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3月1日「性差の科学」討論会記録1、討論の部

討論の部のまとめ

 東京から四国から名古屋からこの討論会に駆けつけて下さった方々は総勢25人にもなり、そのうちのかなりの割合の参加者は、何らかの形で大学での授業に女性問題を取り上げておられた。これは、この種の問題に、専門を問わず多くの女性研究者が深い関心を持っている事の表われである。これまでのうけたカルチャーの違いや研究スタイルの違い、あるいは言葉の理解が大幅に異なっている、異なった専門の研究者が集まって、これだけの議論ができる場をもったことは、大変有意義であった。その討論の中身も大変示唆に富んでおり、問題のありかや今後の検討課題がこの討論の中で浮かび上がってくる。しかしたった2時間あまりの議論では、お互いに理解するのにあまりにも足りなかった、というのが実感である。

 そこで、討論の様子を当日の討論に沿ってリアルに紹介し、かつそれを私なりの独断と偏見をおそれずまとめておくことにしたい。というのは、そこで、私がまず当日の討論の中で、もう少し立ち入って議論を展開しておく事が今後の方向を探るのに大変有効ではないかと思われるからである。おそらく、私がこれから展開する論にいろいろな反論や誤解があろうと思われる。むしろそうであることを期待している。そしてこれに反論したり、さらに説明を加える形で、またこのたよりの紙上やあるいは次の企画されるであろう討論会で発表があれば、それが更に新しい地平を切り開く糸口になるだろうからである。それほど内容の濃い議論が展開されたように思う。(以下、まず当日の討論の様子をテープをもとに編集したものを報告し、その後で司会者(坂東)としてのまとめと「性差の科学」共同研究代表、功刀由紀子氏のコメントを述べる。(文責 坂東)

(1)討論の部

(脚注:なお討論の部ではありませんが、コメンテーターの報告の後でなされた議論もこの討論の部と深い関連を持っているので、再現できる部分は一応この後の議論の中に入れ込みました。テープ記録が不十分であったので、坂東のメモを頼りに再構成してありますので、一部順序や内容に違いがあると思いますが、当日の討論の論点は殆ど再現できていると思います。この討論の部は、それぞれ確定できた部分は発言者に訂正加筆をお願いしました。但し、発言者がどなたかわからなかった部分は、記号で示してあります。これを読んで、心当たりの方はお知らせ下さい。)


坂東「性差の科学で提起した問題を、どういう風に攻めていったらいいか、またどういう点で補っていかねばならないか、そういう問題がすでにコメンテーターの問題提起と後の討論の中でもでてきましたが、これから討論の部に入ります。どなたかから口火を切っていただきたいと思います。」
 
[きわどい科学]
 
