内を治めることが優先であるという反対派に、この主張は敗れてしまう。しかし、それでは廃藩置県によって特権を失い、失業してしまった士族たちの不満はたまる一方である。そこで薩摩などから、「征韓論」の代案として出てきたのが「征台論」である。対象を朝鮮半島から台湾に移したのである。そこで、日本と台湾の中間に位置していた琉球が重要な存在になる。また、その台湾の先には中国、当時の清があり、明治政府の国策であった軍備拡張を基本として、「国益」、「国権」を最優先に進める中で琉球は侵略主義を拡大していくのには重要なのである。台湾を手に入れるということは、中国との通商権獲得の切り札になり、そこから中国大陸全体への侵略につながる。沖縄を近代日本に取り込むことは、日本帝国主義の拡大にとってなくてはならないものであった。

そして、当時形成されていた近代国家とは近代的主権国家であり、「琉球王国」はそれと異なり、朝貢冊封関係で他国と成り立っていた。それまでのように、清と日本のどちらとも交易関係を持つのではなく、あくまで日本の領土であると示す必要があった。

廃藩置県より1年、「琉球藩」とされた後は鹿児島県の支配下にあった。そこには、清と鹿児島との帰属争いが存在し、それを正式に日本に組み込むきっかけとして「台湾出兵」がある。「台湾出兵」とは、そもそも1871年に宮古島の漁民54名が台湾に漂流し、そこの先住民(パイワン族)に連れ去られ、言語が分からず、意思の疎通ができなかったために数名が殺害され、残りの生存者は清を通して琉球に返還されるという事件が起こった。これに伴い、日本政府は台湾を統治している清に対して賠償を求めるも、拒否され、その後三年間にわたってこの問題は放置される。しかし、それが得られないと1874年になって再度「自国民保護」を名目に台湾に出兵し、4月に出兵しおよそ一ヶ月半で原住民を制圧し、現地の占領を始めた。

そもそも、この台湾は出兵の大義名分は‘自国民である’琉球人が台湾の原住民によって殺害されたことに対しての報復措置であるが、実際は政府が台湾、またそれを支配している清に対して抱いていた侵略政策、軍事拡大の第一歩となる口実であった。そのために、琉球の漁民が使われ、それと同時に日本でもなく、清でもない独自の関係を保っていた琉球が「日本の一部」として組み込まれていったのである。それと同時に中国侵略をすでに意図した政府が沖縄を口実に強行した最初の武力行為であった。この後、1879年には「琉球藩」から「沖縄県」になり、一連の琉球処分が終わる。

しかし、なぜ琉球を日本に組み込む際に、「王国」のまま取り込むのではなく、近代日本の一部として取り込まれたのだろうか。もし、王国のままであったらなら、清との摩擦も回避できた可能性もあった。それだけでなく、当時政府の内には琉球処分反対論が存在し、それは経済的コストや差別意識などの理由からであった。しかし、あくまで日本と琉球との関係で存在する問題だけであり、琉球処分を推進していく理由には、欧米などに対する国防があった。欧州列強がアジアを植民地化していく最中、その脅威から逃れるため、軍事力の少なかった日本としては、なるべく本土から遠い位置に国境線を引くことで国を守りたいという考えがあった。そこで、琉球の地理的条件はまさに最適であり、「我南門」

といわれるような南の守りの要とされることとなる。琉球は先に挙げた、侵略主義的視点、国防からの視点両方に重要な存在とされたのである。

 そうして自国に取り入れた沖縄はヤマトとは大きく異なるとても個性の強い存在であった。

 独自の文化を持つという程度ではなく、同時の政府内の人間でさえ、日本の一部に取り込んでおきながら「琉球人と日本人はことなるものである」とし、差別意識が存在していた。

そんな個性的な存在を尊重し、沖縄を含めて近代日本を形成するべきか、あるいは、同化や画一化を徹底して求める姿勢を堅持するかどちらにするか政府は悩まされることとなる。

そこで進められた「沖縄の日本化」には旧慣維持と忠誠心の育成という一見矛盾しているような政策がとられることになるのである。日本人化をそこまで進める必要があったのか。

ひとつは統治的プラグマティズムからの観点。もうひとつは、国防上の理由からである。

統治的プラグマティズム、事実に即して具体的に考える立場からとは、当時の琉球で大和言葉が通じるのは、士族階級のみであり、一般の平民に明治政府の意思を伝えるには、士族たちが平民に通訳をしなければいけなかった。そこで、士族が反発を持ち多数の平民にきちんと明治政府の意思を伝えず、大きな反発になることを恐れた政府は、暫定的には旧慣温存によって士族を手なずけた。そして、国防上の理由からとは、最南端の国境線を琉球に置くことで本土を守り、また「守るに土人を以ってするは兵の原則」と言われるように現地の人間に防衛させる方が効果的であるという点である。この国防上の観念は今でも歌い継がれる有名な歌に表されている。それは、よく別れの歌として卒業式などで歌われる「蛍の光」である。もともとは、スコットランド民謡にスコットランド詩人のロバート・バーンズという人が、旧友と再会し、酒を酌み交わすといった内容の歌詞をつけたものであった。しかし、これがヨーロッパ、さらにアメリカ大陸にはで伝わり、明治10年代初頭に日本にも入ってきた。そこで、小学唱歌初編に編集するために稲垣千頴という人が1881年(明治14年)作詞し直したものが「蛍の光」である。



本来歌詞は4番まであるが、歌詞をみて分かるように、3番以降の歌詞は近代日本の国境線とその防衛の重要さ、国のために尽くせという軍国主義、皇民化を訴える歌詞となっている。作られた時期から考えても、まさに琉球を手に入れこれから拡大していこうとする最中である。また、現在では2番までしか歌われていないのは戦後GHQによって歌ってようのは2番までとされたからである。ちなみに、「君が代」ができたのは「蛍の光」の一年前ほぼ同じ時期の1880年である。このように、本土でも小学校で歌うような歌詞から皇民化は進められていったのである。

