愛知大学現代中国学部加々美ゼミ

卒業論文

「靖国問題から考える日本人意識」

序章

 2006年8月15日、小泉純一郎首相が靖国神社への参拝をした。これで毎年、小泉首相は参拝を行使していることになる。過去において靖国神社へ参拝した首相はほかにもいる。しかし、この問題が現在おいて高くクローズアップされる背景としては世界の多様化つまり多国間のつながりが過去と比べて急速に接近しているからである。

7月20日に靖国神社へのA級戦犯合祀に関する昭和天皇の批判的見解が「富田メモ」の形で公表され小泉首相の靖国参拝への非難・そもそも靖国や戦争責任をめぐる議論が急速にクローズアップされている。

靖国問題を解決していくことはかなり困難な問題である。過去・現在の日本人にとっての靖国神社。また東アジア及び日本軍国主義の被害者国としての靖国神社の考え。またそれ以外の考え方も存在する。

この記述においては靖国の是非を問ういた上で、靖国神社の歴史の流れ天皇との関係、A級戦犯合祀問題、国内法と国際法の日本の靖国に対する二重構造の存在性などを論証し、特に日本人の靖国に対する考え方を超える概念として「靖国で逢いましょう」という観念ことから考える日本人の性格についても理解する。

 そして今後の課題として日本はどうあるべきかを考察し、そこからして靖国問題解決の糸口を見出していきたい。



第一章

靖国神社

 @慰霊招魂として

靖国神社の歴史は明治維新とともに始まる。江戸徳川幕府十五代将軍徳川慶喜が「大政奉還」を上奏し慶応3年(1868年)旧暦12月9日に「王政復古」の宣言がなされた。これによって幕府から天皇のを国家元首に戴く太政官性制の形をとった政府との認識が全体に広がった。また「五箇条のご誓文」が公示され明治維新の大業はこれをもって推進の緒に就いたのだと見てよい。このことから靖国神社創建の発想は極めて早い時期には生じているたと考えてよいであろう。また便宜的に1868年を明治元年とするのが慣行となってはいるが正確に言えばこの年の9月8日が明治改元の日でさらに言えば干支が戊辰である。戊辰の年には維新の政権交代をめぐる内乱の戦火(戊辰戦争)が収まっていなかった。戊辰戦争を冷静に回顧するには程遠い、この時期から早くも太政官達はこの度の戦火によって亡くなった戦士たちのための慰霊招魂の祭祀施設が必要だという着想に到達した。これが1869年(明治2年)に「東京招魂社」として創設された。後の靖国神社である。

 A国家神道の象徴として

創建後の東京招魂社には佐賀の乱や台湾出兵・西南戦争などで新たに戦没者となった人々が合祀された他、1853年のペリー来航以降、日本の将来のために奔走して命を落とした勤皇の志士たちや各地の招魂社に祀られている人々も合祀されるようになった。(図1)

(図1)現在の合祀数



■靖国神社御祭神戦役・事変別柱数■



(平成16年10月17日現在)

社殿が整えられるにつれ、戦没者を弔い、慰霊するための国家の中心的施設にふさわしい社号が望まれるようになっりました。その機運を受け1879年に社号が「靖国神社」と改称され、また「別格官幣社」として格付けされた。

※ 官幣社…明治時代から昭和20年の太平洋戦争終戦まで、日本の神社には社格制度があった。各神社は官社(官弊社・国弊社)と諸社と分類され、このうち官弊社は天皇・皇族・功臣などを祭神として祀る神社として位置づけられ、なかでも別格官弊社は、歴史上、天皇や国家に対して大きな功績があった人物を祀る神社とされてきた。

神社は一般的に内務省によって管理されるのが普通だが、靖国神社の場合は創立当初から陸軍省・海軍省が共同管理にあたり、祭式や神職の任免などについては内務省が関わることとされた。この軍による管轄が首相などの靖国神社への参拝が戦争への肯定すなわち日本軍国主義への肯定と認識され、批判される要因の一つである。

以後、靖国神社は日本の国家や天皇をはじめとする皇室・皇族を守るために戦争で一命をなげうった軍人や軍属などを中心とする戦死者を、神道祭式によって祭祀・合祀するための神社として存在し、太平洋戦争終結まで「国家神道」の象徴となった。



B戦後の靖国神社とGHQ

戦後日本を占領した連合国総司令部(GHQ)は、国家神道が「軍国主義」と結びつき、日本国民を戦争に動員する大義名分となったと判断した。その象徴とされたのが陸・海軍省が共同管理していた靖国神社だった。GHQは国家神道の解体を目指し1954年12月神道への国家の保護や学校での神道教育の中止を命じる「神道司令」を出した。さらに翌年には「日本国憲法第20条」によって「信教の自由」と「政教分離」が定められ、宗教団体が国からの特権を受けることが禁止された。確かに前述したとおり靖国神社が一般的な神社とは異なり、軍による管理そして、太平洋戦争時など「靖国で会いましょう」という言葉が存在したことなど靖国神社が国家神道と日本軍国主義の象徴橋的存在であったことは否めない。

靖国神社はその結果、別格官弊社としての社格を失い、国家の保護から切り離され、一宗教団体として存続することになった。ここで注目してもらいたいのが神道=国家神道の形が日本の軍部によって構築されたことである。

「古神道は甦る」の著者、菅田正昭氏の見解によると古代の民衆神道の甦りとして幕末から明治にかけて発生した教派神道も、国家神道の成立によってキバを抜かれ、教祖たちが直接、神と出会って授けられた〈教え〉のうち、国家神道と抵抗する部分は、捨てられたり、隠されたりしてしまったという。 戦後、国家神道体制の崩壊で、国民はそれからその束縛から自由になったが、そのときは神道そのものが人々国民から嫌われてしまった。というのも、一般庶民には、神道=国家神道と誤解したからである。そのため、古神道は神道という形で復活することができず、新宗教としての諸教というかたちで、古神道の一部が復活しただけだった。ではどうして神道=国家神道として誤解されるようになったのか。次の項で日本の宗教文化と共に考察していく。