池内「えっと、学術会議で特別委員会に入っているということを坂東さんに言ったら、この『性差の科学』というのを紹介されて、書評を5分くらいで喋るんだと思って引き受けたんですが、こういう事になって、一所懸命に考えたんですが、まず、この本を読んでの感想は、対話集、半分以上対話集の部分になっていますね。実は、僕は対話はあまり好きじゃないんですね。頼まれてもあまり引き受けないんです。対話集の場合には、読者が読んだ時、ここもうちょっとつっこんだらいいのにな、ていう時に話が変わっちゃうんです。」
坂東「確かにそういううらみはありますね。でも今回のテーマのように結論がまだ出ていないので、いろいろな側面から議論が必要なときには、こういう討論形式は大変有効だと思うのですが。」
池内「ゆっくり考えるタイプの人間と話しながら考えるタイプと書きながら考えるタイプとありますね。ものすごい時間がかかるんだけどじっくり考えるタイプには、討論形式は苦手なんですね。対話の場合、話すタイプの人が必然的にリードしちゃっていくということがあってね、それが数が4,5人だと。これは何とかの法則というのにあるんだけど、『こうでしょうね。』と言われた時に『私はいや断固反対よ。』とはなかなか言えないんですね。『そうねえ。』と言いながら違う話に(笑)・・・。そういう所が多少あるんですよ。本当の所まで全部書けているかということですね。対話集の時に気をつけないといけないのはこの点をです。もう一つの感想は、性差の科学というのは実にきわどいなというのが僕の感想ですね。きわどいというのはまあ坂東さんとか登谷さんとかそうですが、我々特に物理の基礎研究をやっている人間にとっては、物事を非常に単純化して基本的なものに持っていって、話のできる部分で決着つけたいわけですね(笑)。そういう還元論というのがあるんですね。ところがこの性差の科学というのは、まさにそれとは正反対の複雑性の科学ですから、どこまで科学として議論できるかということです。我々は仮説をおいて法則性を導いて現象と比べてもう一回仮説に戻るというのが物理・化学の方向なんですが、これはなかなかそのフィードバックが効かない。仮説が間違っているのか、法則が間違っているのか、それはわからないです。で、色んなものが混じっている。で、これは実は地震の科学と同じくきわどい、・・というかなかなか決着した答えが出てこない科学で、我々物理屋はあまり好きじゃないですね。これは非常に正直な感想です。今、一つ学術会議の特別委員会等でも議論を始めてるんですが、いわゆるDNAで決まる則面、生物としての両性をSEXカテゴリーということにします。もう一つはジェンダーカテゴリー、文化的社会的要素で決まる色んなその性差です。つまり生物学的な種であるホモサピエンスとしてオスとメスという両性で生き残ることを選んだ。生き残り戦略としてね。この性差は当然あるというのは、僕ら自然科学者として当たり前じゃないか、つまり子供を産める性と産めない性と二つつくって、それこそが生物として戦略だったから、当然あると。これは自然科学をやっているものとしては、明確に押さえておきたいと思います。それはしかし、SEXカテゴリーの面からです。一方、ジェンダーという言葉を使う時は必ず社会的文化的要素が混ざってくるということですが、その社会的文化的なところは変化する。いずれにしても時間的なスケールとしては、SEXカテゴリーは非常に長い時間スケールで起こり、変化がゆっくりしていて、ジェンダーカテゴリーは非常に短い時間で文化的社会的な影響で変化する。そういう一種のカテゴリー論として分けておきましょう。こういうずるいところが(笑)あるんですよ。このオスとメスの性差は、戦略として選んだだけであって価値序列じゃないんですね。そこに価値をつけるべきではないんですね。むしろ二つそろわんと不完全というべきだと。それを戦略として選んだ。それをなぜ選んだか色んな議論があると思いますが、僕が気に入っているのは、遺伝子が傷を治す説があるんですが、互いに別々二本のモノをもってそれを混ぜて直すだろうというのが一つの考えです。我々物理屋には分かりやすいからという事だけなんですが。いずれにしても、そうすると性差の科学でやろうとしているのは、両性の違い・脳の問題、例えば空間感覚・空間知覚とか、脳の構造なり機能の側面、この辺はちょうどSEXカテゴリーの所からジェンダーカテゴリーの中間的領域で、明らかに文化的社会的な影響が入ってくるわけですね。この辺りを色々議論するのは限界があるな、あまりそこは答えが出ないでしょ、というのが僕の考えなんですね。色々な機能、女性性とか男性性といういわゆる『らしさ』を決めている行動とか能力という、脳とか心の部分は、性差の科学では答えが出ないというのが僕の正直なところで、いくら詰めても必ず文化的影響が入ってきますし、人間はとにかく無菌培養して実験できませんからね。答えは出ない。でるかもしれませんが・・・。脳とかそういう所は、限界を常におさえておかないと、ちゃうぞ、恐いぞという気がします。」
「今すぐ結論は出ないとしても、事実をしっかりつかんでいけばいつか可能なんじゃないでしょうか。」
池内「いや、性差の科学の限界はあると言ってるわけです。だから止めろと言うわけでなしに、その中でどれくらいDNAとかホルモンとかね、そういう生物学的なところに起因していっるものがあるといえるのか、まだ僕は疑問に思っている、ということです。生得的部分と、文化的に影響などを受けた獲得形質と、そこの切り口をね、それをこう永遠に二つに切り分けれられないんじゃなしに、だんだんだんだんその生物学的の側面としてここまでは言えます、これ以上は無理です、という風な限界を置きながらゆっくりやるという事じゃないかと思うんですね。」
坂東「じゃあ池内さんは、あまり軽はずみに結論を出すなということを強調されているだけで、主張は私たちと同じですね。」
 