 そんなのちに近代沖縄の転機となった歴史的事件が日清戦争である。1894年に当時清朝だった中国と朝鮮半島の李氏朝鮮をめぐっておこなった戦争であるが、これを起点に近代日本の侵略政策が具体的に始まる。この戦争が沖縄に与えた影響は大きい。日清戦争で沖縄は地上戦や徴兵による従軍など直接的な損害は受けてないが、500年余りに渡って続いてきた中国との関係を断ち切り、ヤマト化への道を選んだことになった決定的な出来事だったからである。明治政府の沖縄政策は侵略主義に基づき、沖縄を利用し、国策であった軍備拡張や国益、国権を最優先するための政策であったのにも関わらず、かつての恩人であった中国にはむかったのは、この戦争が沖縄に残っていた旧勢力に打撃を与え、「清国は頼りにならず」と思わせ、「琉球王国」復旧の夢をあきらめさせるものになったからだった。近代に入って一貫して中国、朝鮮を仮想敵国として軍事力に力を入れていた日本にとって沖縄は軍事戦略上重要な位置であったのは間違いないが、当時の東アジア国際秩序は中国清朝を中心とする冊封体制の下に保たれていたが、それが変わり始めたのはロシア、フランス、日本の圧力によるもであった。そして、その変化とともに沖縄もそれまで被植民地としての被害者としての側面だけでなく、それと同時にアジアの国々に対しては加害者の側面をももつことになっていくのである。

また1904年に起こった日露戦争では実際に数多くの沖縄人が日本軍の兵士として明治政府のために戦うこととなる。このように、琉球処分から日清戦争までを「沖縄人の大和化」として、明治政府から押し付けられていたが、日清戦争以降になると「同化促進時代」と呼ばれ、日清戦争での日本の勝利を受けて清に見切りをつけ、沖縄人が自発的、内発的に大和化に努めたのである。このようにして、琉球は沖縄となり近代日本に組み込まれて言った。



 B第二次世界大戦中の沖縄

 沖縄にはもともと十分な軍備がなかった。さらに、1873年に制定されていた徴兵令が沖縄に適用されるようになったのは1898年のことで本土に遅れること25年である。当然ながら軍備施設なども存在しなかった。沖縄で本格的な兵備を設けるようになったのは太平洋の戦局が不利になった1944年からである。そして、沖縄戦は本土防衛のための捨石作戦とされ、日本の唯一の地上戦となった。沖縄戦全体の被害者は20万人以上といわれ、そのうち15万人が県民であった。当時の沖縄の人口は推計45万人で、沖縄戦によって県民の四分の一が死亡したことになる。

 

 当時日本では東条英機によって作られた軍人としての行動規範「戦陣訓」なるものがあり、その二つ目に「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」とした、敵の捕虜になることを戒める思想があったために、戦闘で命を落とす以外に、特に沖縄で頻発した「自決」といわれる自ら命を落とす民間人が多かった。



C戦後の米軍統治から本土復帰

 敗戦を迎えると、本土同様沖縄はアメリカ軍の軍事占領下に置かれる。しかし、本土が主権を取り戻す1951年サンフランシスコ平和条約の際、沖縄は潜在的な日本の主権を認めながらも、アメリカの施政権の下に置かれることとなる。アメリカは琉球政府を置き、一定の自治を認めるものの、最終的な意思決定はアメリカが握っていた。

1972年5月15日に日本本土に復帰することとなる。

戦後、本土復帰運動「島ぐるみ闘争」といった抵抗運動を巻き起こした。

 アメリカが沖縄においた琉球政府の中に瀬長亀次郎[3]という人物がいる。瀬長は沖縄人民党と組織し、日本への復帰、土地代の支払いなどを訴えた。というのも、現在沖縄にそんざいしている米軍基地は、戦後武力を用いて沖縄住民の土地を奪い、作られたものである。沖縄は日本国憲法の保護も、アメリカ合衆国憲法の保護も受けられない、そうした中で沖縄住民の人権が保護されることはなかった。その例として、「人民党事件[4]」がある。瀬長亀次郎が弁護士なしの裁判にかけ、実刑判決が下った。

  そもそも、アメリカ軍が沖縄を占領した際、当初の計画はアメリカ軍政下での当地ではなかった。アメリカ軍は、占領する際の事前調査で、沖縄は日本帝国主義に支配された異民族であると認識していた。よって、朝鮮半島と同じように、国連による信託統治をした上で、日本からの分離独立を計画していたのだった。しかし、冷戦の激化で、もし沖縄を国連の信託統治にした場合、軍用地として自由に接収することはできなくなり、毎年国連に統治報告をしなければならない。それは、対ソ連、共産主義の防波堤として沖縄を使うには不都合であった。それで、独立を前提とした信託統治計画ではなく、日本の潜在的な主権を認めつつ、軍による統治ができるように、琉球列島米国民政府をつくることになる。これにより、日本軍が使用していた旧基地をアメリカ軍が使用し、さらには、住民の土地を強制的に接収した。これがいわゆる「銃剣とブルドーザーによる土地接収」と呼ばれる、強権的なアメリカ統治の始まりである。

