愛知大学現代中国学部加々美ゼミ

日本と中国におけるマイノリティの比較

〜在日コリアンと中国朝鮮族〜



●序章



●第1章 在日コリアンと朝鮮族の形成比較

     1.在日コリアンの形成

       1)戦前期まで

       2)戦後の帰還と再入国

     2.中国朝鮮族の形成

       1)植民地支配以前

       2)植民地支配以降

     3.在日コリアンと朝鮮族の形成比較

       1)植民地支配にみる民族形成の関連性

       2)中国朝鮮族にみる移民的形成要因



3)戦後にみる民族形成の要因



●第2章 日中におけるマイノリティの地位

     1.在日コリアンの法的地位

       1)サンフランシスコ平和条約と日本国籍の剥奪

       2)在日コリアンと在留権

2.政治的地位からの比較

       1)在日コリアンの政治的地位

       2)中国朝鮮族の政治的地位

       3)日中マイノリティの政治的地位の比較

     3.教育的観点からの比較

       1)在日コリアンの民族教育

       2)中国朝鮮族の民族教育

       3)日中マイノリティの教育的地位の比較

     



●第3章 おわりに 〜これからの展望〜





序章



国際化が進展し世界中の人々の移動が恒常化、複雑化した今の世界においては、ひとつの国家に複数のエスニックグループが共存するというケースはごく当たり前に見受けられる。日本の場合も同様に、エスニックグループが存在している。しかしながら、均一化された日本人が国民の大勢を占める日本という国では、日本人以外の民族は必然的にマイノリティという立場に位置づけられ、日本人の影に隠れた存在である。だからといって我々日本人は彼らの存在を気にしなくていいというわけではない。日本人はマジョリティであるからこそ見落としがちであるが、マイノリティである彼らも日本という国を構成する一員であるということを認識しておくとともに、共に日本で暮らすメンバーとして彼らの現状をしっかりと理解しておかなければならないはずである。

そこでこの卒業論文では日本に存在するマイノリティの現状を検証していくこととする。本論文で日本のマイノリティの代表として取り上げるのは、マイノリティのうち最大の規模をもつ韓国・朝鮮人、つまり在日コリアンとよばれる人々である。さらにマイノリティというものをより多様な角度から検証するために、中国のマイノリティとの比較をもって理解を深めていくこととする。中国という国家を比較対象に選んだのは、国民の大多数を日本人と同様に漢族というマジョリティが占めており、マジョリティ・マイノリティという構図がはっきりしているという点と、国家のマイノリティに対する向き合い方も日本と随分異なり、日本としては見習うべき点が大いにあるからである。さらに数多くある中国のマイノリティの中から在日コリアンと同じ朝鮮半島にルーツをもつ中国朝鮮族を比較対象に取り上げ、日中間におけるマイノリティの現状をより鮮明に映し出そうと思う。

この日本と中国におけるマイノリティの現状を理解するにあたっては、1.在日コリアンと中国朝鮮族の形成過程 2.日本と中国におけるマイノリティの地位の2つの視点から考察し、今一度日中両国のマイノリティの歴史、マイノリティに対する国家や国民の向き合い方などを論じていくこととする。日本に住む我々にとって、身近でありながら実はこれまで意識されてこなかったこの問題を見つめなおすことは、日本社会と我々日本人のマイノリティに対する向き合い方を考え直す契機を与えてくれると同時にこれからの日本の在り方を考えることでもあるはずである。





第1章

 在日コリアンと朝鮮族の形成比較

本論に入る前に、在日コリアンと中国朝鮮族がどのような人々であるか少し紹介しておく。

まず、在日コリアンとは日本に住む朝鮮民族のことで、韓国籍あるいは朝鮮籍を持ち日本に永住する人々(日本国籍を取得して帰化日本人となった者は含まない)のことを指す。現在、日本には120万人の外国人が住んでおり、その中で最も多い60万人の人口を占めるのがこの韓国・朝鮮籍を持つ在日コリアンである。彼らの歴史は長く、日本へ渡ってきたのは今から100年ほど前のことで、当時日本へ渡った一世たちの世代から数えると三世や四世、さらに今では五世や六世へと世代が受け継がれている。彼らはこれまでルーツが朝鮮半島であるというだけでいわれのない差別にあったり、生活の面で様々な制約を受けてきた。現在でも彼らに対する差別や制約は無くなってはいないが、在日コリアン自身の運動や日ら本人の意識変化に伴って日本社会における彼らの存在は徐々にではあるが認識されおり、彼らに対する見方も変わりつつある。そして、今や在日コリアンは日本社会を構成する重要なメンバーとして位置づけられていることも事実である。

対して、日本に在日コリアンと称される人々がいるのと同じように、中国にも多くの韓国・朝鮮系の人々がいる。彼らのことを中国朝鮮族と呼ぶわけだが、中国における朝鮮族の人口はおよそ200万人で、全体の9割以上が東北地方の黒龍江省、吉林省、遼寧省の3省に居住している。なかでも、吉林省延辺朝鮮族自治州には80万人以上の朝鮮族が集中しており、朝鮮族文化を維持する中心となっている。そもそも中国は13億人を超える人々からなる世界で最大の国家である。また、総人口のおよそ92%を占める最大民族である漢族と55の少数民族から構成された多民族国家でもある。日本では中国人というと漢族と同一視してしまうことがたびたびあるように思うが、本来、中国人とは漢族だけを指すものではなく、少数民族を含めてひとくくりにされなければならない。一方、当事者である中国はというと「中華人民共和国憲法」の前文で「中華人民共和国は全国の各民族人民がつくりあげた統一した多民族国家である」と、多民族国家であることを明記している。本論文では数ある中国の少数民族の中から、日本のマイノリティと比較するために在日コリアンと同じルーツをもつ朝鮮族を例に挙げ考察していく。