[DNA決定論とブラックユーモア]
 
池内「それから先ほどからちょっとでていたのですが、現在あまりにもDNA決定論というか、現在のダーウィニズム、ネオダーウィニズムですが、はびこっていると思います。DNAは生物じゃないんです。情報を担っているだけ。生物の多様性というのは、DNAから数段階層構造をとっているわけです。細胞・器官とか色々な階層構造ですね。DNAはある種の指令を出すけれど、それ以降は機能分化して系統発生していく所の全てを握っているわけでは多分ないんですね。複雑系の科学のテーマに、蛋白質の自己組織化なんていうのがありましてね、情報を与えなくてもある種の組織化が起こる。蛋白質の反応性が自らの機能と形を決めていくという、そのものの内在的な法則が、蛋白質の、例えば表面構造とかそういうものが決めていく、自己組織化していくというのが典型的な例です。この前のプリオンというのがあるでしょ。狂牛病の場合。あれは、ちょっと蛋白質の分かれ方が変わる事によって、脳の機能そのものにえらく影響を与えたというね。それからそういうDNAから生物までの色んなステップがあって、そこには違う論理が色々と働いている。DNAで決まってない論理があるんだろうと。ここが生物の面白いところですね。最近僕は「奪われし未来」をよんだんですが、環境ホルモン、現在言われているのはDDTとかPCB、化粧品とか洗剤などあらゆる化学物質に含まれているのですが、その環境ホルモンの化学組成は、ホルモンとはまったく違う構造しているのに、反応はホルモンのように反応するらしいですね。例えば、特に男性の場合、環境ホルモンがY染色体に作用して精子生産能力が落ち、その数が半分になるというデータがあるようですが。どうも男のほうが脆い、女は性染色体を二つ持ってますから。そういう環境ホルモンの影響受けても男のほうが脆い。無論、女性も出るんですが、例えば流産しやすいとかいうのは環境ホルモンの影響があるんじゃないかといわれています。我々の体内では何千種の化学物質が入ってますから、そのどれがイタズラしているのか決めるのは非常に難しいのですが、この様にホルモンは、今言った体内の論理だけでなしに、化学的な、社会的な環境の影響を受けている側面があるぞというのがもう一つの指摘です。これも性差の科学として取り入れた方がいい、ということですね。三番目は、先ほどの性愛とかの接点の部分で、やはり生殖というのは議論しないといけない事だと思います。例えば、現代の生殖技術そのものは、本当に人間なり生命なり、あるいは男と女の関係においてどうなるのかと思います。これは、医学の側面でもう一つはクローンです。クローンを人間にもし適用すると、ブラックユーモアが書けます。二つのブラックユーモアが・・・。一つはもう男は嫌、女だけの世界ができるんですね。残念ながら現在の技術では、子宮、子供を産む機械ができない。これは人間にしかできない。」
赤松「本当はでもブタの子宮でもいいかもしれないですが・・・。」
池内「ブタの??・・・(笑)。」
赤松「例えば、ブタの子宮でも可能だという説があるって事を聞いたことがあります。」
池内「それはまだ無理だろうと思いますけど。言いたかったのは、女だけの世界は可能である。男は要らないと、逆にね。もう一つは男ばっかりのね、女性は子供を産む行為をなくして、そういうのは女性を加工していけばいいと、これはだからブラックユーモアになる。そういう社会を構成しようとすれば、別に人は人じゃなくて、非常に極端な所まで考えればそういう事もありうるじゃないかと。僕は、これはまさに男とか女がいる社会に影響を与えた時に、文化的にどうなのか、あるいは人間としてね。あと、われわれ自身の知的能力を含めたそういう物にどういう影響を与えるかということです。これは人文科学と自然科学の接点の課題で、色々議論できるんじゃないかなと思いました。」
 
[オスのデータですべてわかるか?]
 