C日本の伝統文化と伝統宗教

新屋哲也氏の考えによると「古事記を研究した本居宣長によると古代日本のカミ(迦微)は鳥や獣・木草や海山・河川などの森羅万象にひそむ、尋常ではないものすなわち人間が絶対作り出すもののできないものを敬うべきであり、そこに神々の息吹がみいだされる」との認識であった。そういったアミニズムとシャマニズムの合体によって日本の古代信仰が生じたのである。

さらに新屋は言う。「儒教を理、理が抜けたあるがままの世界を事とみた宣長は、古事記に描かれている神代の不可思議な物語はそのまま信じるべきとした。人知で疑ったり、理屈をこねまわすのは「漢意」のさかしらだというのである。古事記によると、世界の根源は、タカミムスビ(高皇三霊)とカミムスビ(神皇産霊)の二神であり、ここからイザナギ・イザナミの両神を経て天照大神にいたって当代の天皇へとつながるというのが宣長の神道世界である。また、神道とはアニミズム(自然崇拝=民俗信仰)とシャマニズム(祖霊崇拝=宮廷の伝承神事)が融合したものであり、それが神社であり宮中三殿という神籬(ひもろぎ)である。宮中三殿には皇室の祖先を守る皇霊殿がある。(中略)天皇は「天照大神」を祀る大司祭でもある。天皇が崇拝されるのは人々は日々の生活にいそがしく、祈念や神事に心を向けることができない。その仕事を変わり代わりに行ってくれているのが天皇である。宗教が生み出す階級の争いなどの害悪などを天皇が一心に引き受けてくれているという意識があり、人々は次第に天皇に尊敬の意を抱くようになった。」という記述されている。実際に過去の歴史を考察しても天皇が日本にとっての最高位であることに違いはない。確かに鎌倉時代になると武士が世の中の政を仕切るようになったが政治権威としての地位の任命は天皇が行っている。

神の代から朝廷に属していた日本では、略奪が横行する狩猟社会とは違い戦国武将が領土争いをしても農民に害がおよぶことはなかった。年貢を徴収するには田畑を耕す農民が必要だったことに加え、農民を殺すと民の統帥者である天皇から正統性を認めてもらえなかったからである。また武将自信身が天皇にとって代わろうとしなかったのはその正統性の権利がを武将自身が認識していることであると新屋氏は論述する。

この観点において賛同できる点はいくつかある。武士がなぜあそこまで権力があるにも関わらずあくまで天皇からの任命を得ていたこと。これは武士にとってもあくまで天皇は特別な存在であり、不可侵な存在であったことの証明であるとも考えられる。しかし、逆の意味で考えると天皇はとって足るほどの存在でもなく、別の意味でも民衆や武士家来を押さえつける歯止めとして利用していたとの考えも出来る。

一方、反対の意見として伝統的宗教・文化と異文化との交流である。日本には古来からの伝統的なつまり日本独自の神道があったと仮定する。しかし、時がたつにつれ、宗教は形を変えていったように感じる。例えば聖徳太子が存在した時代。あの時代、国家の宗教は神道ではなく仏教であった。また、鑑真が来日した時などはまさしく日本は仏教文化の時代であり、後には浄土真宗など各諸派もできていった。その時代には日本人が神道を重んじていたとはいいきれない。そうなるとこれは明治維新以降、政府が天皇を絶対的権力者として仕立て上げるため、そして欧米で行われたような一神教によって構築された階級社会という形を神道として実現したのではないかという疑いがあがる。

このように考えていくと唯一絶対の神としての天皇、それを司る明治維新政府という形ができて新屋氏の記述していたようなアメニズムとシャマニズムの関係が天皇と明治維新政府の関係で成立してしまうことになる。ここにおいて神道=国家神道という関係ができてしまったといっても過言ではない。そもそも、それまではキリスト教であったりさまざまな宗教が日本国内でも浸透しており日本古来の神道をしっかり把握しているものがいたのであろうか。また根本的に神道が宗教であるという認識をしていたものが国民(ここでいう日本人)の中にどれほどいたのであろうかという問題がでてくる。今日でもそのことはあきらかで日本人の信仰宗教においてもっとも多いのは無宗教という概念である。

維新政府はそれを巧みにあやつることにより悪く言えば国民をマインドコントロールしていたと言える。その種としてまかれたのが教育勅語であり国家神道の下の靖国神社であるといっても過言ではない。では次に靖国神社が今日の靖国問題とどのように関わっているのか考察する。



D合祀者

神社というのはどの神社においても「御祭神」として祭られている神話上の人物や歴史上の人物が存在する。靖国神社の場合も同様で明治維新以降(ペリー来航以後の維新に対する功臣も含む)の戦争や事変などで日本のために亡くなった戦死者の「御霊」となっている。2004年現在では246万6532柱の御霊が「護国の英霊」として祭られている。(靖国神社では祀られている御霊のことを人ではなく柱と数える)

※ 英霊…藤田東湖の「正気の歌」より

祭られている柱には安政の大獄や禁門の変・池田屋事件などで犠牲となった志士や坂本竜馬・高杉晋作なども含まれている。結果として官軍に対抗することとなった西郷隆盛は含まれていない。また、あくまで戦死者に限るので日露戦争で活躍した乃木希典陸軍大将や東郷平八郎司令官は戦死者ではなく含まれていない。さらに、軍人ばかりではなく女性や小中学校の児童・生徒なども含まれている。他にもさまざまな柱があり、特に注目すべきは日本軍に徴用・徴発され、日本のために戦った台湾や朝鮮半島出身の軍人や軍属も祀られていることである。

これら人々の合祀の問題は法律上の問題から度々訴訟裁判となることがある。主に問題となるのが「戦死した親族の靖国神社への合祀は自らの意思に反し、人格権の侵害である」との見解からである。確かに靖国合祀は内務省(戦後は厚生省・厚生労働省)の資料から勝手に決め合祀するため本人の意思や親族の希望を全く無視しているものといえる。しかし、その一方では祀るのは遺骨ではなくあくまで御霊であること、そして台湾や朝鮮などの国の人々にとっては逆に合祀しなかった場合、日本は台湾や朝鮮の軍属を平等に扱っていないとの理由で非難される可能性もある。この問題は突き詰めて考察すると日本の侵略の象徴とする立場と日本人としてワケ隔てなく平等に扱うという立場の両極端にわかれ堂々巡り的な議論が繰り返されることになるだろう。