1.在日コリアンの形成

1)戦前期まで

大多数の在日コリアンの来歴を辿るには1910年の日韓併合まで遡って考える必要がある(明治期以前においては朝鮮人がいつごろからどのくらい日本へ渡ってきたのかをはっきりと証明することは難しい)。表が示す通り、少なくとも1910年以前までは日本にいた朝鮮人の人口は僅かで、彼らの来日した目的も政府派遣の留学と労働(雇用)が主であった。しかし、その後の朝鮮人の人口は1910年の大韓帝国併合以降、年々増加していることがはっきりと見て取れる。この背景には併合後に実施された日本の植民地政策が深く関係している。1910年から18年にかけて日本政府が実施した土地調査事業は当時の朝鮮社会に根付いていた土地習慣を大きく変え、結果的に多くの農民を小作農へと没落させた。実際に、1935年の東京府の調査によれば世帯持ちの90.74%、単身者の79.73%が農業に従事しており、その大部分は没落した農民であると報告されている。つまり、この頃までに日本に渡ってきた朝鮮人の背景には日本の土地調査を起因とする農村経済の破綻があり、そこで過剰となった農民たちが困窮した生活の糧を求め日本へ渡って来たと考えられるのである。特に、渡ってきた人々のうちで多かったのは朝鮮半島南部で疲弊した農民たちであった。

1930年代末になると中国への戦争の拡大とともに日本国内では1938年の国家総動員法、翌年には国民徴用令が公布され日本国民が戦争に動員された結果、日本は深刻な労働力不足に見舞われ、その問題を解決するために朝鮮人を代替労働力として動員することが計画されていく。1939年に発表された「朝鮮人労務省内地移住に関する件」を皮切りに「募集」(39年9月―42年1月)、「官斡旋」(42年2月―44年8月)、「国民徴用令」(44年9月以降)という形で半島から労務動員として多くの朝鮮人が日本へ渡ってくることになる。そして在日コリアンの来歴が問われる際によく言われる強制連行という言葉はこの一連の労務動員に端を発している。

しかしながら在日本大韓民国青年会が編集した在日コリアン一世の証言「アボジ聞かせてあの日のことを―我々の歴史を取り戻す運動報告書」を検証すると在日一世が日本へ渡って来た理由には強制連行だけではくくり切れない様々な経緯を読み取ることができる。このアンケート(1)によると渡日理由は、

「経済的理由」    39.6%

「結婚・親族との同居」17.3%

「徴兵・徴用」    13.3%

となっている。こうした在日一世本人たちの証言は強制連行の問題を考える際に重要な意味を持っているといえる。といのも在日コリアンや日本人の多くは半ば迷信的に全ての在日コリアンは戦時中の強制連行によって日本へ連れて来られた人々とその子孫であると考えがちであるが、一世の人々のこうした証言を読み解けば強制連行が在日コリアンの全てのルーツであるとみなすのは正しい理解とは言い難い。この章で挙げた数値や証言を読み解くと、日韓併合以降の朝鮮半島での生活苦などによる経済的理由で日本にやってきた人々の子孫が今の在日コリアンのルーツを占めていることも事実なのである。とはいえ、彼等が強制連行のように自らの意思に反して来日したとはいえないにしても、渡日の背景には日本の植民地支配が起因となっていることは必ず認識しておかなければならない。



2)戦後の帰還と再入国

終戦を迎えた直後、日本国内には236万人の在日コリアンが滞在しており、GHQは日本政府を通じて彼らの帰還事業に着手した。しかし、船舶不足や鉄道輸送の混乱などの理由で計画どおりの輸送は困難を極め、帰国事業は一時中止を余儀なくされてしまう。このような事態により帰国事業は行き詰まったが、帰国を強く望む在日コリアンたちは1946年3月までにおよそ130万人が帰国したと日本政府は発表している。この統計数字の中には自費で漁船などを調達した人なども含まれ、あくまで推定の数字ではあるが、終戦からわずか7ヶ月で130万人が帰国したことになるわけである。なお、この時期に帰国を急いだ人々は日本に生活基盤を持たない労務動員で日本へ渡った人々が主で、生活基盤をもった人々は日本にある生活基盤を捨てることを躊躇い日本に引き続き残る道を選んだのである。

しかし、突如帰国したはずの朝鮮人が日本へ逆流するという現象が起こる。

これは、日本に長らく滞在し、生活基盤を日本に持っていた在日コリアンにとっては朝鮮半島がいくら自らの故郷であったとしても既に生活の基盤は存在しなかったために帰国した人の一部が再入国するという事態が生じていたのである。実際に1946年、公安当局に不法入国者として検挙された朝鮮人は17,733人であるとの数値が出ている。こうした朝鮮人の再入国に混乱の危険性を感じたGHQは帰国者の日本への再入国を禁止し、日本政府に対して在留している朝鮮人に「帰還希望者登録」を実施させた。1946年の3月の時点で日本国内にはまだ64万人の在日コリアンがおり、政府によって実施された「帰還希望者登録」には、53万人が帰国を希望すると登録された。この数字ではいかに在日コリアンの多くが帰国を望んでいたかはっきりわかるのだが、実際に帰国した在日コリアンは「帰還希望者登録」の5分の一にも満たないわずかな人々だけであった。この帰還希望者数と実際の帰還者数のズレは「アボジ聞かせてあの日のことを―我々の歴史を取り戻す運動報告書」を見れば読み解くことができる。本文にある「なぜ、戦後帰国しなかったのか」という問いに対して帰国準備をした人は全体の7割に達し、帰国準備をしなかった残りの3割と比較すると、彼等の多くは祖国へ帰ることを望んでいたことがわかる。しかし、この帰国を望み準備をしていた7割の人々の中にも日本に残留した人々が存在する。その理由を聞いたところ、

「帰国後の生活のめどが立たなかったから」 60%

「本国の政情が不安定」          17%

「朝鮮戦争がおきたため」         7.6%

上記のおおよその回答を見ても帰国したくても生活基盤の為にやむなく日本に残った人が多数いたことがこのアンケート(2)からは理解できる。つまり、日本政府が行った「帰還希望者登録」で帰還登録をしておきながら残留した多くの人々もこのアンケートに答えた人同様に生活の為に日本に残る選択をしたという見方ができるわけである。

また、上に加えて日本政府が帰国者に対して通貨1,000円、荷物250ポンド以上の持ち出し制限を加えたことも彼らを日本に足止めさせる原因になった。そもそもこの制限は日本国内に朝鮮人を押しとどめようという意図ではなくGHQが冷戦の幕開けに対する反共政策としてとられた措置というのが真意であるが、帰国しても生活を営む基盤のない在日コリアンにとってはこの制限が不安を煽り、結果日本に残らざるをならなくなったとも考えられる。