池内「もう一つ言い忘れたのは、実はこの本、「男の脳、女の脳」は田中富久子さんというお医者さんが書かれたのですが、もう一つ読んどかないかんなあと思って(笑)読みました。これで印象に残ったのは、むしろ功刀さんの方がよくご存知なんでしょうけど、田中さんはラットに与える食べ物は、今まで堅いものを与えていたのですが、それをすりつぶして与えたら脳の発達はどうなるかいう実験を、あえてメスも使ってやってみたそうです。こういうラットの実験というのは普通全部オスを使うそうですね。メスは生理もあり個体差が大きいから普通は使わないらしい。はじめの一週間とか十日間ぐらいやってみたら、オスのラットは堅いのでも柔らかいのでも同じだったけど、メスのラットはすりつぶしたやつをやったら明らかに早く成長するということです。堅いのをやると時間がかかる。ところが、これまでの常識はね、ラットには堅いやつ上げればよろしいと思っていたらしい。つまり、オスのラットを使って得た今までの知見は、実はメスのラットにとっては潰した、粉末状の方がよかったと。そういうのを全然知らなかったって。彼女が現実にやってちゃんと対照実験をやった結果ですから信用できると思いますけど。そうするとね、現在我々がやってる実験はオスのラットの結果であって、メスのラットには同じように適用できるかどうかわからない。かつ、ラットの実験は人間に適用できるかはもっとわからない。それを人間に適用しようとする事は、オスのラットと人間のメスという一番距離の遠いところにまで適用して議論しているわけで、これでいいのかと思うんですね。それはこの本の中で具体的に、田中さんの実験結果として出されたのはおもしろいなと。今の科学、我々自然科学はね、そういうバイアスに影響されない唯一の真理を追求してるつもりなんだけど、このような場合があるんですね。」
坂東「そのことはこの本の中でも功刀さんが指摘されています。それに東大でも初期の段階でラットに毒を与えて、どれくらい耐性が(あるか)調べたら、初めはメスの方がよく死んでたけど、結局最後まで残ったのはメスだった(笑)。それではじめてオスとメスの違いと気がついたという報告を聞きました。そういうことに気がついたことはいっぱいあるんだけど、本当に研究としてきちっとやったかというと、そうではないんですね。そこで終わっていて、性差の科学まで発展させられていないんです。」
 
[優生学と性差の問題]
 