戦没者の合祀にからみ近年、大きく外交問題としてなっているのがA級戦犯すなわち昭和殉難者の合祀問題である。この問題については次章で考察していく。

「古神道は甦る」菅田正昭




第二章

靖国問題

今日靖国問題は一気に加熱している。その要因は一つが2006年8月15日すなわち終戦記念日の小泉首相の参拝・そして時期は少し早くなるが昭和天皇の靖国神社の参拝や英霊に関する意見をまとめた「富田メモ」の発見である。この二つにより靖国神社に参拝すること・A級戦犯を合祀することが問題視されている。

「国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のこと」という意見の一方、歴史認識や政教分離・近隣諸国への配慮から政治家・行政官の参拝を問題視する意見があり、議論が起きている。終戦記念日である8月15日の参拝は日中戦争・太平洋戦争の戦没者を顕彰する意味合いが強まり、特に議論が大きくなる。戦後昭和天皇は数年おきに親拝していたが、1975年の参拝以来天皇自らの親拝は途絶えた(A級戦犯合祀問題の項を参照)。日本各地の護国神社への参拝は行われている。護国神社にA級戦犯は合祀されていない。一方、首相の参拝については第二次世界大戦中に旧日本軍によって被害を蒙ったとされる国、中華人民共和国、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国の3カ国とは外交上の問題にもなっている。また、当時日本領であった台湾(現在は中華民国)からも徴兵による戦死者が多数でており、一部で批判がある。(台湾人日本兵、高砂義勇隊のなど)。

田中宏氏は「週間金曜日」において、小泉純一郎首相が靖国参拝を行った2006年8月15日の行動に対して3つの指摘をした。「戦後日本は、「首相の公約」とは異なるもう一つの大きな「公約」を背負っており、首相の靖国参拝はそれに背いている。二つは、靖国神社には旧植民地出身の戦没者が、政府の協力によって遺族の了解も得ないまま祀られ、合祀取り消しを求めている遺族の願いが拒まれている。首相は遺族の声に耳を傾けて解放に全力を注ぐ責務がある。三つ目は、首相の靖国神社参拝は政教分離原則に反し、司法の憲法違反の判断をも無視し、立憲主義を破壊した。」と記述している。その三点について考察していく。またその日本の持っている靖国神社の矛盾点や認識についても考察していく.

1,国家の責務

日本の首相になるということはアジア諸国に対して経済や政治的な側面からもその荷は大きいものであるが歴史的な側面からもその責務は多大なものである。特に東アジアにおいては最も重大な問題である。侵略していった時期が早い上に、そのほとんどの国が戦後賠償を受け取っていないからである。小泉純一郎前首相は先の衆議院選挙で郵政民営化の主張でかなり影的な存在になってしまったが党のマニフェストとして、また個人のマニフェストとして靖国神社への参拝を明記した。しかし首相の公約とは別の次元で戦後日本自身が持っている公約があるということを忘れてはならない。戦後の日本の公約とは再び先の戦争で起こったような戦争をおこさないように十分に注意するということである。しかし、首相の靖国参拝は戦争否定の立場よりは肯定的な見解で行っているように考えられる。その点で首相の行為は国際的な立場からではその使命に背いているように考えられる。 一、政教分離問題と三、信教の自由  首相の参拝は憲法による政教分離原則に抵触するか否かの解釈が、国内では最も大きな論点となっている。

第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

この二つの条文が首相及び国家の要人が参拝することが違法ではないかとの見解がなされている。小堀氏はこの問題を制約として意見を述べている。「国家の構成員として赴くことは違法である。しかし、そうなると日本という国には国事殉難者の霊に対して公的行事として感謝・報恩の儀礼を捧げる方法を持たない、文明国としては実に異例の忘恩国家だということになってしまう。によって国際的に品格を欠いた礼の精神に欠けた国」と言われるのではないかとも危惧を示している。確かに一理はある考えである。今日の日本があるのも戦死していった人たちが必死で守ったお陰であるしまたくしくも戦死していった人たちに参拝の意を国家全体として行うのは当然の義である。実際に、靖国神社は他の宗教とは違うとの観点から一宗教法人から昇格させ国費を持ってその維持にあたるという主張がでてきて、1975年いわゆる「靖国国家護持」法案なるものが国会で審議された。この法案は結局は廃案にはなるのだが度々国会に提出され人々の中には靖国神社に対して特別な意識をもっている人を指す一つの要因である。一方で、世間的には国際化の世界を見据え相違する意見がで出ている。例えば、司法的な見解から首相の靖国参拝は違憲であるいう見解が出された。それに対して小泉元首相はその意見や見解に無視という判断を下し、参拝を終戦に当たる8月15日に敢行した。これは首相であっても個人の一人であるため、個人の信教の自由としては合憲であるように捉えることができるが、首相としての責務や行政機関の長としての立場から考えると参拝は違憲であるように考えられる。司法の判断に対して無視という行為で対応したということは近代立憲主義である三権分立の考え方に大きく反するものであるように考えられる。田中宏氏は「戦後日本の「公約」とは近代日本が長きにわたって行ったアジアに対する植民地支配と侵略を再びくり返さないという内外の人々への誓約である。」と記載しているが首相はそれを先頭に立って実行すべきではないか。首相が先頭に立って参拝をするということは行政である政府や地方自治体が信教の自由を核としている日本国憲法を率先して否定していることに繋がりかねない。憲法20条の政教分離原則にはその言葉の意味だけではなく歴史の考え方や人権的な考え方が含まれているように考える。