とはいえ、在日コリアン全員が日本にそのまま残留したわけではない。1959年から1984年にかけて実施された日本の赤十字社と北朝鮮の赤十字社による帰国事業によって多数の朝鮮人が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に帰国していった。この帰国事業は1959年から1984年にかけて、それも1960年代の数年間に十万人近くの在日コリアンが北朝鮮へ帰国しているが、これには在日コリアンの当時の日本での生活状況が帰国に拍車をかけたと考えられる。当時の在日コリアンは朝鮮戦争による特需にもかかわらず、安定した生活を得られないなどの経済的理由や、民族学校が糾弾され日本の学校に通わなければならないという耐え難い差別などが彼等を帰国へと促したのである。帰還した多くの人々は日本社会の厳しい差別と生活苦からくる貧困状態を強いられ、差別と貧困からの脱出を願って帰還を選択したのである。





2.中国朝鮮族の形成

1)植民地支配以前

朝鮮半島の住民が中国に移住し始めたのは明代の末ごろから清の初期にかけてであり、大量に移住するようになるのは19世紀後半に入ってからである。もともと朝鮮半島と中国東北地方は陸続きであるため、それ以前においても戦争や自然災害などにより、絶えず人の移動はあったはずだが、そのほとんどが漢族を中心とする異民族に同化されてしまい、その足跡を辿ることは難しい。そこで清以降の国際関係や社会状況をもとに朝鮮族の来歴を辿っていきたい。

 現在多くの朝鮮族の居住する鴨緑江の北岸と豆満江の北岸(19世紀の後半に朝鮮人によって西間島、間島と呼ばれるようになった)は、長きにわたって清国と朝鮮の封禁政策によって、住民の立ち入りが禁止されていた地域であった。1840年のアヘン戦争が勃発して以来、清国の鎖国政策に緩みが生じたことに加えて、1860年から1869年にかけて朝鮮半島北部で発生した長期間にわたる自然災害によって封禁令が廃止される以前から多くの朝鮮人が鴨緑江や豆満江を渡った。1875年になって清国が封禁令を解除すると、西間島に向けて朝鮮人も移住を開始し始め、主に長白・臨江・輯安などに朝鮮人村を形成していった。一方、間島では、封禁政策がしかれているにもかかわらず、1851〜1856年の間に、徳新に朝鮮人村が形成され、1875〜1882年になると、あちこちで朝鮮人村が形成され始めた(3)。この間にも、清政府はロシアの清侵略に備えて間島における封禁政策を廃止、1885年には朝鮮人開墾区域を設置し朝鮮人の越境と開墾を許可した結果、朝鮮半島からの移民がさらに増加していく。1900年、義和団事件を契機にしたロシアの満州支配により間島は同国の軍政下に置かれ、清国からの圧力が排除された朝鮮人は勢力が拡大し、人口はなおも増え続けていったのである。



2)植民地支配以降

中国朝鮮族の形成過程をたどる際、さらに日本による植民地支配が彼らの形成に大きな影響を及ぼした点についても言及しなければならない。このように考えるのは在日コリアン同様、日本政府によって実施された土地調査事業などによる一連の植民地政策が農民の貧困化を生み、多くの朝鮮人の満州移住を推進させることになったからである。これを示すように、この頃に中国へ渡った朝鮮人の多くは在日コリアンと同じく朝鮮半島南部の疲弊した農村出身者が多数を占めていた。

ここに1933年に李勲求という人物が直接取材した満州国時代に朝鮮から移住してきた人々の渡航理由についての調査結果(4)がある。彼が調査した201戸の戸主は移住の理由を次のように述べている

 生活難のため        72人 35.8%

 家に金銭なきため      33人 16.4%

 本国において経済困難に因り 30人 14.9%

 本国において事業失敗のため 24人 12.0%

 満州において農業経営のため 18人  9.0%・・・

上位の理由をみると広い意味で生活苦が大多数を占めていることがわかる。

また、1990年に行った延辺自治州の朝鮮族2000家口の調査(5)によると、

 生活苦           1,738人  86.9%

 わからない          118人   5.9%

 集団移住           117人  5.9%

 抗日              11人  0.6%

 その他             16人  0.8%

上記二例の調査結果から伺えることは、植民地支配時期を通して朝鮮族が中国へ移住した最大のプッシュ要因は生活難であったといえる。これに呼応するプル要因として、当時の中国には未墾地が多かった点、さらに、多くの作物の収穫量が見込めるという情報や、穀物の価格が安価で生活が容易であるとの情報が流布したことによって多くの人々が移住していったことも挙げられる。また、日本の満州国建国により、朝鮮半島で過剰になった人口を日本政府が積極的に満州移住へと推進したことも人口増加の原因であった。

 1945年に朝鮮と中国が日本の植民地支配から解き放たれると、1953年までに推定で104万人以上が中国から北朝鮮へと帰国した。しかしその反面、112万人が中国に残留することとなったのである。彼らが残留した背景には、長きにわたる中国での生活の間に帰るべき故郷がなくなっていたこと、少なくない朝鮮南部出身者には引き上げる術がなかったことなどが挙げられる。しかしながら、中国共産党が1945年9月に東北の朝鮮人に一律に中国国籍を与え、1946年から48年にかけて行われた延辺の土地改革に際しては朝鮮人に土地を提供し積極的に定住を勧めるなど国家が中国朝鮮族を保護するような政策を実施した点を見逃してはならない。





3.在日コリアンと朝鮮族の形成比較

この章では在日コリアンと中国朝鮮族の形成過程を検証してきた。一見すると、日本と中国という海を隔てて遠く離れた両国に暮らす彼らの来歴は全く関連性のないものと見えがちである。しかしながら、それぞれの来歴を比較すると、当時の朝鮮半島を取り巻く国際状況および国内状況が彼らの形成に大きく関与しているといえる。

1)植民地支配にみる民族形成の関連性

在日コリアン、中国朝鮮族ともに彼らの形成を決定付けたものとして日本の植民地支配が共通の要因として挙げられる。在日コリアンの側から整理すると、戦前までわずかであった日本の朝鮮人人口が爆発的に増加しはじめたのは1910年代以降、つまり日本が朝鮮半島を植民地化した時期からである。この背景には植民地化によって生活に窮した朝鮮人たちが生活の糧を日本に求めて渡って来たという事実がある。さらに、労務動員で多数の朝鮮人が日本へ連行されたことも日本の朝鮮人人口を引き上げる理由であった。日本によるこの一連の朝鮮半島植民地化で実施された政策やそれによって引き起こされた国内状況によって在日コリアンが日本へ渡ったことは現在の在日コリアンの原型を形成する最大の要因になったと考えられる。