板井「いくつかの医療系の大学と看護学校で、医療倫理・生命倫理を非常勤で担当している板井と申します。坂東先生からこういう会があると言って頂きました。私、1968年生まれですので、シュルロの「女性とはなにか」という本を直接読んでいない世代ということになります。まずせっかくですからこの本の感想を。私も所属は文学部、哲学出の人間ですので、こういう言い方はあんまり良くないと思うんですが、文系ということになります。坂東先生も本の中でお書きになったと思うんですが、僕もあんまりフェミニズム論を議論するのは好きではなかったんです。というのは、率直に申しまして、コワイんですね。多分こういう言い方は偏見だと思うんですが、それまでウーマンリブの流れを汲むフェミニズム論というのは、激しく攻撃的というイメージだったんです。ところが、この本の基本的なスタンスとして、いわゆるウーマンリブ運動がもっているような怨念めいた恨みつらみがないんですね。むしろ、事実なら事実として生物学的な知見に基づいて議論を進めていこうというのが、私のようなシュルロを知らない世代にとっては新鮮だったんですね。特にこの本の中でこれは輝いているなと思わせて頂いたのが、121ページで長谷川先生が討論のまとめで、「『であること』の認識と、『であるべきこと』の決断」というのをお書きになっていますね。倫理学の世界では、ムーアという倫理学者が20世紀の初頭に、「自然主義的誤謬」という言い方で、「事実判断から価値判断を導きだすことは誤りである」といったことがあるんです。ナチュラリスティックファラシイ(naturalistic fallacy)という英語でいっているのですが、確かに事実からそのまま価値を導き出すのは大変な誤りですね。例えば、男であるということから男らしさという価値判断を単純に導き出したり、あるいは、女であるということから女らしさということを導き出すということは、大変危険であるのは確かだと思うんですね。しかし価値判断は、時にはそうはいっても科学的事実に左右されるという点がありますので、この問題はまさに先ほど筧先生がおっしゃったように人文科学(この人文科学という言い方も実は問題ではなかろうかと思うのですが)・自然科学との接点を考える時に、価値判断と事実判断の関係をどう考えるのかということが一つのポイントになるんじゃないかと思います。これに関連してもう1つ、こうした生物学的知見と社会的・文化的コンテクストとの関係を語る際には、優生学の問題を無視しては語れないと思うんです。その意味では、優生学の歴史は参考になるのではないでしょうか。優生学というと、あのナチスと結びついた歴史も踏まえながら、自然科学的な知識が我々の文化的・社会的側面に与えるインパクトをどう判断していくのかということが、今もう一度問われ直しているんだろうと思います。クローンの問題もそうだと思います。自然科学の技術問題に倫理観や道徳感が追いついていない状況の中で、やはり科学的事実は無視できないのですから、事実判断から価値判断をしては「いけない」と単純に切り離してしまうのではなく、どういった価値判断を「導き出す」のかという視点で考えなくてはいけないのではないかと思っています。そういった点から考えますと、「性差の科学」が今改めてこういう形で出版されたというのは、生命倫理や医療倫理の問題と絡めて性差の問題をこういう視点で考えるというのは、大変意義深いことだと私は思います。もう一点は、先ほど池内先生の話の中で「性差の問題は突き詰めると、子供を産む性と産めない性の問題」だというお考えを述べられたと思うんですけど、これはなかなか面白い視点だなと思いながら聞いていたんです。で、先ほどブラックユーモアになるという話で、男性だけの社会、あるいは女性だけの社会というのを描けるとおっしゃいましたが、実は既に1932年にハックスレーというSF作家が『すばらしき新世界』という小説を書いています。その小説の中で、人工孵化研究所という人間の誕生をコントロールするセンターが未来のロンドンに設置されていて、すべての人間の生殖というのは、その人工孵化研究所の中で行われるんです。