 また、信教の自由として首相の自身の自由だけではなく合祀されている人の遺族の自由も尊重されなければならない。前章ので述べたが靖国神社には現在250万近い戦没者が英霊として合祀されている。この中には日本の侵略戦争に強制的に動員され無残に殺された挙句現在では日本人とは認められず遺族年金をもらえないのに、死んでいった約5万人の台湾人や韓国人・朝鮮人の被害者が存在している。親族としては戦前の戦争行為の象徴であった靖国神社に自分達の親族が合祀されるのは耐え難く、また日本国憲法で認められている信教の自由の観点からも可能であると主張する。また現在では日本人遺族からもキリスト教徒であったり、死んでまで国家の束縛としていさせるのはなんとも悼まれないという考えから合祀の取りけしを求める動きがでているがいづれも認められず、現在に至っている。



4,A級戦犯合祀

1946年に開かれた「極東国際軍事裁判」でA級戦犯とされ、絞首刑に処せられたり、終身刑や禁固刑を言い渡された14名が靖国神社に合祀されているという事実だ。

※ A級戦犯…最も罪が重いという意味を指すのではなく極東国際軍事裁判において「平和に対する罪」について有罪判決を受けた戦争犯罪人をさす。近年ではA項目戦犯と呼ばれることもある。



絞首刑

板垣征四郎 - 軍人、陸相(近衛内閣・平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長

木村兵太郎 - 軍人、ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣)

土肥原賢二 - 軍人、奉天特務機関長、第12方面軍司令官

東條英機 - 軍人、第40代内閣総理大臣

武藤章 - 軍人、第14方面軍参謀長(フィリピン)

松井石根 - 軍人、中支那方面軍司令官(南京攻略時)

広田弘毅 - 文人、第32代内閣総理大臣



終身刑

荒木貞夫
梅津美治郎 大島浩
岡敬純
賀屋興宣
木戸幸一
小磯国昭
佐藤賢了
嶋田繁太郎
白鳥敏夫
鈴木貞一
南次郎
橋本欣五郎
畑俊六
平沼騏一郎
星野直樹




有期禁錮

重光葵 (7年)
東郷茂徳 (20年)



判決前に病死

永野修身 (1947年1月5日没)
松岡洋右 (1946年6月27日没)



訴追免除
大川周明(梅毒による精神障害が認められ訴追免除)


B・C級戦犯…第二次世界大戦の戦勝国である連合国によって布告された国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪または戦争犯罪人とされる罪状に問われた一般の兵士ら。日本のBC級戦犯は、約5,600人が各地で逮捕投獄された。横浜、上海、シンガポール、ラバウル、マニラ、マヌス等々南方各地の50数カ所の牢獄に抑留され、約1000名が軍事裁判の結果、死刑に処された。
 A級「平和に対する罪」というのは、それまでの国際法ではなかったもので、戦勝国が日本を裁いていく上で急遽作られた。なぜこのようなものが作られたのかは元来国家には交戦権があり戦争行為自体は犯罪とは一概に言い切れない。特にこの時代においてはほとんどの国が何世紀にもわたって戦争を繰り広げていた。現在の日本は日本国憲法により交戦権を行使することを拒否しているが、当時の日本には交戦権があったので罪にはならないと考えられていた。戦勝国のほとんどが法治国家であり「法無くして罪なし」との観点(罪刑法定主義)から作りあげたものである。この問題に当たっては東京軍事裁判の判事の一人インドのパール判事は過去にさかのぼって処罰することを罪刑法定主義禁止に違反するとしてA級戦犯に問われた全員の無罪を主張した。
 A級戦犯の合祀によって国内で問題となったのは1979年4月19日の日本経済新聞で報道されたのがきっかけであった。すでに前年の秋季例大祭の前日に行われた霊璽奉安祭においてA級戦犯とされた人々が合祀されていたが、その事実があきらかになったのは翌年であった。この問題の中で、国民に知らせずA級戦犯を合祀しており、なお且つ歴代の首相は参拝をしていたという問題もあるが一番の問題は外交上においてアジアの諸国においてA級戦犯は最もにくい敵であるにもかかわらず日本の首相が参拝し続けているという点だ。実際に合祀が外交問題となったのは1985年8月15日当時の首相であった中曽根康弘氏が公式参拝の形をとったところ中国が批判したことが始まりであった。この時、中曽根首相は政教分離の原則に接触しない参拝方法として、神道方式の「二礼二拍手一拝」ではなく「一礼」ならば違憲の疑いもないと判断をして公式参拝に踏み切り、その他首相も同様の理由や私人としての形にして参拝を行ってきている。
 中国にとっては、自国が侵略された戦争の責任者とも言えるA級戦犯が祀られている靖国神社に日本の総理大臣が公式参拝するのは、戦後の日本政府が侵略戦争の責任を認めずに正当化するものだと反発し、中国やアジア人民の感情を傷つける行為だと主張した。こうした論議が押し問答のように繰り返される中で先日の「富田メモ」の発見、そして国際世論からの反発を危惧し、国内でもA級戦犯の分祀論という考えが主張されている。高橋哲哉氏はこのA級戦犯議論に対して「最近の靖国議論自体がA級戦犯の問題のみに向けられている。」という見解を述べている。確かにその通りである。A級戦犯の合祀や別祀という問題にばかり目を向けているということはかの東京裁判で行われたようなA級戦犯にすべての責任を押し付けているということになってしまう。仮にA級戦犯を別祀すれば首相やその他の国会議員などが参拝していいかというとそうではないと考える。確かに先の東京裁判において天皇が裁かれることはなかったがこれは日本の天皇に対する忠誠心やアメリカが日本の戦後統治に対しての方針でそうなった訳で天皇に責任が全くないとは言えない。あくまでも大日本帝国下においては立憲君主制でありその頂点に君臨していたのが天皇であるのだからである。なので、今のA級戦犯合祀問題に日本を含む世界的なメディアの目が向けられていることはある意味では日本政府の策略の成功であると考えられるのではないか。
 なぜ、靖国神社は分祀や取り下げについて断るのか。高橋氏は靖国創建の時からの「一人残らず永遠に眠る」という思想からであるとしている。A級などの戦犯はもちろん植民地出身の死者や日本人の合祀者であろうと一切取り下げに応じないのは国のために戦死したと国家が認定したものについては「一人残らず永遠に眠る」とことにしているからである。その点から靖国神社は宗教法人として国家と分離された今でも祀っていることから遺族のための神社であるという認識よりは国家のための神社であるという認識で考えられる。なので、仮にこの考え方を遂行しているのであればA級戦犯にしろ他の日本人や植民地出身の人にしろ合祀の取り下げを認めることを一件でも認めたら立て続けに取り下げを認めざるえない結果を招くのでないかと考えられるからではないか。簡単に説明するならば戦犯から分祀を認めても他の合祀者からの分祀を認めても結果的に靖国神社の創建時の目的である「一人残らず永遠に眠る」という考え方を覆すことになる上に靖国神社の存在性まで議論の的になってしまう。よって取り下げとか分祀には一切応じない。悪く言えば一人一人の信教の自由より靖国の体裁を守るためになされていると考えられる。