 こうした状況で、「本土復帰」に深くかかわってくるのが教育の問題である。戦後、沖縄戦によって沖縄にそれまであった校舎の約80%が失われ、教師の3分の1が亡くなった。黒板、教科書なども不十分であったため、地面に文字を書いて教えられたと今でも語り継がれているほど、悲惨な状況であった。その上、アメリカの施政下であるということは「沖縄県」ではなくなり、それまで公務員だった教師たちの給料はゼロになった。そこでアメリカ軍側から支払われた給料はそれまでの半額ほどで、生活の保障もなく、数少ない教師たちは生活ができなくなり、次々と離職し、当時の教師の離職率は58%にも上った。アメリカ軍が教育に対して冷淡であった理由として、まず教師自体を信用していないことがあった。アメリカ軍は戦前戦中の沖縄の教育がいかに国家主義的であったのかを知っていた。当時沖縄に残っていた教師はそういった教育を受け、教えてきた人々である。再び、そのような皇民化教育をすること、また反アメリカ的な教育をすることを懸念していた。それと同時に、言語の違いから実際にどのような教育がされているかを確認することは難しかったとも言える。アメリカ軍は以前のような皇民化教育からなるべく遠ざけるため、占領当初は琉球語の使用、琉球文化の奨励策などをとっていた。

 本土が凄まじい速度で復興していく中、沖縄とは格差がどんどん広がり、いくら住民が頑張ったところで限界がある。その中で「沖縄教職委員会」が本土復帰運動の中核となっていく。彼らが運動を始めるのは本土並みの教育を求めてのことだった。さまざまな教師、教育環境の改善のためにアメリカ軍に申し出ても、「本土はどう、アメリカはどう、それにくらべてわれわれは−などと人のまねをするのは民主主義ではない。民主主義とは、自分の分相でやっていくことだ」また「民主主義教育なら、日本経由ではなくアメリカから直接学べばよい」[5]などとされ、日本の教科書の禁止だけではなく、十分な教育環境を整えてもらうことはできなかった。そうした中、頼るは日本政府ということになる。それ以外にはない状態だった言ってもよいだろう。日本政府の対応はどうだったのだろうか。復帰運動を率いた喜屋武真栄の日本政府に対して何度も陳情したことを語った言葉である。「それまで何度も日本政府に沖縄政府が陳情したけれども、よく逃げられたのは、この、内政干渉であるとか、沖縄が日本国民であることを立証する法は何もないとか、いう理由で、いつも突っ返されておったのです」[6]日本政府は、沖縄はアメリカ軍政下になり、日本国の主権の届かない範囲にあるため、また日本国民であるという法的立証ができないので、悲惨な状態にあった沖縄に対し支援、援助することはできないと何度も見捨ててきたのだった。

1950年代当初の復帰運動では、施政権の全面返還が無理ならば、民政部の一部の行政権、とくに教育権の返還に限定してでもよいというものだった。しかし、認められず、1954年になってからようやく校舎再建に着手し始めたが、同じ頃日本本土では教員給与の2分の1を国庫が負担することが原則となっていた。また60年代に入ると、教科書の無償配布、給食の実施などが始まっていた。しかし、沖縄では1965年になっても、教師の実質給与は本土の3分の2である状態であった。

 状況を打開するため、復帰運動と同時に「日本国民」という規定が求められていった。1948年の沖縄教育基本条例では、対象となる住民は「日本国民」ではなく「沖縄人」と規定されていた。それを1958年に教育四法で「沖縄人」から「日本国民」に規定を変えたのである。これは大きかった。それまで、法的に「日本国民」とされていないために援助を断ってきた日本政府に変化が出てくるのである。

本土復帰運動を率いた人々や、当時のアメリカ軍政下の住民にとって「日本人になること」とは日本政府の援助による復興、自分たち自身の幸福という自己目的であり、決して天皇への忠誠や思慕ではない。「天皇が、皇太子が沖縄に何をしてくれたというんだ」[7]これがかれらの本音であろう。復帰運動の指導者たちにとって「日本人になる」0ということはあくまで、復帰による教育環境の整備を実現させるための手段であったに過ぎない。



第二章:日本政府の統治と教育

 @日本政府の皇民化教育

日本政府が植民地を拡大し、侵略していく中で日本の本土で行われていた教育も軍国主義化されたものであった。当時の教育で最も優先されたことは天皇に忠誠な国民を創り上げることであり、これを「皇民化教育」といい、その基本となったものが1890年に出された「教育勅語」である。この「教育勅語」は明治天皇の名で、国民道徳の根源、国民教育の基本理念を明示したものであり、語御真影とともに天皇制教育の中心で、国の祝祭日には朗読が義務付けられた。

    

教育勅語は当時の明治憲法に基づき作られているため、国民は天皇の臣下である臣民とされ、御真影、君が代、日の丸、奉安殿と祝日大祭日の儀式、国定教科書などがこれによって使用され、忠君愛国の思想を子供に植え付ける基本に存在した。



Aアジアの植民地政策

 日本の植民地は北海道、沖縄を除いて考えると、以下のように東南アジアに広がっていった。

こうように、次々に日本の植民地になっていった地域では、日本国の一部であり、日本の国民として植民地政策が行われていく。本来、地理的条件、資源供給のためなどに組み困れていった地域でも、天皇に忠実であり、歯向かうことのないように教育がしっかりとされている。



 日本語教育

教育政策の中で皇民化を推進していく中で「言語侵略」のとほぼ同じ役割を担った。「日本語」か「国語」か。戦前、戦中期において日本本土以外における日本語教育に関しての呼称である。台湾、朝鮮、南洋群島、沖縄、樺太においては「国語」と呼ばれ、関東州、満州国、中国(華北)、東南アジア占領地においては「日本語」と呼ばれていた。また東南アジアのビルマを除いては日本語が必修科目とされていた。地域によって呼称が違うようにレベルも異なっていて、「国語」称した地域であっても日本語を母国語としない人々への教育であったので実質は外国語教育の一環だったと言える。