その社会がなぜ『すばらしき新世界』といわれるかというと、不幸という概念が無いからなのです。なぜ不幸という概念が無いかというと、遺伝子操作によって『かなしい』とか『つらい』と感じる能力や、なぜ自分がこの職業についているかということを自分で考える能力を失わされているんです。単純労働に携わる人間はクローンですべて生産されるわけです。そして、この社会でもっとも忌み嫌われるのは、先ほど池内先生がおっしゃったような「性交渉による生殖」なんですね。それから、親子の愛情とかいうのはとんでもない野蛮な事ということになります。で、この物語の主人公というのが、人工孵化研究所の操作ミスで、「自分で考える能力」をもって生まれてしまった人物と、もう一人は、密かにある愛情を持った2人の性交渉で産まれてしまった「野蛮人」と呼ばれる2人の主人公が展開する物語なんですけど、最後は悲劇的な結末で終わるんです。その物語、1932年の時点で書かれておりました。で、結局この「すばらしき社会」では、無性生殖が良い性のあり方だっていうわけです。性差の問題を考えるということは、こうした社会的価値規範の問題にもつながってくると思います。」
坂東「最初提起された問題は、ジェンダー論に対する見方と関係していますね。私も西川さんにもいわれたのですが、ジェンダー論といっても多様で、怨念から出発しているとばかりはいえないようです。2番目の問題は、現代科学の成果、生殖問題と生殖技術のハイテク化が、女性の特性に対する知見を変えるかもしれない、ということですね。もう一つは、DNA万能論の持つ危険な側面を、優生学の歴史からの教訓に学びながら検討されたのですね。これはちょっと重い問題ですが、女性問題を考えるのに避けて通れない論点だと思います。まず、先ほどのジェンダー論、フェミニズム論の見方に非常に不服な点といいますか、通じてないなと思ってるようなことを率直に出していただくことから始めてみましょうか。西川さんあたりからどうですか。」
西川「フェミニズム論・ジェンダー論の範囲は広く、そのなかでも論争を繰り返しながら進んできました。例えば産む産まないの自己決定権の問題を考えても、産む・産まないの権利を決める女の権利を強調していた時から、その運動が例えば障害を持っている人の運動と対立する10何年前の場面を経て、そこから、やっぱり産む・産まないを自己決定するその時の「自己」は単なる個人ではない、社会関係の中にいる個人なのだということが議論されています。自己決定権を引き受けるばかりに、責任も引き受けるていう身動きがとれな・・・」
坂東「女性の側が?」
西川「そうそう、例えば、その様な問題をこの本の議論とかみ合わせるのはなかなか大変です。身体論についてもいろいろ新しい議論が出てきています。途中の経過も含めて、その歴史を知っていただきたいのです。」
坂東「あの、私も1つ読んでみたんですけど、ああいうのを読むと、やっぱり自然科学・社会科学の話に戻りますけども、もうちょっと勉強してくれてもという感じはありますね。例えば、脂肪の一部から胎児の段階まで、どこで線を引くかといった議論が長々してあるんですけれど、生物として、どういうプロセスがあってどういう段階があるかということをおさえてから、議論を始めてほしいなと思ってしまいした。単に心情的なことだけでなく、もうちょっと現代科学の成果を考慮して論じてほしいような気がしました。この問題はまた別の機会に論じるとして、生殖の問題のことにもどりましょうか?」
西川「この本では、あった事は証拠があるじゃないかってわかるわけですけど、やってないこと、例えば、私やってませーんていう事を証拠だてるのは難しいですね。ない事の証明書ってかけないでしょう? 科学にもまだ分かっていないことがたくさんあるのではないかしら。」
坂東「やってない事はやってない、たとえば生殖関係の話は確かにこの本では欠けています。考えてみたら、これこそこれから大変なパラダイムチェンジを引き起こすであろう重大な問題なのですが。」
 