これに対して、中国朝鮮族も在日コリアンと同様に日本の植民地支配が彼らの形成に大きく関わっているといえる。中国朝鮮族の場合は、日本の植民地支配を契機に満州へ移住した朝鮮人が今の彼らのルーツとなっている。彼らが満州へと移住したのは、在日コリアン同様に窮した生活から逃れたいという理由からであった。生活が営めず行き場を失った彼らは日本政府の満州への移住政策に頼らざるを得ず、結果多くの朝鮮人が移住したのである。

以上のことからわかるように当時の朝鮮半島を取り巻く国際状況及び国内状況をもとに考察すると、在日コリアンと中国朝鮮人の形成には日本の植民地支配が共通していることがわかる。さらに注目したいのは国内から出ざるを得なかった国内状況、つまりプッシュ要因も日本の植民地支配によって引き起こされたという事実である。これを実証するのが上で紹介した在日コリアン、中国朝鮮族の来歴を調査したアンケートである。1910年から日本政府が開始した土地調査事業によって多くの農民が生活に窮し、糧を求め日本と中国へ移住したと説明したわけだが、このアンケートの回答者の多くはその当時に朝鮮半島で農業に従事していた人々である。彼らのほとんどが移住した理由に生活難などの経済的理由を挙げたことがまさに当時の朝鮮半島の困窮した国内状況を如実に物語っている。このように日本の植民地支配は朝鮮人が故郷を離れ移住しなければならない国内状況をも誘発し、結果的に在日コリアン、中国朝鮮族の形成に大きな影響を与えたと理解できるのである。



2)中国朝鮮族にみる移民的形成要因

先ほど説明したとおり、中国朝鮮族の形成には日本の植民地支配による満州移住が影響を与えたと理解できるが、これとは別に中国朝鮮族にはもう一つの形成要因があることも理解しておかなければならない。というのは、日本の植民地支配が始まる以前の1800年代後半から1900年代初期にかけての時期に、すでに朝鮮人が自発的に清国領内へ移住している。この時期に渡った朝鮮人の多くは、国内で起こった自然災害を逃れ清国へ渡った人々、封禁制度撤廃以降の清国による開墾政策で渡った人々から成り、清国内に独自の朝鮮人コミュニティを形成し定着していたのである。したがってこの時期に見られる中国へ渡った朝鮮人は日本の植民地支配の時期とは違い、より移民的側面が強いといえる。このように中国朝鮮族の形成は、日本の植民地以前に渡った人々と日本の植民地以降に渡った人々という二つの背景を有しているのである。



3)戦後にみる民族形成の要因

在日コリアン、中国朝鮮族の形成を検証するうえでは、日本や中国に渡ることになった理由のみに焦点を当てるだけは彼らの形成要因を十分に理解することはできない。なぜ、彼らが祖国に帰らずに残留することになったのかという問題を解決してこそ理解することが可能となる。

そこで、終戦後に目をむけ考えていきたい。日本からの植民地支配の解放後、日本、中国の双方へ渡った在日コリアンと中国朝鮮族は故郷の朝鮮半島に引き上げた人々もいた一方で、日本と中国に残留した人々も多数存在した。残留した人々の大多数は自国に生活基盤がすでに存在せず、代わりに日本、中国に存在していた生活基盤を頼らざるを得ないという生活上の理由のためであった。これが在日コリアン、中国朝鮮族ともに大多数を占める彼らが定着しなければならなくなった理由である。しかし、残留した朝鮮人に対する日中両国の対応まで突き詰めて考えることこそマイノリティとしての彼らの現状を理解するうえで重要だといえる。というのも、中国政府が終戦後に中国朝鮮族を保護する政策を打ち出し、彼らに中国籍を与え、定住を国家が積極的に進めたことに比べると、日本政府は朝鮮人労働者に対する賃金を支払わなかったり、朝鮮人の元軍人に対する補償を放置するなど在日コリアンへの戦後保障への対応は非常に無責任であった。今なお、在日コリアンのなかにはこのように日本政府の無責任な対応によって人権を傷つけられ、本国での生活に必要な資金を得られないためやむなく残留した人々も存在しているのである。





第2章

 日中におけるマイノリティの地位  

1945年に日本の敗戦によって朝鮮が解放されてからすでに50年あまりが経ち、在日コリアン社会の世代交代が進み、日本に生活の根をおろす人々の数はますます増加してきている。しかし、彼らをとりまく差別の壁はこれまでに挙げたとおり依然として厚く、生活環境は厳しい。法的地位や彼らの生活にかかわる権利もなお不安定と言わざるを得ない。これは、日本政府が戦後一貫して取り続けてきた在日コリアンに対する差別や抑圧、同化政策と決して無関係ではない。

対する中国においては日本にみられたような制度的な民族差別は廃止され、なかば自然同化というかたちで民族の融合が進んでいる。このような中で実施されている中国政府による今日の少数民族政策は、古代の王朝にはなかった具体的な政策を軸として保護と優遇を受けながらそれぞれの民族の社会生活を改善している。そして、現行の少数民族政策の下では、少数民族に対して優遇措置が実施されており、少数民族の政治参加や経済、教育、宗教、文化の発展は十分可能となっている。これは中国の現行の民族政策の基本的な内容が民族間の平等、民族区域自治、少数民族言語・文化の尊重と発展の支援などの部分で保護が行われているからである。



1.在日コリアンの法的地位

1)サンフランシスコ平和条約と日本国籍の剥奪

 在日コリアンと中国朝鮮族の地位を検証する前に、在日コリアンが今日に至るまで日本社会で苦難の歴史を歩んできた背景に存在する戦後の日本政府の法的措置を検証したい。

1910年に日本が大韓帝国を併合した際、それまで日本に暮らしていた朝鮮人は否応無く大日本帝国の臣民とされ、日本国籍を所持することになった。だからといって日本本土「内地」と同様であったというわけではなくいくつかの点で大きな格差があった。例えば日本戸籍と朝鮮戸籍を区分して朝鮮人が日本本土へ移住しても日本戸籍に編入することが認められていなかったり、渡航に関しても日本人が朝鮮半島に移住や渡航することについての制限は設けられていなかったのに比べ、1940年代後半には朝鮮人の日本への渡航には渡航証明書の携帯など制限が加えられていた。とはいえ、戦前の朝鮮人は参政権なども与えられ一日本国民として扱われていたのは事実であった。