ここで中国占領地(満州国を中心とした)における日本語教育について見てみる。植民地である台湾や朝鮮と異なり占領下での中国では現地の政権(傀儡政権)に教育を委ねていた建前もあり、日本語は第一外国語として位置づけられた。ここで日本語の教授法をめぐり論争が起こる。それは、教授法には種類があり語学効率を重視した促成法と母国語を用いずに皇民化を目的とした直接法とがあり、日本語を外国語としての教育の一環ととらえ、語学の教育効果を重視するか、あるいは日本語教育を植民地政策である皇民化を目的とした精神論に結びつけるかが争点となる。結果、当時は語学としての効率を目指す促成式が普及するも、1941年に中国占領地で使用するように出版された教科書には現地で行われている方法とは別に精神論に結びつけられた直接法を前提とするものであった。そしてそれからは実態とはかけ離れた、教授法を精神論に結びつけた直接法が行われ、純粋に語学教育上の効果をあげる道を封印してしまうことになる。





第四章:日本政府の台湾教育

台湾における統治政策と同化政策

近代日本がアジアに向けて植民地政策を展開していくその発端になったのは沖縄と台湾である。

 1895年日清戦争に勝利し清から割譲した台湾は、中国大陸はては東南アジアにむけて侵略を拡大していく際に重要な存在であった。では台湾ではどのような統治が行われていたのだろうか。

 そもそも台湾の法的取り扱いに関しては日本の領有となった後度々紛糾を招いていた。そして1896年に第9回帝国議会で制定された「六三法[8]」によって、台湾は本国とは異なった法域を形成し、台湾総督府は法律の効果を持つ「律令」を発布する権限を委ねられることになったのである。大まかな台湾における教育は、1895年7月14日初代台湾総督府学務部長伊沢修二によってはじまる。台湾で行われた教育政策は当時日本でも実施されていない義務教育を実施するなどした。これは先に述べたように、総督府自身に権限を任せられていたことで可能となっている。これによって他の植民地などと比べても台湾での初期教育は発展していくのである、現に、1943年には台湾全土で1099校の小学校があり、児童数も932,525人にのぼった。気無教育の普及率は日本本土に次いで高く、何と71%にも及んでいた。原住民には台湾人対象の国語伝習所(のちに公学校、さらに国民学校となる)とは別に、蕃童教育所および蕃人公学校がつくられ、そこで教育が行われていた。また、中等教育は教育普及を目指した教員養成目的の師範学校制度がつくられた。しかし高等教育に関しては、入学を日本人学生に限定したところが多く、台湾人が入学できるところは少なかったが、1928年頃から次第にそのような制限も撤廃されるようになり、人数的に少なからず大学出身が出てくるようになった。また当時は日本本土への留学も盛んになり、1945年の資料には日本留学経験者が20万人にも及んだといわれている。

 その教育の中でも、他の植民地同様重視された台湾における日本語教育について見てみよう。1895年〜1945年日本が台湾を占領して50年。日本にとって台湾は「新国土」であり、台湾人は「皇民」であった。よって日本の植民地教育にとって最も大きな特徴は皇民化教育になる。日本占領以前の台湾の教育はというと、台湾は古くから中国の領土であり、秦漢以降から大陸とは交流があった。また宋元明清には沿岸部を中心に大陸各省の人々が移住していく。1624年〜1662年オランダに占領され(1626年〜1641年はスペインに)1662年に鄭氏によって占領から逃れる。それから台湾における開発に力を入れ、経済力、人口、教育事業において成長してくる。このとき頃から特に官学教育が盛んになり、19世紀に入ると「書房」と呼ばれる民間私学が台湾各地にでき始める。これは儒学塾であり、多くは教師が自宅で開設していた。これによって一般大衆の識字率を上げる役割を果たしていった。

しかし、初期台湾教育は完全なる「同化」を求めるものではなく、既存の教育に妥協した面もある。よく言われるのは「孔孟主義」との兼ね合いである。中国大陸との関わりが深い台湾にとって教育はつねに儒教の概念に因ったものだった。もちろん、日本の領有によって清国学制による府儒学や県管轄の書院は事実上その機能は停止されていた。中国大陸においても1905年には列強の圧力や近代化を必要性から廃止されている。しかし、それまでの台湾の教育とはまさに科挙に合格するための教育であって、それ以外の何者でもない。よって教えられているのは四書五経に基づいた試験対策であった。1896年の段階では初学生徒の教育は主に、三字経からはじまって四書・五経・四書全註などを白文で暗記することや習字教育が重視されていた。こうした台湾教育に転換期が訪れるのは1898年の公学校令による。これにより、「国語」すなわち日本語を重視され、教授方法も変化していくことになる。[9]

日本統治時代の台湾には人口の多数を占める漢族系台湾人(本島人)と先住少数民族(高砂人)とが、おり教育制度においては異なる制度が採られていた。当初、日本政府は漢族系台湾人のみに日本語教育を行うか、先住民にも行うかで迷った。しかし、台湾における日本語教育の中心は初期教育に置かれており、台湾人から見れば日本語は外国語であったが総督府は内地と同じように「国語」と称した。台湾においての「国語」普及は@交通語としてA文化発達の手段としてB同化の手続きとして 必要だとされていたが最大の目的は同化に置かれていた。そのために作られたのが「国語伝習所」である。国語伝習所は全島に14ヵ所設置されたが、一般の子弟は以前からあった「書房」に集まり、「伝習所」は軽視されていた。「伝習所」の生徒には手当てが支給されていたことを見ても、いかに募集が困難だったか推測することができる。それから1896年桂太郎二代目総督が施政方針で「指導教養以って皇民に服せしめ」と台湾における皇民化を示す訓示を行った。これに基づき1898年に台湾公学校令が公布され、一部の「伝習所」が廃止になり公学校となった。公学校は修業年数を6年とし、内地の小学校に相当する。しかしこの時期は、教えることよりもいかに多くの生徒を集めるかにかかっており、1904年になってようやく公学校の児童数が書房より多くなった。それから1919年教育令が発令、中等教育としての4年制の高等普通学校と3年制の女子高等普通学校が設置され、また師範学校も置かれた。