4、第十一条問題と国内国際との二重構造

1952年4月28日に「サンフランシスコ対日平和条約」という条約を日本と連合国とのもとで調印し、発効した。日本はこの条約によって晴れて独立を回復するのだが靖国問題として関係するのはその中の第十一条である。和訳では「日本国は(略)連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し…」との条文である。石原藤雄氏はこの条文の和訳こそが問題の原点であり恣意的に拡大解釈していると主張している。11条で記載されているのは裁判を受諾するものではなく裁判の結果であると主張した。また昭和61年の国際法学会においても諸外国の学者が「第十一条は日本が東京裁判の正当性を認めなければならないと義務付けるものではない」と主張している共通の見解を利用した。またこの見解に対しては上坂冬子氏も同様の見解を示している。そもそも東京裁判の不当性についての指摘をし、未来永劫にわたって反論ができぬようなものにサインをした当時の日本国政府を批判している。この当時の日本は独立がなされてなく独立が最優先として行われた結果、このような後で問題が生じてしまう結果になってしまったとも考えられる。  またもう一つのものとして国内法の制定があげられる。戦犯の国内での扱いに関して、それまで極東国際軍事裁判などで戦犯とされた者は国内法上の受刑者と同等に扱われており、遺族年金や恩給の対象とされていなかったが、1952年(昭和27年)5月1日、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達され、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる事となった。これにより1952年(昭和27年)4月施行された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」も一部改正され、戦犯としての拘留逮捕者について「被拘禁者」として扱い、当該拘禁中に死亡した場合はその遺族に扶助料を支給する事になった。
 1952年6月9日「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、1952年12月9日「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」、1953年8月3日「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が可決された。そして「恩給改正法」では受刑者本人の恩給支給期間に拘禁期間を通算すると規定され、1955年には「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」がされた。そして国際的にも、サンフランシスコ講和条約第11条の手続きにもとづき関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は1956年に釈放された。その後1970年(昭和45年)に靖国神社の崇敬者総代会でA級戦犯の合祀が決定されたが、当時の宮司預かりとなり合祀はされていなかった。1978年(昭和53年)になって新宮司が就任、A級戦犯の受刑者を「昭和殉難者」と呼称し合祀を行った。また靖国神社は、東京裁判の有効性や侵略の事実を否定するなど、「A級戦犯は戦争犯罪者ではない」として名誉回復の方針を見解として打ち出しており、A級戦犯合祀問題の背景には、靖国神社などによる「A級戦犯は戦勝国による犠牲者」とする意見と、侵略戦争を認めた政府見解や国民への多大な犠牲などから「侵略・亡国戦争の責任者である」とする意見の対立があると思われる。
 この中でサンフランシスコ平和条約では過大解釈にしても東京軍事裁判の有効性を認識した一方で、国内ではいわゆる遺族法を改正し、戦犯者への保護の立場をとるダブルスタンダード構造が確立してしまった。


5、靖国神社に対する認識 石原氏は「首相の靖国参拝において近隣諸国による内政干渉である。」と主張する。内政干渉が日に日に強くなっている背景には一部の諸国による内政干渉の宣伝がなされていることであると言明し、国民が一致団結し、毅然として内政干渉を排除し、その上で国際親善に努めるべきとの見解をしめしている。しかし、一方ではA級戦犯が合祀されている神社に首相が参拝することは中国をはじめとする隣国の感情を逆なでしているのではないかとの見解をしめしている。実際に今日の国会でも同じ自民党で靖国神社参拝には賛成であるもの反対であるものさまざまな観点から論議されている。上坂氏は中国や韓国などが批判すること自体がおかしいとしている。中国においては中華民国が成立した当初の日本国首相による最初の靖国参拝時にはなにも言ってこず無関心であったのにたいして半世紀たった今頃になって糾弾することは常識のレベルで判断に苦しむとしている。また、A級戦犯の合祀についてや反日的な勢力の理解を得るための行為として行っているのであれば国家として国内世論に対する公正な解決策を見出すべきであくまで国内問題だとしている。また、自国の民衆が納得しないからといって問題を歴史認識問題と結びつけて外交上のカードとして出していくことは無茶であるとも記述している。さらに国際法律上の観点からもサンフランシスコ平和条約第25条においてこの条約に署名及び批准していない国には、この条約に関するいかなる権利も権限も与えないと明記している。この平和条約には二つの中国の代表という問題から中華人民共和国は連名しておらず韓国においても同様に連名していない。その結果何を根拠に韓国や中国は口を出しているのかまたそもそも平和条約の署名国でない以上発言すること自体おかしいことだとしている。日本政府に対しても批判を示し、25条において条約に署名も批准もしなかった国には「いかなる権利も権原(限)も与えない。」とし、さらにこれらの国々によって「減損され、害されるものではない。」とまで書かれているのに日本はなぜ、今になってまともに相手をするのかと批判している。

原文 対日平和条約二十五条

 この条約は適用上、連合国とは(中略)、当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする(中略)。ここに定義された連合国の一国でないいづれの国に対しても、いかなる権利・権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利・権原又は利益も、この条約のいかなる規定によっても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。