しかし、1947年5月に旧大日本帝国憲法の最後の勅令として公布された外国人登録令によって、これまで法的に日本国籍を有していた旧植民地出身者らは日本国籍を剥奪され、外国人として扱われることになったのである。1952年にサンフランシスコ平和条約が発効すると同時に外国人登録令を適用し、在日コリアンを管理の対象とし、彼らの意思確認などを行わないままに一方的に国籍を剥奪したのである。日本政府によって行われたこの一連の国籍剥奪によって、以降在日コリアンは外国人登録証明書の常時携帯や指紋押捺制度といった人権に対する日本政府の干渉を受けると同時に、住宅や健康保険、年金、遺族補償など生活に関わるあらゆる局面においても日本国籍をもつ日本人と比べて極めて不平等な待遇を受けることになったのである。



  2)在日コリアンと在留権

次いで、彼らに対する日本政府による永住資格をめぐる経緯を検証する。

1952年のサンフランシスコ平和条約では「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基づく外務省関係諸命令の措置に関する法律」の第2条6項(法126−2−6)に従って、在日コリアンは在留資格なしで日本に在留することが認められた。とはいってもこの法律の背後では在日コリアンは外国人登録法の退去強制の対象とされており、彼らの自由を何ら保障するものではなかった。だが、1965年に日韓国交正常化を機に両国間で取り交わされた日韓法的地位協定によって在日コリアンに対する協定永住制度が新設され、日本への永住が大きく前進する。ちなみにこの協定永住はすべての在日コリアンを対象にしているわけではなく、外国人登録の国籍を記す欄に韓国と記された人のみに与えられていた。とはいってもそれまで外国人とみなしていた在日コリアンに協定永住を認めた意義は大きく、これを機に日本国内では在日コリアンに対する永住資格を求めた議論は盛んになっていく。1981年には日本政府の難民条約批准にともない国内法の整備が行われ、1982年から発効した出入国管理及び難民認定法によって、法126−2−6の該当者、つまり協定永住資格をもっていない旧植民地出身者とその子孫に特例永住資格が与えられることになった。そして1991年に「日本国と平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」(入管特例法)が成立し、サンフランシスコ平和条約以降はじめて在留資格が一本化され、すべての在日コリアンの在留権は法的に保障されることになったといえる。



2.政治的地位からの比較

1)在日コリアンの政治的地位

現在、在日コリアンは直接的に日本の政治に参加する権利というものは認められていない。これは国政、地方政治の両方においてである。だが日本の植民地支配下の時代に遡ると参政権を有していたという歴史的事実が存在する。1910年から1945年の間、朝鮮人が衆議院選挙に立候補し当選しており、地方議会でも数百人の朝鮮人が当選するなど当時の多くの朝鮮人は選挙権だけでなく、議員として国会や地方議会で活躍していたのである。しかし、戦後間もない1949年12月、衆議院選挙法が改正された際に「戸籍法の適用を受けざる者の選挙権および被選挙権は当分の内これを停止す」とし、朝鮮総督府の朝鮮戸籍令で戸籍登録されていた在日コリアンの参政権は停止され、現在まで保障されずに至っている。

そもそも在日コリアンを始めとする永住外国人の政治参画を日本政府が容認しない背景は、日本という国家の運命に最終的な責任を持ち得ない外国人に参政権を与えるべきではないという見解が大きく作用していると考えられる。これは参政権、及び政治意思に基づいて執行されるところの国家の統治作用のひとつである行政権は、国家という共同体の政治的運命を決定する機能を持つと理解されているからである。さらに、国政ほど国家への影響力が問われない地方政治においても地方公共団体の長は、国家機関でもあり、地方自治体の予算も国家の予算と深く連動しているがゆえに国家の統治機構の一部という解釈のもと参画が認められていない。このような日本政府の姿勢に一石を投じるかのごとく、1995年の最高裁判決で「自治体と密接な関係をもつ定住外国人の意思を地方行政に反映させるために、法律によって地方参政権を与える措置を講じることを憲法は禁じているとはいえない」という判断が下され、在日コリアンのような歴史的経緯をもつ定住外国人に地方参政権を与えても憲法違反ではないという解釈が示される。しかしながら、この判決からおよそ10年が経ち、司法から対応を求められていながら、政府は今も一向に腰をあげようとはしていない。2001年には新しく「特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律案」(通称簡易帰化制度)が登場したが、実態は定住外国人への人権に配慮したものではなく、選挙権の引き換えに帰化を求めるという暴論の延長線上で出されたものであった。

しかし、この国会の議論とは対照的に2002年1月、滋賀県米原町(現米原市)は住民投票条例を制定し、初めて永住外国人の投票権を認めるという判断を下した。この条例はそれまで議論されていた外国籍住民も有権者であるという問題提起に答えるものとなった。この条例の成立後、日本各地の住民投票において外国人に投票資格を認めた条例が多数採択され、現在ではその数は130を超えている。この米原町(現米原市)のように、納税をはじめとする義務を果たし、社会・経済・文化などあらゆる分野で相応の寄与をする外国籍住民を地域社会の構成員とみなし、自主的に地域行政に参画する権利を与えようとする地方自治体も少しずつではあるが登場し始めている。



2)中国朝鮮族の政治的地位

現代中国の民族政策の基本姿勢は民族区域自治である。1984年に公布、施行された民族区域自治法は序言の中で、民族区域自治の理念を次のように説明している。

「民族区域自治とは、国の統一的指導のもとで、各少数民族の集中的に居住する地方で区域自治を実施することであり、自治機関を設置して自治権を行使することである。民族区域自治の実施は、民族内部の事務を管理する各少数民族の権利を国が十分に尊重し、保障するという精神を体現しており、各民族の平等・団結・共同の繁栄を国が断固として実施することを体現したものである。」(6)

この条文に見られるように、民族区域自治において少数民族に認められているのは自治権である。つまり、同法第2条の中に「各民族自治地方は、いずれも中華人民共和国の分離することのできない一部である。」と説明されているように、民族の区域自治のみ認めるもので民族の分離独立の権利は否定されている。ちなみに1982年に制定された中国の現行憲法では、民族の分離・独立の権利を次のように否定している。「中華人民共和国は、全国の各民族人民が共同でつくりあげた統一した多民族国家である。平等・団結・相互扶助の社会主義的民族関係はすでに確立しており、引き続き強化されるであろう。民族の団結を守る闘争のなかでは、大民族主義、とりわけ大漢族主義に反対し、また地方民族主義にも反対しなければならない。国家は、全力をあげて、全国各民族の共同の繁栄を促進する。」(7)特に、ここで批判されている地方民族主義とは民族の分離・独立をさすもので、昨今のチベットや新疆のムスリムで起こっているナショナリズムを強く意識したものであるといえる。