このような台湾人を対象とする学校系統の統一は逆に内地の人間との差別を際立たせることになってしまう。また少数民族である高砂人に対しては1896年から年齢や修業年数を定めずに伝習所で行われるようになり、日本語以外にも農業や林業の実用科目を課していた。総督府が日本語を強要した結果、日本語は異なる方言の台湾人の「共通語」となり、彼らの意思疎通、交流の媒体となったとされている。そのせいか高砂人の日本語教育は本島人よりも成果が上がっていたといわれている。またその理由として、一学級の生徒数が少なかった、人口も少なく容易に教育できた、彼らの文化水準が低かった、「国語」教育の内容が簡単であった、また本島人の教育費は自弁であったのに対し、高砂人からは費用を徴収しなかったなどがある。また首切りをいう部族がもつ風習に対して、日本は非文明的な行為とし、それをやめさせるために教科書には

ある日日本の役人が「そんなに首を切りたいならば、次に赤い服を着てきた者の首を切ればよい」と話し、本当に赤い服を着た者が通ったので彼らはその者の首を切った。するとそれはその部族の中心人物の首であり、彼らは声をあげて泣いたという話なのである。だからこんな非文明的な行為はやめようという内容なのである。

1919年朝鮮と中国で起こった反日運動(三一騒動と五四運動)は日本に植民地政策の転換を迫るものとなった。特に朝鮮で起きた三一騒動を契機に、朝鮮、台湾ともに「武断政治」から「文化政治」へと移行を求められる。そこで文官で総督になった田健次郎は同化政策=「内地延長主義」を具体化していった。その一環として台湾人と内地人の「共学」を掲げ、中学以降は「共学」になったが「国語を常用する者」を小学校、「国語を常用せざる者」を公学校にと分けて収容したため実質的な変化はなかった。

 李登輝政権で作られた教科書『認識台湾』と平行して使われる教師用の手引き「指導書」には50年にわたる統治教育の中で「日本語は台湾語に取って代わり、台湾人の生活言語となることはできず、言語同化政策は顕著な成果は上げることができなかったが、台湾人が近代知識を吸収する手段として日本語使われたことは事実である。」と述べられていているがこれは日中戦争期から日本語教育が皇民化の一環として強化され、台湾人から母語を奪ったとする従来の多くの日本語に研究とは異なっている。実際、台湾人の多くは簡単に日本語を受け入れたわけではない。

 日本語政策に対する本島人。盧溝橋事件以降、台湾では中国ラジオ放送が禁止となり、同年9月には流言蜚語の取り締まりを強化した。また戦争で本島人の関心が「祖国」中国へ向かい、抗日意識が高まることを恐れ「国語」政策を軸とする皇民化を加速させた。そして大陸との民族的絆を離そうとし、従来の同化運動と異なり台湾人を戦争遂行の同伴者としようとする皇民化運動につながっていく。皇民化運動には大きく4つの柱がある。@漢文廃止と日本語教育の徹底 A宗教政策としての寺廟整理 B中国人式人名を日本人式人名に変える改姓名運動 C皇民奉公会の結成 であった。このうち1940年から始まったBの改姓名運動は、期限が無期限であり、また国語常用家庭であることと皇国民としての素質、精神のある者という条件のもとでの許可制であったため1943年の段階で人口約650万人のうち約10万人にとどまった。これらの中で最も急進的だったのがAの寺廟整理である。在来宗教の抹殺を目的とし、平行して日本の国家神道に属す神社の建設が進められた。1941年以降は寺廟整理という強圧的政策は反日感情に発展するかもしれないという危惧から中止されることになったが、資金不足という原因も存在する。さらに日中戦争勃発以降、台湾人に対して通訳、軍夫などの軍事要員としての徴募が始まる。がしかし、軍夫は軍人ではなく、軍人と共に戦線で活躍する戦闘要員として区別した。それは、「中国の戦場で中国民族の一員である台湾人に銃を持たすわけにはいかない。その銃口がいつ手前に向かってくるか分からない危惧を持っている台湾人を皇軍兵士にはできない」これに対し、原因は台湾での皇民化が遅れているためであり、もっと強化するべきであると台湾軍司令部は総督府に対して批判をした。ある台湾人は「皇民化教育っていうのはいい風に言えば『植民地』から『一等国民』になる教育で、将来みんな『日本人』になると言われる。」

日本の台湾支配は沖縄に大きな影響を与えた。それは軍事拡大や海外侵略型になったという軍事面のみならず、皇民化にも大きな影響があった。軍事化と皇民化が歩調を合わせて進行し、そして植民地下の台湾と比較し「台湾は植民地、沖縄は日本帝国」と競い合うようになった。台湾領有後の沖縄は、県政を挙げて「帝国の南門」と強調するようになった。と同時に沖縄教育にも大きな変化が現れるようになってくる。沖縄に対して、より国家的な役割が強調されるようになり、台湾支配と合わせて中国、アジアを視野に入れた教育が要求されるようになったのである。具体的には、沖縄人にあらためて台湾支配の先鋒軍であることを自覚させ、多少の感情を捨て忠君愛国の国家主義のために統一し、勤倹尚武をもって日本帝国の海外支配の理想を実現することが求められた。これは、以前明治政府が沖縄人に求めた国家像と同じであった。日本国家に対する沖縄人の忠誠心の発揮によって、ヤマト側からもその見返りに、沖縄人に対する偏見と差別は、「同一民族」として黙視できないものであるという考えがでてくるようになり、同化・皇民化の代償に「日本人認同」の証明書が交付されるようになったのである。