石原氏や上坂氏の意見について私はいささか反対の意見がある。特に上坂氏の意見については反対で、最初の日本国の首相による靖国参拝当初は中国は言いたくても言う状況ではなかったのではないか。米ソによる冷戦状態が進んであいるときに日本のことに目を向けていく余裕がなく現在に至ってしまったと考えられる。韓国も同様で朝鮮戦争によって国内が疲弊しており、韓国国内の治安もままならない中で他国に目を向ける余裕がなかったのだ。また、平和条約の締結においても米ソの冷戦による影響が大きく、どちらかに属するかまた米国・ソ連がそれぞれ相手の出方を伺った結果南北に分断された韓国や共産国となった中国は相手にされなかったとも考えられる。今、中国においても韓国においても比較的に国内が安定し、世界的にもアメリカ一極化という問題はあるものの冷戦は終了し比較的安定した政治がなされている。その中で今でこそ棚上げになった話し合いをしなければならないと考える。



6、靖国神社の国営化に対する危険なシナリオ 靖国神社を考えていく上で、昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を持っていたという「富田メモ」が日本経済新聞に載せられた。それによって小泉純一郎首相の靖国参拝を控えるべきとの考え方が広まっている。


(朝日新聞2006年7月25日朝刊)

ここで注目しなければならないのは「富田メモ」が記載発表されて大きく参拝に対しての反対派が多くなったことにある。これはメディアが天皇の言葉を掲げて参拝反対の考え方を広めていったことにある。靖国問題においてさまざまな意見があり特に注目しなければいけない点は政教分離の原則と信教の自由といった問題である。政教分離の原則がなぜ日本国憲法に定められたということを考えると靖国神社



第三章

 日本人の性格気質

1、日本人の精神的構造と靖国理論 「国民を民草、蒼生(あおひとぐさ)と呼び、国民が自らを草莽(そうもう)の臣と呼ぶような感覚は久しく日本人の体質の一部をなしている」と戸村政博氏は著書で述べている。実際日本国憲法が公布された当初一部の国民から天皇が君主から象徴という立場への役代わりについて日本国民の新たなる誓いを喚起するように述べていた。また終戦当初キリスト教団ですら「皇国日本」という言葉を以って再建を施している。(昭和20年8月28日)また、靖国神社法案第一条においてこれを発展させた思想、すなわち「国家に殉ずる」という言葉として説明された。靖国法案第一条を解釈するにつれわが国における<公私>観の原型が証明されたと戸村氏は指摘している。<公>とは国家関係であり、<私>とは血縁的、私人的、私情的関係のことであり、前者はつねに後者に優先され後者は進んで前者のために犠牲となる思想である。忠節を重んじそれに対する給付として合祀の形がとられた。大日本帝国時代まではその形が公然となされ終戦になり新生日本なった今でもこの形がとられているという現状がある。



1、日本人にとっての死の美学

 戸村氏は「日本的なもの」は死によって完成され美学としてなされるとしている。主従の関係や殉死の伝統は形や考えが違ってもこの国の風土としてとられるものである。例えば、古くは今でも人気のある忠臣蔵の最後のクライマックス(大石内蔵助以下47名が切腹)もそうであるし第三軍司令長官乃木希典大将の殉死も同じことである。また現代に至っては三島由紀夫の割腹自殺はその行為によって自分の主張や考えを示したともとることが可能であるともとれる。日本人の美的感覚である「もののあはれ」がこういった形でとられているのである。今21世紀においても切腹といった形でないにしろそういった文化は根付いている。ある大臣や他の人でもいいが汚職やそういったたぐいのことで辞職した時、世の人々はその人のことを「クビになった」という。また、少し前の自民党加藤紘一氏が森首相の不信任決議に賛成をするかどうかでもめたときでも「あなたが大将である」とか「刺し違える」といった言葉が飛び交っていた。要するに日本人にとって死によってしか完結しない独特の思想やある意味では儒教的な考えが仲間意識の中での儒教としてとられているという考え方ができる。また日本人の哲学意識としては生命に対してある意味では軽視している考え方がとられることも可能である。ただ、現代にとっては生というものを重んじる風潮があるのが世の条理である上に日本人のまたもうひとつの特徴である、「情け」をかけるという古来武士が持っていた思想を兼ね備えていることも忘れてはならない。

浅くも深くもさまざまな意味でいかに「死すべき」かということに日本人の進退などを決める基準であった。切腹の作法はその淳純化、徹底化である。「葉隠」で武士道というのは死ぬことと見附けたりという一節があるが切腹というある意味では「死」というものを直視し捉えていくことが日本人であり現代においても弛緩した形で一般化している。

 戦争責任という名において日本は誰がという主語を決めたがらない。戦争だけではなく他の責任という立場でもそうであるが日本においてはみんなで行い責任をとっていくという連帯が主流であった。東久邇宮稔彦総理大臣は総懺悔論を提唱し、戦争に対する責任は戦犯者だけがとるものではなく国民全体がとっていくものであるとの見解を示した。しかし、一方中国などではその様相が全く違う。1972年の日中国交正常化に際し、周恩来首相が対日戦争賠償請求の放棄と共に「日本国民も戦争被害者である」という国家指導者と国民を分ける区別論という考え方を言明した。この考えの違いにおいては両方共に一見の余地がある考え方であると認識する。日本という国家は島国国家であるため常に外敵から守る心配というものがあまりなかった。その中で比較的平和な考え方が浸透しており責任という観点は他国とは異なる。しかし、中国では歴史の経緯からわかるように常に外敵からの侵入に悩まされ、皇帝という責任者の下、政治的に常に統括がされてきた。その中で国家に一大事があるときは全く別の環境でも受け入れざる得なく責任という考えが浸透している。

 ここで問題となるのが天皇の存在である。ここが中国などと日本の大きな違いではあると思うが日本において天皇は正に全知全能、唯一絶対の存在であった。政治的にも精神的にも天皇が国民の中に浸透していた。確かに責任という考えからは天皇がすべての責任を背負うのが当たり前の判断である。しかし、天皇には戦争責任は問われず、今も日本国の象徴である。これは米国の冷戦戦略の一環とも考えられるし、または日本国民において天皇はいわば何者にも代えがたくもし、責任を問うようなことがあれば国そのものが根本的に覆ってしまうという判断からではないかと感じる。