 次に、自治権の内容に目を移してみることにする。民族区域自治で認められている自治権にはおおよそ次のようなものが含まれる。(8)

@ 自治条例・単行条例の制定権 

A 地域財政の管理権 

B 民族自治機関の地域的な経済建設事業の管理権 

C 各種事業の自主管理、民族的文化遺産の保護、民族文化の発展などの権利 

D 公安部隊の組織権 

E 民族自治地域で通用する言語・文字の使用権

このように中国政府は少数民族に対して様々な権利を認め、それぞれの少数民族の実情に合わせて政治や経済、さらには文化を発展させていくことを認めているのである。ここで確認したいことは、あくまでも中国政府は中国という国家からの分離、独立という方針は一切認めないが、民族区域においては可能な限りの自治を容認しているということである。

上記の点を踏まえながら中国の民族区域自治政策を中国朝鮮族に即してみていくことにする。現在、中国朝鮮族は吉林省に属する延辺朝鮮族自治州と長白朝鮮族自治県のほかに、東北三省全体で48の民族郷や鎮を擁している。1952年に最初の朝鮮族の自治体である延辺朝鮮族自治区(1955年には延辺朝鮮族自治州に改称)が成立し、6年後の58年には長白県朝鮮族自治県も誕生した。さらに成立したこれらの地域では他では認められていない自治が容認されている。例えば、延辺朝鮮族自治州では自治条例が施行されており、州長は朝鮮族が担当することが決められている。また、人民政府の首長と人民代表大会常任委員は朝鮮族が就任し、人民政府幹部や人民代表大会代表も、朝鮮族には実際の人口比より幾分多めに割り当てられている。[1990年の中国全土の総人口は10億4,280万人で、うち少数民族は9120万人で8%を占める。さらに朝鮮族は192万人で0.17%であるが、全国人民代表大会の代表総数2,987人のうち、少数民族は439人で15%を占める。うち、朝鮮族は20人を数え、比率も0.67%を占めている。延辺朝鮮族自治州政府の幹部についても、自治州の総人口に占める朝鮮族人口の割合は40%だが、州幹部総数の中で朝鮮族幹部の占める割合は50%である](9)。また、人民政府には、朝鮮族の実情に応じた各種政策や経済計画を自主的に制定、運営する権利が与えられている。

しかしながら、この朝鮮族に対する民族区域自治にも問題が存在することは事実である。これは民族区域自治の民族構成をみれば明らかとなる。例えば延辺の総人口に占める朝鮮族の割合をみると、[ 1949年当時は73.4%であったのが、1958年に朝鮮族の少ない敦化市が編入されたために1959年には54.9%に激減した。その後も漢族の組織的な流入により朝鮮族の比率は低下し続け近年では40%台を維持するまでになっている]。また、原則的に朝鮮族による自治が認められてきたが、1992年以降は州長より実験の強い共産党書記は漢族が握っており、実際は政府の監視の許される範囲内でしか自治が行えないのが現状である。



3)日中マイノリティの政治的地位の比較

 在日コリアンと中国朝鮮族の政治的地位を比較すると、日本政府が在日コリアンに政治に参画する権利を一切与えていないのに対し、中国政府は朝鮮族に主権的な自治ではないにしても中央政府から委任された範囲内での限定的な行政自治を認めていることがはっきりと理解できる。この両国家のマイノリティに対する政治上の差は彼らを自国のマイノリティであるとみなし、かつ自国を構成する一員として見ているかどうかにあるのではないか。日本は憲法で国民主権をうたっているとおり、日本国籍を持つ日本人のみをその対象としており、日本国籍を持たない外国籍住民が政治に参加することに門戸を閉ざしている。つまり日本人ではない者に国家の運命を左右する権利を与えるわけにはいかないという判断が示されているわけである。これに対して、中国政府はすべての民族は中国の公民」という前提のもとに、中国朝鮮族をはじめとする少数民族に対して中央や地方政府の政治に直接参画することが可能となっている。中国政府にとって、少数民族に対する区域自治は、国家の統一、社会主義、党の指導という強い絆のもとでの地方自治であり、少数民族というマイノリティを保護するために与えられているものであると理解できる。

そもそも現代民主主義における政治の根本的な要請としては治者と被治者の同意で行われるのが望ましい。したがって、国家或いは地域構成員の出来るだけ多くは政治に参加できる可能性があってもよいはずである。現在、在日コリアンが求めている地方参政権の主体は国民ではなく、住民だという考えである。つまり、地方を構成する住民には日本国籍を持つ住民に加え、外国籍をもつ住民も存在しており、両者は同じ地域に住む限り義務とリスクを背負わなければならないにもかかわらず、日本国籍をもつ住民だけが住民の権利を行使しているのが現状であり、地域の構成員という立場からみれば外国籍住民もその権利があるというものである。現実には、世界では労働者や女性やマイノリティが選挙権を獲得していった過程は国家の不可欠の構成要員であるからであった。とすると、外国人が国家の不可欠の構成員とみなすか否かが日本の国家のマイノリティの在り方を決するものといえる。残念ながら国政、地方政治にはいまだに在日コリアンに対する門戸は開かれていないが、各自治体が条例などによって彼らを地域構成員の一員として認識している事実は日本におけるマイノリティの政治的地位が変化してきた証でもある。 



3.教育的観点からの比較

1)在日コリアンの民族教育

 在日コリアンの子供たちが教育を受ける際には、民族学校で学ぶ場合と日本の学校で学ぶ場合の二通りに分けられる。この章ではまず民族学校の状況から検証したい。現在の日本国内には朝鮮系と、韓国系の二種類の民族学校が存在している。特に朝鮮系の学校は学校教育法第一条に規定する学校(以下一条校)とされておらず各種学校という扱いであるため、制度上の差別的な扱いが民族学校に通う学生や親に対し様々な差別を強いている。第一に、朝鮮人学校卒業生に対する国立大学への入学資格に対するものである。公・私立大学になかには民族学校生の受験を認めるところが増えてきているが、国立は一貫してその門戸を閉ざしている。それゆえ、民族学校生が国立大学への入学を希望する場合は在学中に大学入学資格試験に合格してからでなければ大学入試センター試験を受験できないシステムとなっている。第二に、朝鮮人学校に対する教育助成と教育扶助の問題である。支給される教育扶助は日本の学校に通わせている場合には適用されるが、民族学校に通わせている場合、その適用から除外されている。これは、朝鮮人学校が各種学校の扱いであり、学校教育法の一条校として認可されていないためである。このため保護者の学費負担は大きく、納税によって公費による教育費負担を果たしたうえで子供の負担を払うという二重の教育費を負担せざるを得ない状況である。 