B現在の台湾

 現在の台湾における「日本」はどのような存在なのだろうか。

現在日本と中国、韓国との関係は歴史認識の問題、領土問題などで関係が好ましくないが、

台湾に関してどうだろうか。台湾で現在反日デモが起こるようなことはまずない。それどころか日本に対して友好的でさえある。この違いはどこから出てくるのだろうか。

2006年5月に台湾の経済誌「遠見」が行った「台湾人の世界観」という世論調査では、次のような結果が出た。

この結果からも台湾人の親日が十分にうかがえる。





第三章:沖縄における教育

  @言語政策

 日本であって日本でなかった沖縄。沖縄(人)が日本政府の植民地政策の下で人的、地理的供給源になったという事実がある。近代沖縄は、日本の「内国植民地」的な被統治者、被害者としてあった側面と同時に、中国、台湾、アジア侵略の要石としての役割を果たし、沖縄人も加害者としての面がある。



 「同化」と「皇民化」

「同化」とは「一民族が他の民族の言語、風俗、習慣其他の特性を還して、己に化せしむこと」とあるが、同化政策」とは片方が一方的に自分と同じ価値観を押し付けることにあると思う。人種、民族の優劣の意識もさることながら、文化、風俗までも肯定否定を下し、それを軍事的、経済的力を用いて強制し、そして教育という方法を用いてその価値観、思想を浸透させていく。その道具として重要になるのが「言語」である。対しても日本が近代に行った植民地政策について。近代になり西欧を中心に植民地侵略を進める列強の中で日本の植民地政策の特徴を「同化」「皇民化」と中心にまずはしらべてみようと思う。それは現在までつづく「戦争責任」というものは直接の戦争被害だけではなく植民地化、皇民化に伴って与えたさまざまな被害に対する責任であるからであり、それと同時に中国、朝鮮、台湾を中心とするアジアに対する責任だけでなく、沖縄を中心として日本国内に対する責任であるからである。戦争責任に関して直接人を殺したなどという行為や被害者に対して最も罪を償うべきものだが、教育や政策を通して個人を否定し、そこにいた者を加害者にさせたという社会や文化、思想こそ日本人自身が重要に考え責任を持たなければいけない部分だと思う。ここでこれから取り上げようと思う「皇民化政策」の実施は満州、朝鮮、台湾に限られるものではなく東南アジアの占領地や沖縄にもかかわってくる。私は今回、その中でも沖縄を中心にしたい。

沖縄にとっての近代化、日本への組み込まれ方は中央政府の差別的待遇と植民地視した、本来の民族一体化の態様とは違う、一方的な沖縄の個性、伝統の抹殺から始まった。

沖縄に対して行った政策は近代日本が沖縄人を日本人と「同様の国民として一団となす」というものであり、またそれは台湾、朝鮮、中国へと広がり、日本の異民族支配を貫く教育の目標でもあった。皇民化教育とは、近代的な自我の発達と抑え、従順忠良な臣民を育成し、国家に順応させる教育であり、沖縄においても台湾においても高尚な学問は無用であり、自治能力を育てる教育は必要なく、日本国民としての性格を会得させ、道徳と実学を授けるという「奴隷教育」である。これらの教育方針はアイヌ教育を先駆とするものであり、北海道、沖縄を経てアジアへ拡大し、植民地帝国の拡大を目指す同化政策の展開になったのである。  



 沖縄での皇民化教育

沖縄において皇民化教育は廃藩置県後、明治政府から始まる、人々に天皇を「神」として絶対化すべく洗脳されただけでなく、沖縄人も本土県民に劣らぬ「赤子」として国家の危急には天皇のため、国家のため命を捧げる「忠実な臣民」と信じ込ませる教育である。で新たに領土に編入された沖縄は「新付の土地」であり「外地」であった。これは「日本固有の領土」という認識を持っていなかったことになる。このように沖縄とともに「外地」と呼ばれていた土地は朝鮮、台湾、樺太・南洋諸島、北海道がある。つまり、明治維新後に組み込まれた地域である。中央集権を徹底させるために制度だけでは意味がなく、ヤマト言葉が通じず文字も読めないのでは指令を民衆に行き渡らせる事すら困難であった。しかも、「内地」(ここでは本州、四国、九州を指す)から派遣された役人に対する島民の反感も強かったため、琉球のヤマト化すなわち琉球人の「皇民化」が基本政策として打ち出されるようになったのである。

それまで、近代国民主権国家とはほど遠かった沖縄の人々に最も求められたものは「精神的日本化」であり、これこそが、忠誠心の育成であった。それと同時に、遅れた沖縄を「文明化」することも強調された。在来の風習のうちで、特に野蛮とされていたのが、男性

結髪と女性の入墨である。男性に対しては、師範学校に入る生徒に断髪を強制した。また、衛生面からは消毒浴槽への入浴、衣服の洗濯、体位の向上などが進められ、それまで存在しなかった近代労働倫理「勤勉の思想」、「貯蓄心」、「進取の気象」などを教え込もうとした。これらは、近代国民国家を構成する構成員に改造するには必要な要素であった。しかし、知識や技能も重要でありながらも、あくまで「精神的日本化」を最優先とした。なぜならば、忠誠心がないままに、近代知識を教えると、かえって統治の障害になる可能性が大きいからである。



しかし琉球国を沖縄県に変えるには時間が必要であった。そこでまず、教育するにあたって歴史観を変えなければならなかった。沖縄人を日本人と認識されるためには、沖縄人も本来は日本人であったにも関わらず、歴史の過程で交流が少なく関わることがあまりなかったために、「日本人であるということを忘れている状態」であるとし、そもそも「琉球」と呼ばれていたのは「台湾」を指し、「沖縄は沖縄であり、琉球ではない」とし、「琉球」とは野蛮な人種が住んでいる所であり、それはまさに「台湾」であるとした。こうすることで沖縄は日本であって、よって差別されることもないと説いたのである。しかし、本当に沖縄は日本として、沖縄人は日本人としてヤマトの人と同じように受け入れられたのだろうか。