2、日本人の中国観と中国人の日本観



 @、Aにおいて日本人の気質や性格について考察してきた。この編では日本人の中国観、そして中国人の日本観及び中国人の性格などについてふれながら考察していく。  国交回復後の高潮によって日本人は中国人に対して急速な親近感が湧き出した。しかし、90年代から日本人は中国に対して急速に好感度は下がってゆく。もちろん日本の対中感情の変化は、中国人の対日感情が変化したとも言えることでありその原因は両国メディアによる責任が大きいと金谷氏・林思雲氏は言っている。

 日本人は中国人をどう見ているかという点において毎年10月頃に内閣府大臣官房政府広報室が「外交に関する世論調査」という報告書を発表している。(表2、図1、2)



表2 中国に対する親近感



 中国に親しみを感じるか聞いたところ,「親しみを感じる」とする者の割合が32.4%(「親しみを感じる」6.5%+「どちらかというと親しみを感じる」25.9%),「親しみを感じない」とする者の割合が63.4%,(「どちらかというと親しみを感じない」33.2%+「親しみを感じない」30.2%)となっている。  前回の調査結果と比較して見ると,「親しみを感じる」(37.6%→32.4%)とする者の割合が低下し,「親しみを感じない」(58.2%→63.4%)とする者の割合が上昇している。 性別に見ると,「親しみを感じない」とする者の割合は男性で高くなっている。

図1

 年齢別に見ると,「親しみを感じる」とする者の割合は20歳代で,「親しみを感じない」とする者の割合は50歳代で,それぞれ高くなっている。



    現在の日本と中国との関係

 現在の日本と中国との関係は全体として良好だと思うか聞いたところ,「良好だと思う」とする者の割合が19.7%(「良好だと思う」1.8%+「まあ良好だと思う」17.9%),「良好だと思わない」とする者の割合が71.2%(「あまり良好だと思わない」42.1%+「良好だと思わない」29.0%)となっている。

図2

 前回の調査結果と比較して見ると,「良好だと思う」(28.1%→19.7%)とする者の割合が低下し,「良好だと思わない」(61.0%→71.2%)とする者の割合が上昇している。

 性別に見ると,「良好だと思わない」とする者の割合は男性で高くなっている。

 年齢別に見ると,「良好だと思う」とする者の割合は70歳以上で,「良好だと思わない」とする者の割合は20歳代から50歳代で,それぞれ高くなっている。



このデータから昭和63年の急激な降下として「天安門事件」、そして最近の変化としてはアジアカップであることが大きな要因であると考えられる。金谷氏はこのデータからの日本人の対中観が世代によって異なっていることを指摘している。2005年で20代の人々について1976年から1985年の生まれのでありこの世代の人は1989年の天安門事件もあまり知らない人である。物心がついたときにはすでに冷え込んだ日中関係であり近年のアジアカップなどの反日風潮の中国を見て中国は怖いところであると考え、また中国に対する嫌悪感も持つ結果になったのである。40代においては1972年の日中友好共同声明の段階から比べると今日の現状を良好だとは考えるのは難しくまた、中国の改革開放政策によって大躍進や文化大革命にたいする報道に接しているのでよい印象も持ちにくい。しかし、中国のことが明らかに嫌いであるとか友好関係の改善に反対しているのではないので今後の日中関係においてなにかきっかけがあれば国民同士の関係も改善するのではないかと考えられる。 (外務省が2006年3月29日に発表した「日中関係に対する意識調査」によれば日中関係は現在より改善すべきかという問いに対して対象となった20歳以上の人々男女2000人のうち77.9%が改善すべきというデータがある。)

 林氏も金谷氏と同じ意見であると著している。日本の軍国主義の復活をしきりに取り上げるのは中国と韓国である。他の国々の大部分は戦後の日本は平和国家になったと認識している。もっとも日本が軍国化した場合最も恐れなければならないのはアメリカである。しかし、そのアメリカはむしろ日本の軍国化を奨励しているばかりか軍事費の増額を要求している。中国の世論調査によれば、80%近くの中国人が日本には危険な軍国主義が存在していると考えている。これが今の主流の認識であるとしている。国際世論と中国の世論において日本に対する見解が違うのは中国国内のニュースメディアによるものが大きいとしている。大部分の日本人もそうであるが中国人も大部分において外国語が読めない。これらの人々のニュース源は唯一の中国語のメディアだけになってしまう。中国メディアのほとんどが日本の軍国主義国家との結論になる発表をしている。中国に蔓延している反日感情は主としてメディアの扇動によるものであると指摘している。

 また儒教国家や中国人の長所である「老獪」さがゆきすぎたものであるとも考えられる。小笠原氏は著書において中国人について批判的に解いている。「中国人のもっとも最悪な特徴は忍耐、無関心、老獪である。」これを今日の日中関係と照らし合わせると関係が限度まで行くと日本と軍国主義と批判するのであり(忍耐)、日本の靖国神社の存在意味も一方通行にしかみないため日本政府の日帝時代の軍国主義の奨励だと批判し(無関心)、老獪な人間つまり豊かな人生経験を持つ人の話を鵜呑みにし、今日の日中関係の悪化を助長している(老獪)とも言い換えられることができる。

しかし、もし小笠原氏が日中関係についてこのような見解であるならば私はこれは違うと考える。儒教を大事にする中国において忍耐を大事にするのが当然であるし、無関心についても現在の中国において経済発展が進む中、教育についても制度が確立している。老獪な人間を敬うことは当然であり、むしろ今日の日本はそれを敬う必要すらある。また、なにより儒教国家がゆえの仲間を大切にする気持ちや両親を敬っていく気持ちは見習わなければならない。そうした気持ちが希薄化している今日の日本の世論に大切なものである。  