民族学校で学ぶ在日コリアンの子供たちがいる一方で、実際のところ圧倒的多数の在日コリアンたちは民族学校ではなく日本の公教育体系で学んでいる。だがここにも問題が存在している。日本の学校では、日本人の子供たち、さらに在日コリアンの子供たち自身が自らを民族的に「見えない」存在としてとらえる場合が多いことである。それは、在日コリアンの子供たちの多くが本名(民族名)ではなく日本名(通名)を用いているためである。本来、本名を使うということは、自らが朝鮮人であるということを明らかにすることだと考えると、本名を使わない状況は、本名を用いることによって生じる偏見や差別から逃れるためのやむをえない判断なのである。この通名で日本の学校に溶け込むことは在日コリアンにとっては単に民族的に「見えない」だけでなく、自らの民族アイデンティを育むことをも否定するものだといえる。しかしながら近年では日本の学校での民族学級や民族クラブ、地域の集いなどの実践などをとおして民族教育を保護する動きもある。例えば、大阪市内を含む大阪府下で、小・中併せて170〜180の学校で民族学級を設置し、在日コリアンの講師をおいて課外活動で民族教育を保障する取り組みが行われてきている。さらに、入学式などを含む学校の公式行事では、日本の国旗とともに大韓民国国旗を掲げる学校もあり、少しずつではあるが日本の学校における民族教育の意識は変化し、それに伴った在り方に変わろうとしている。



2)中国朝鮮族の民族教育

中国の民族教育において中国政府は少数民族に対して漢語と民族固有の言語の二言語併用政策を採用している。中国の現行憲法によると、

「各民族は自己の言語・文字を使用し発展させる自由を有し、自己の風俗・習慣を保持または改革する自由を有する」と、少数民族の言語と文化面から見た自治方法が容認されている。また、第121条では、「民族自治地域の自治機関が職務を執行する場合には、その民族自治地域の自治条例の定めるところにより、その地域で通用する1種または数種の言語・文字を使用する」と定めて、少数民族の言語使用に対して配慮をしている。1984年に公布された民族区域自治法でもこの二つの条文が明記されるなど政府、それぞれの自治区ともに共通の認識として二言語併用政策を実施していく旨が示されている。現在、この中国政府の政策に従って、全国では朝鮮族をはじめ、蒙古族、チベット族、ウイグル族、チワン族などの21の少数民族が漢語とそれぞれの民族語の二言語による双語教学を実施している。さらに、中国政府は少数民族教育の発展のために財政的な支援を行い、少数民族地区における漢族幹部に対して少数民族の言語を学習することも積極的に勧めるなど教育面での少数民族に対する優遇措置はかなり開かれたものとなっている。

中国朝鮮族に対した民族教育の実施方法に目を向けると、まず中国政府から朝鮮語で民族教育をする権利が認められている。さらに民族学校を見てみると、日本では在日コリアン自身で朝鮮学校を設立している点に対して、中国では中国地方政府が朝鮮族の民族学校を設立させ、朝鮮語の教科書を出版する出版社も設立するなど国家が積極的に朝鮮族への教育を保護している。また、各地方政府の教育局には民族教育を監督する民族教育処を設けて、朝鮮族には特別に民族教育補助経費を計上するなど財政面からも朝鮮族は政府からの支援を受けることが可能となっている。大学入試にあたっては、朝鮮語で試験を受けることができるようにするなど教育に関する点でも優遇されていることが見て取れる。その他にも、民族語を尊重し、延辺では看板や公式的な会議の用語は漢語と朝鮮語の併用を認め、漢族は一人っ子政策のところを少数民族には二人まで認め、民族問題について漢族にも啓蒙活動を行うなど様々な優遇措置が図られている。   



          とはいえ、民族教育にも問題点が累積している。最も顕著なことは、近年になって民族語の後退現象が目立つようになっていることである。これは異民族間結婚の増加や交際語としての漢語の普及により、家庭内での漢語の使用頻度が徐々に高まってきていることのほかに、民族学校の言語教育方針の変化も大きく関係していると考えられる。朝鮮族の場合、1946年に漢族生徒に朝鮮語、朝鮮族生徒に漢語を授業で取り入れていたが、やがて漢族生徒は朝鮮語を学ばなくなってしまったという事実がある。どちらかというとこれまでの中国では、近代化の遅れが結果的には民族語を保護してきたという背景があった。しかし、急速な都市化の進展や漢族の移住などにより、民族語を擁護してきたコミュニティの解体が急速に進んでいる。民族教育をめぐっては、存続させようとする立場と、国家の統合と近代化のために漢語の普及を最優先課題とみなす二つの立場が併存している。そこで、双方の要求を満たすべく登場したのが二言語教育の双語教学だが、実施する際にさまざまな困難に直面しているのが現状である。



3)日中マイノリティの教育的地位の比較  民族教育の権利は世界的にもみても重要な権利の一つとして位置付けられている。[なかでも「国際人権規約」および「子供の権利条約」は、権利としての民族教育を裏付けるものとして認知されている。「国際人権規約」でいうところのA条約第13条「教育についての権利」や、B規約第27条「少数者の保護」がそれである。そして、「子供の権利条約」では第2条「差別の禁止」、第8条「アイデンティティの保全」、第28条「教育への権利」、第29条「教育の目的」、第30条「少数者・先住民の子供の権利」などがその主としたものである](10)。

以上を鑑みると、日本の教育体系における対在日コリアン教育政策には見直すべき点が残されている。まず在日コリアンの民族教育のよりどころであるはずの民族学校は日本の学校制度による差別に直面している点である。そもそも民族学校が設立された目的は日本の対在日コリアン教育に対抗し、民族の言語や文化を保護・発展させるためであった。しかしながら、治安や管理に重きを置いた日本の在日コリアンに対する立法政策は民族教育の権利を十分に保障できるものとはなっていない。さらに、日本の公教育体系も在日コリアンの民族教育に対する根本的な問題を抱えている。最も顕著なことは日本の学校で教育を受ける際に日本人、在日コリアンともに民族的・文化的な差異を否定的なものとして捉えていることである。これは氏名など自らの出自を明かせない日本社会の閉鎖性とも大きく関連し、民族的偏見や差別が助長されるとともに自らのアイデンティティを放棄し、日本人への同化につながる危険性をも秘めている。近年では日本の学校でも徐々に民族教育に対する取り組みも行われているが限定的であるため、多くの在日コリアンは健全な民族意識が育つ機会をもてず負の意識で民族を捉える傾向にあり、在日コリアン=自己であるという認識ができないケースも見受けられる。