それはまったく以って違う。明治政府の中の役人や、ヤマト人から見ても違うし、沖縄人から見ても第三者から見ても違っていた。確かに明治政府は強く「日本人」であることを主張していたが、廃藩時の内務卿であった伊藤博文でさえ、大隈重信や木戸孝充などの「日本人」ではないという主張に従い、清もまた別民族だと主張し、1853年沖縄に寄港したペリーでさえも、沖縄住民は「日本人」と異なるとみなしていたのである。明らかに、文化、風習、言語が異なる沖縄の人に対しての差別視は1903年に人類館事件として起こる。

これは沖縄の人だけでなく、アイヌ、朝鮮、台湾の人も同じような対象となっていたが、沖縄ではいち早く「精神的日本人化」が進められていたために、かえって同じ日本帝国の民でありながらなぜ本土の人と同じ扱いをされないのだという不満が、沖縄県全体に広がり、結果沖縄県出身者によって中止にさせた。しかし、この不満は本土と違う、差別だという不満と同時に、日本人であるはずなのに他のそれ以外の民族と同列に並べられたという不満も当時はあったという。当時の「琉球新報」でも、「こともあろうに、沖縄人を北海道のアイヌや台湾の生蕃といっしょにされたのは心外である」という批判をしている。このように、全体ではないにしろ沖縄の人の中にも差別意識は存在していたといえる。  

それは若い世代を帝国臣民に育て上げなければならないからであり、そこで、児童には強制的に日本語を覚えさせることにより日本人としての意識を身につけることが重要な対策とされた。そのため、急いで教員の育成にもあたらなければならなかった。そのとき彼らに要求されたことは「内地に負けない教員」であった。こうして1899年には県下の各学校に天皇・皇后の御真影が配布され、「内地」同様それを拝むことを強制した。しかし、沖縄の子供たちにとって「天皇のお陰」という言葉だけで「天皇の尊さが理解できた」とは考えにくい。それでも、当時経済的に苦しかった沖縄県の予算のほぼ半分は教育費に注がれており、30年後には沖縄県の児童の就学率は96%に達した。しかし、1909年の『沖縄毎日新聞』においては「沖縄県民の皇民化」の教育が精力的に進められてきたことが事実であったが、これは実態とは必ずしも一致せず、教育の形式はほぼ理想に近かったが、その効果においてはほとんどなかったとする評価もされている。長年、天皇・皇后・皇族の存在すら知らず、天皇への忠誠心とは全く無縁であった沖縄人に対して、軍事力だけできかせようとしても、心の征服は簡単ではない。異民族に対して国家神道に宗教的な役割を演じさせようとするのではなく、精神的に皇道イデオロギーを強調する必要があった政府にとって神社の強制参拝よりも何よりも効果があるとみなしたのは日本語だったのである。

 明治政府と沖縄県当局が教育課程の中で皇民化教育を中心に据えてからどれだけ浸透したかがわかる資料として、1899年(明治31年)12月に沖縄にある小学校で行われた調査で、小学生思想調査なるものがある。対象は小学校4年生で沖縄の全11校で行われた。調査項目ははじめから用意されていたものと各校の任意に用意した項目とがある。[10]

全体に聞いた質問は「最も尊敬すべき者は如何」

結果は下のグラフからわかるように、ほぼ100%の回答が天皇と答えた。これだけ見たなら、明治政府の皇民化は成功といえるような極端な答えだろう。

  次に「最も愛する者は如何」という質問に変わると答えは大きく変わる。

4割以上が父母と答えていて、次に兄弟と家族で6割以上を占めている。続いて国家、友人となり天皇の答えたのはたったの4%にすぎない。また、その他には芋、楠正成、金満家、己の体、己を愛する人、善行などと多様な答えがあり、外部からの暗示を前の質問とは異なり感じにくく、生徒が自由に書いている部分が垣間見られる。「尊敬」と「愛する」という正確な定義に違いはあれども、小学生の考えだとして正確に区別できないとすれば逆に言えば、これが本心なのではないかと考えることもできるのではないだろうか。





第四章:現在の沖縄

  @沖縄の意識

現在の沖縄は、すっかり本土と変わりないようにも見えるが沖縄県民の意識は果たしてそうだろうか。

まずは、1997年にNHKが行った全国県民意識調査から見てみたい。最初に、基本的な質問でありながら最も大きな差がでたのが「この県の人々のものの考え方には、他の県の人とは違った特徴がある」と考える人が最も多かった沖縄では72%にも上るのに対して、本土で最も少なかった兵庫では22%と、その差は50%にも及んだ。また、「土地の言葉を残していきたい」という質問に関しては、沖縄では85%にも及び、千葉や埼玉の38%、39% に大きく差をつけた。これらに関連して、郷土意識を問う「土地の人々の人情が好きだ」「沖縄県が好きだ」には両方ともに85%を超える結果となった。このように、沖縄県民は郷土への愛着が最も強いと言われる。

また違う意識調査の結果がある。この意識調査は総理府広報室から出されている「月間世論調査」より昭和60年、平成元年、平成6年に行われた調査員による面接調査である。調査項目は暮らしに対する意識、復帰の価値と沖縄に対する理解、開発産業問題、失業問題、米軍基地・自衛隊、望ましい社会像の6項目あり、調査対象は沖縄県の20歳以上2000人。6項目の中から復帰の価値と沖縄に対する理解 と米軍基地・自衛隊の2項目にしぼりたいと思う。