第四章

考察結果と提言

戦前、保守リベラリズムの立場から植民地放棄など軍国主義批判を行った石橋湛山が敗戦後にまっさきに靖国神社の「廃止」を提言した。今日の日本の考え方からすると相容れない考え方である。なぜ「廃止」したほうがよいのか。石橋湛山は「靖国神社は言うまでもなく明治維新以来軍国主義の事に従い戦没せる英霊を主なる祭神とし、その祭典には従来陛下親しく参拝の礼を尽くさせ賜うほど、我が国にとっては大切な神社であった。併し、今や我が国は国民周知の如き状態に陥り、神社の祭典も、果して将来これまでの如く儀礼を尽して営み得るや如き否や、疑わざるに至った。殊に大東亜戦争の戦没将兵を永く護国の英雄として崇拝し、その武功を讃える事は我が国の国際的立場において許さざるべきや否や。のみならず大東亜戦争の戦没者中には、未だ靖国神社に祭られざる者が多数にある。之を今後従来の如くに一々調査して鄭重に祭るには、二年或は三年の日子を要し、年何回かの盛んな祭典を行わねばなるまいが、それは可能であろうか。啻に有形的のみではなく、亦精神的武装解除をなすべしと要求する連合国が、何とこれを見るのであろうか。万一にも連合国から干渉を受け、祭礼を中止しなければならぬが如き事態を発生したら、却って戦没者に屈辱を与え、国家の蒙る不面目と不利益は莫大であろう。」(注)と言っている。この提言は戦後の直後に発したものではあるが今日の状況となんら変わりはない。石橋湛山のこの提言は実に的を射たものであると考える。靖国神社は現在でも近代日本の志士たちの英霊を祀ると共に大東亜戦争で亡くなった人たちの武功を讃える神社の一面を持っている。しかし今日グローバル化が進んでいく中でアジア諸国特に隣国であり日本軍国主義の最大の被害国である朝鮮・中国とはどんどん緊密な関係が進んでいる。この状況において戦争の武功を讃えている神社を日本国の代表である首相が参拝することは戦争を肯定しているととられかねないといった危険性もある。またさらには国内法の制定により78年からA級戦犯の合祀も行われた。中国が日本と国交を樹立するにあたって中国の周恩来首相は先の戦争において日本国民が責任を負うのではなく当時の政府すなわちA級戦犯及び戦争を主導したものが責任者だと述べている。今日においてそのA級戦犯が合祀されている神社に参拝することは日本は時代を逆行し、また中国や韓国のテレビ報道で伝えられるような日本軍国主義の復活ともたとられるといった危険性もある。ただその一方で、お国のため「靖国で逢いましょう」を合言葉に亡くなった戦没者への追悼をする必要もある。すなわち第三章で考察した日本人の持つ「死」という概念に対する尊敬の念や君主(天皇)に従属的な日本人の性格が靖国神社と融合し、今日靖国神社に英霊が祀られている。そのために日本国の代表として参拝をすることは当然であるという見解もできる。

 また課題としてメディアによる問題も起きている。今日ではメディアの影響によって日中関係の改善には靖国問題の解決はなくてはならない、そして靖国問題とはA級戦犯が合祀されているということにのみ焦点があてられがちである。しかし、序章でも述べたが靖国問題はそんな簡単な問題ではない。日本人としての靖国神社に対する考え方は戦後60年を過ぎてなお変化をしている。日本人にとっての靖国神社、中国・朝鮮にとっての靖国神社はまた、さまざまな見方が可能である。

 しかし、戦後日本という国家の責務や被災国のことを考えると参拝は自粛しなければならないことだと考える。前述したが今日のグローバル化が進み、他国との関係が急速に接近している中で、時には私的感情を捨て、道徳的すなわち世論に合わせた行動が問われるのではないか。私はA級戦犯の合祀されている靖国神社には参拝反対であるが靖国神社そのものの国とのつながりは反対ではない。靖国神社は他の神社とは性格的に別格であると理解すると、国家の重要な施設としての靖国神社であると考える。国家という大きな存在に圧倒された戦前の日本のあり方を戦後に考えていく必要があったがどの国でも同じようにまず経済的余裕そして教育など精神的な余裕へと移るものである。その状況が今ではないかと考える。韓国や中国から過去の歴史認識・靖国問題についての提起がなされるのは両国も自国の国内情勢からある程度の方向性ができ余裕ができたということである。靖国問題はもちろんのこと賠償問題など棚上げされた問題を話し合って解決していくべきではないかと思う。

 小泉首相が退任し安部首相へと代わった。共同通信社が安部晋三首相の中韓歴訪後の10、11日に実施した全国緊急電話世論調査によると日中・日韓両首脳会談で歴史認識や靖国問題が議題となったことを受け、首相の靖国神社参拝には56,6%の人が反対している。(注)この結果からしても日本人のほぼ6割の人が靖国神社への参拝は反対している。現在、安部首相は靖国参拝において明言を控えている。平和国家としての日本や先の大戦のような衝突が二度と起こらないように努めていくべきでありまた東アジアの友好促進・国際情勢にあった判断をしていくことが日本の課題であり、靖国問題の解決の糸口ではないと考える。



<参考文献>
石原藤夫「靖国神社一問一答」(展転社 2002年)
小堀桂一郎「靖国神社と日本人」(PHP新書 1998年) 高橋哲哉「靖国問題」(ちくま新書532 2005年)pp.62-69 pp.80-83 pp.98-107 pp.227-228三浦朱門「靖国神社〜正しく理解するために」(海竜社 2005年)
岸田秀・三浦雅士「靖国問題の精神分析」(新書館 2005年)
8月23日夕刊 文化面 靖国問題を考えるhttp://www8.cao.go.jp/survey/h17/h17-gaikou/2-1.html内閣府官房政府広報室小笠原茂 「中国人とは何者か」(PHP研究所 2002年)
金谷譲・林思雲「続中国人と日本人のホンネの対話」(日中出版 2006年)
戸村政博「日本人と靖国問題」 (新教育出版社 1971年) pp.3-16 pp.41-71 pp.112-128依田新・築島謙三編「日本人の性格」(朝倉書店 1971年)
高橋哲哉・田中伸尚 「「靖国」という問題」((株)金曜日 2006年)pp4-5 pp.9-22 pp.28 pp.50-56
上坂冬子「戦争を知らない人のための靖国問題」(文春新書 2006年)pp.9-22 pp.111-122 pp.146-148
石橋湛山「東洋経済新報」の社論にて1945年10月13日号
2006年10月12日 中日新聞朝刊2面―共同通信社による世論調査



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