これに対し中国朝鮮族の場合は、中国の憲法でうたわれているとおり、彼ら独自の言語や文字、習慣は少数民族政策で保護の対象とされており、民族的アイデンティティの持続と発展が可能な環境である。この政策下で行われる中国朝鮮族の民族教育を「国際人権規約」「子供の権利条約」に照らし合わせると、日本のように彼らの民族教育を阻むような法的および、民族的差別はみられない。だからといって中国朝鮮族の民族教育は問題無く実行されているわけではなく、二言語政策による共通語としての漢語の普及による朝鮮語の衰退が深刻であり、民族のアイデンティティの希薄化を生んでいることも事実である。とはいえ、中国朝鮮族の行う民族教育は民族の差異を差別の対象にするのではなく、共生社会をつくるうえでの重要な要素として位置付けている点は日本も十分に見習うべきであろう。マジョリティとマイノリティ双方ともが民族的・文化的差異をより肯定的なものとして捉え、価値観の変革と共生の意味を強く考えることが民族教育の基本に据えられるべきである。





第3章



おわりに 〜これからの展望〜

本論文では在日コリアンというマイノリティの歴史、現状を中国朝鮮族を例に歴史的形成の側面と所属国家における地位の側面から検証してきた。現在の在日コリアン、中国朝鮮族ともにルーツが朝鮮半島であるということ、さらには形成に至るまでの背景も日本の朝鮮半島植民地政策の結果に作られたという共通した歴史をもっている。だが、日本と中国という別々の国家にわかれて暮らす彼らの現状をみると、両国家におけるマイノリティに対する国家、国民の向き合い方の差は極めて大きい。中国の場合、朝鮮人を中国朝鮮族という少数民族として認め、中国という国家を構成するマイノリティの一つとして位置づけるとともに優遇政策を実施し、広範な自治が行われている。これに対して日本の場合、戦前・戦中は朝鮮半島の植民地支配下で彼らの生活を困窮に追い込む社会状況を作り上げ日本へと渡らざるを得ない原因を生み出しておきながら、戦後は一変して彼らを外国人とみなすことで社会的権利を奪い、彼らの人権を傷つけるなど戦前、戦後にわたって二重の苦痛を与えてきたのである。

この論文では日本という国家が自国民とは異なるマイノリティに対して閉ざされた社会であることが改めて理解できたわけである。世界中で国際化が叫ばれ始めてから久しくなっても、日本という国家は海外に対して目を向けるばかりで内なる国際化、つまり、在日外国人、とりわけ一番多くそして一番古くから日本に暮らしている旧植民地出身者である在日コリアンと共に生きる社会をつくる努力がおざなりにされたままである。確かにこれまでの日本の風潮は在日コリアンという存在になにか触れてはいけないように目を背けてきたように私は感じずにいられない。それは在日コリアンが日本に住むマイノリティの中でも歴史的特殊性が極めて強いためだといえる。しかしここで忘れてはならないことは、今現在在日コリアンが日本に住むことになった形成過程には日本という国家が強い影響を与えているという事実である。それを忘れて在日コリアンを一方的に外国人とみなして受け入れようとしない姿勢は過去の歴史を自国の都合のよいものに正当化することを孕むとともに、何よりも彼らの人権を侵害にあたる。

したがって何よりもまず、日本は内なる国際化である共生の社会を実現すべきである。そのために在日コリアンという存在を理解することはこれからの日本の在り方を大きく左右するものだといえる。というのも、この先日本という国家は少子高齢化という時代を迎えるにあたっては在日コリアン以外の外国人もたくさん受け入れなければならない時期が必ず訪れるはずである。そのような状況に日本が直面した際、これまでどおり、あくまで日本人以外は異民族だという排他的な考えではますます日本は国際化に乗り遅れ、真に開かれた共生社会とはなれないはずである。日本が本当の意味で共生社会をつくるには、在日外国人に個人としての尊厳を肯定し、その民族性を尊重しつつ日本人と在日外国人の共生を実現させることが重要である。そのためには、まず日本社会が在日コリアンの権利を認め、民族教育を認知し、相違への権利を認める社会にならなければならない。人権の世紀といわれる21世紀の最初に克服されなければならない課題で、それを実現することが、日本社会を良くすることにつながるはずである。





注釈

注1:在日本大韓民国青年会中央本部「アボジ聞かせてあの日のことを」

                 (在日本大韓民国青年会中央本部、1988年)

注2:同上

注3:沈恵淑「中国朝鮮族聚落地名と人口分布」(延辺大学出版社、1993年)

注4:尾田某訳「満州と朝鮮人」(拓務大臣官房文書課、1933年)

注5:韓相福、権泰煥「中国延辺の朝鮮族−社会の構造と変化」

(ソウル大学校出版部、1993年)

注6:訳文は佐々木信彰による

注7:同上

注8:毛利和子「現代中国政治」(名古屋大学出版社、1993年)

注9:高崎宗司「中国朝鮮族:歴史・生活・文化・民族・教育」

(明石書店、1996年)

注10:朴鐘鳴「在日朝鮮人第2版」(明石書店、1999年、171頁)





参考文献

金大均「在日・強制連行の神話」(文藝春秋、2004年)
尹健次「在日を考える」(平凡社、2001年)
金賛汀「在日コリアン百年史」(三五館、1997年)
山田照美・朴鐘鳴編「新版 在日朝鮮人―歴史と現状」(明石書店、1991年)
仲尾宏「Q&A在日韓国・朝鮮人問題の基礎知識」(明石書店、1997年)
佐々木信彰「現代中国の民族と経済」(世界思想社、2001年)
韓景旭「韓国・朝鮮系中国人:朝鮮族」(中国書店、2001年)
高崎宗司「中国朝鮮族:歴史・生活・文化・民族・教育」(明石書店、1996年)
加々美光行「知られざる祈り 中国の民族問題」(新評論、1992年)
毛里和子「周縁からの中国」(東京大学出版会、1993年)


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