「復帰の価値と沖縄に対する理解」

1、沖縄が日本に復帰してよかったと思うか    



1、沖縄に対する理解度



「米軍基地・自衛隊の必要性」

1、米軍基地の必要性       





2、自衛隊の必要性



昭和60年に行われた調査では、年齢別にも結果が出ている。米軍基地の必要性の項目に関して年齢別の結果はこうである。



 復帰に関しては、アメリカ軍占領下と比較してよかったという意見が多く、また理解度に関しては、復帰後は日本となりパスポートなしで行けるようになったことから本土からの観光、商用などで沖縄を訪れる人数がかなり増加したことによるものと考えられる。

 また米軍基地・自衛隊に関してはやむをえないという意見が年々増えてきているが、米軍基地に関してはかえって危険であるという意見が最も多いことを忘れてはならない。また、世代別にみたとき、はっきりと戦争を体験している世代と戦争から遠のいていけばいくほど意見の差が出ることも重要な点である。

沖縄での問題は「米軍基地」といわれるが、問題はアメリカが日本にいること、しかしそれだけではなく沖縄という土地に「基地」というものそのものが存在することにあると思う。これが、アメリカの基地でなく、自国の自衛隊であったらどうだろうか。

沖縄の人からすれば、他国が土地のほとんどを占領し、そこに基地を設けていることと同時に、いつも身近に基地があり、その被害を被っているということも重要であるのではないだろうか。第二次大戦中の沖縄戦において、多くの沖縄住民が被害を受けたが、その加害者はアメリカ兵だけではではなく、日本兵でもあった。日本兵によって殺された。



対日感情と現在の日本

ここで調べた沖縄、台湾、中国はみな日本政府による植民地政策、皇民化教育を受けた共通の歴史があるが、それぞれの背景や社会の状況、また戦後の対応も異なるために現在の対日感情に大きな差がみられる。台湾は現在親日で知られる地域となり、中国の反日はここのところますます深刻になっていくばかりである。では、沖縄はどうか。沖縄は現在日本の一都道府県でありながら、本土に対しての感情は他と違うものがある。沖縄の本土に対しての反感の理由は米軍基地や経済の衰退などあげればきりがなく単純なものではないと思うが、何に関しても根本に昔から続く差別を受けているという意識が根付いているからではないだろうか。しかも、それに対して本土の人間は全くと言っていいほど理解していない。朝日新聞社のアンケートでこのような結果が出た。



朝日新聞社による「中学生平和意識アンケート」の意識調査

   全国平均と比較して所々に違い



自分の国であるにも関わらず、実態を知らない現状には昔教育が原因にあったのと同じように現在の日本の教育にも問題があるのではないだろうか。先に述べた皇民化教育の目的や内容と重なるように「高度な学問は必要ない、自ら考え、自治能力は無用で、ただ忠実な臣民をつくれればそれでよい」というものが何か感じられる。沖縄は本来自らの伝統や文化を持って、海外交易の起点としてさまざまな国と関わりながら生活する国であった。それが、日本という西洋の知識を早く取り入れ近代化をした国によって侵略、占領され、自らの文化を否定され全く異なるものを植えつけるのに必要な手段として無知にし、無意識的に教え込むまれた沖縄の教訓は被害者から加害者に変化させられる可能性はいつ何時も存在することを表している。このことを現在の日本で十分に教えられているのだろうか。疑問が残る。



参考文献

批判植民地教育史認識    藤原健一他 編集   社会評論社    2000年
教育の戦争責任       駒込 武       樹花舎      1995年
沖縄差別と平和憲法     大田昌秀       BOC出版     2004年
沖縄とアイヌ        澤田洋太郎      新泉社      1996年
オキナワと憲法       仲地博・水島朝穂   法律文化社    1998年
台湾支配と日本人      又吉盛清       同時代社     1994年
教育の中の民族       斉藤秋男他      明石書店     1988年
日本人の境界        小熊英二       新曜社      1998年
雑誌:放送研究と調査    NHK                  1997年4月
民族と言語の問題      豊田国夫       錦正社      1964年
植民地帝国日本の文化統治  駒込武        岩波書店     1996年
天皇制下の沖縄       上江洲智克      三一書房     1996年
沖縄占領の27年間     宮城悦二郎      岩波ブックレット 1992年


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[1] 「民族と言語の問題」P31
[2] 萱野茂 (1926~2006)日本国籍のアイヌ民族でアイヌ文化研究者 1994~1998参議院議員を務め、アイヌ文化振興法をつくる
[3] 瀬長亀次郎(1907~2001)沖縄出身昭和期の政治家。アメリカ軍政下の沖縄で「沖縄人民党」を結成し、アメリカ軍の圧制に抵抗、本土復帰運動を率いる。国民政府立法院議員、那覇市長などを勤め、日本復帰後は日本共産党に属し、衆議院議員となる。
[4] 人民党事件 1954年アメリカ統治を批判していた沖縄人民党を共産主義政党として弾圧。53年に日本に復帰していた奄美出身の人民党員2人に域外退去命令。2人は行方をくらませるが、瀬長は2人を匿っていたとして逮捕。弁護士なしの裁判にかけられ、懲役2年の実刑判決が下る。
[5] 「日本人の境界」 p559
[6] 「日本人の境界」 p562
[7] 「日本人の境界」 p 564
[8] 「六三法」.1896年「台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律」異なる慣習を持つ住民に内地と同じ法律を適応しその効力を及ぼせるかその妥当性が問題になった。しかし、立法権を行政庁である総督府に委任することは憲法第5条にある帝国議会の関与を必要とする主旨に違反するのではないかと批判がおき、問題となった。
[9] 近代日本と国語ナショナリズム 参照
[10] 天皇制下の沖縄 P140~144より作成


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