[科学的とはどういうことか]
 
西川「科学ではとらえられないことの大海の中で、わかった事がちょっとあるのだと思います。あったこと、わかったことというのはいつも科学的だと判断されます。このとき真実という名前を使われるんですけども、その科学的客観的真実というのは、今の時点では間違っているとしても、18世紀には客観的・科学的事実として通ったわけなんですね。その科学史というのは、その客観的・科学的事実というものがいかに変化するかを示しているのではないかなあ。で、それは受け入れたら崩れるものじゃなくて、そういう大海の中で今一般性の中で言われたここまではわかっている、という認識なんですけど、ところがしばしばそれは逆転して、分かっている一部の事が力を持つわけですね。例えば女性は劣っている性だというのは、ある時には科学的・客観的に事実だとして語られた時代はあるんです。」
坂東「それはほんとうには科学的じゃないですね。」
西川「でも、その当時はそうなんです。当時は科学的だったんですよ。」
坂東「いや、そんなことない。科学的という言葉で語られたというだけでまだ確立した話ではなかったわけでしょう?」
西川「いや、そんなことあるのよ。」
「それはありますよ。学校教育の場で、例えば心理学の実験したら男女の差がこんな風に出てきたという説明でデータを見せられたら、それは科学的証拠という決定的重みで私達の脳にはインプットされる、そういうことはいくらでもあったのだから。」
坂東「それは俗流科学的といったほうがいいのではないですか?」
「それはとれないですよ。それがその時には科学的根拠だといわれるのですから。」
中道「坂東さん、だから時代とか社会とかに科学的事実が左右されるって先ほど西川さんが口にされてたのは、そういう意味なんですよ。正に。時代とか、社会とかいうのをすごく気にされたましたよね。」
西川「この本の中で一行いただくとしたら、『であることとであるべきことの決断』ですね。この瞬間『であること』の認識がここまでであるとしても、あるべきことの選択は、それでもしなくてはならないと思うのです。」
中道「ちょっと補ってよろしいか? 愛媛大学で私は農村の女性の問題を講義しています。多分こういうことじゃないかと思うのは、科学的に今坂東さん達が今ここでおっしゃったのは、例えば、女の脳でも男の脳でもいいんですけれども、脳にこういう差があるよという事実が実際あったとして、その事実が提示された時に、それを今度は次の何かに使う時にその事実をどのように判断するかとか、そこに価値とか色んなものが入ってくるわけですね。それは、その時代であるとか社会とかがそれをどういう風に理解するかということと関わってくる、そこの所が気になるのじゃないんでしょうか。」
西川「あの、気になるっていうか。」
坂東「長谷川真理子先生がいわれたように、価値判断と事実認識とは違うわけですよね。でも、それと、科学的事実として確立した法則の存在、いわば客観的な判断と混同してはいけないと思います。真理の基準が人によって違うというような誤解につながりますから。」
西川「ちょっと違うけどね、多分。」
中道「理解する時に、実際にあった事実を理解する自分も、実はその時代でその社会の人間なんだということなんです。そこがすごく重要で、例えば坂東さんがいくら私は違っている、絶対科学者としてとして中立だと言っても、今の社会の価値とか、全てが全部入った中の自分であって、そして、そういう意味では個体差ていうのがでてくる。その坂東さんしかできない理解、つまり坂東さんの考え方が反映されたところで実は科学も実験されているのではないでしょうか。」
西川「私の理解はもう少し両義的なんだと思うんで、さっきおっしゃった複雑性というコンセプトと関連すると思いますが、社会科学が例えば資料というものはなぜ、どういう位置づけをしなきゃいけないのか。その資料を見る自分はとか、何かそういうことを考えなきゃいけないところにきています。これはこの10年くらいの本当に社会科学のすごく大事なゆらぎなんですね。私は自然科学の方にもそれが出てきているんるんじゃないかな、と理解してんですが、その先を知りたいな。」
坂東「まだわからない問題には、しばしば社会的政治的な影響を受けてバイアスがかかり、判断を誤ることがあることは認めます。しかし、はっきりみんなが共有できる科学的事実や法則と、よくいわれる複雑系のようにまだ仮説の段階のそれとは区別しないといけないといっているのです。」
西川「例えばね、淘汰は目的があるってのが今までの19世紀的な進化論の発想だけれども、今は必ずしもそうじゃない。長谷川さんが「 」にいれてらっしゃる意味は、歴史的状況の中での選択ていうのが入っているのではないかなあ、と私は理解したのですが。」
池内「進化論自身は色んな考えがあり、まだその構造までわかっていませんが、基本的に偶然環境の変化に最も適用出来た者だけが生き残るといっているだけです。だから別に高等な者が残った訳ではない。」
坂東「進化の解釈として『結果的に生き残った』という見方が出てきたのは、木村資生氏の中立説以後、最近だと思いますが有力な説ですね。」
池内「進化の考え方で、恐らくそういう考え方も1930年頃から確立したんですね。それまでは確かに俗流進化論で社会的にも政治的にも、まあ、色んなので通用されましたけど、要するに優秀な者が生き残るべきであるといった優生学の考え方になっていったのではないですか。」
西川「その俗流進化論も、ある時点では科学として、科学的ディスコースとしてまかり通っていたわけでしょう?」
坂東「科学全部をトータルにそういう風に判断するのはいきすぎだと思います。まだ科学の法則として確立していないのに、あやまって普及されていることが多いという事は認めますが。でも、誰が見ても検証済みで確立している部分もあるし、いいかげんな部分もあるわけです。いいかげんな部分だけみて、科学法則全体をそういう風にすべて相対的に捉えるのは誤解だと思います。こういう誤った科学の普及が今まで多かったことは事実なんですけど。」
西川「逆に言うと、科学的客観性のもつ圧力みたいなものもあるんですよ。それに、それも感じて欲しいていうか。」
坂東「そういういいかげんな括弧付き科学的事実がまことしやかに語られる事が多いので、ここではむしろ、赤松先生などもよくいっておられますが、できるだけそういうことに対して批判してきたつもりなんですけど。」
 
[心理学と性差]
 
竹内「心理学の話が出てきたもんですから、ちょっとコメントします。心理学の専攻で、愛教大で教えています。今日来させてもらったのは、空間認識の性差に若干関心があって。空間認知能力の調査では、ある部分では性差が出るんですね。ただ、色々検討してみると、かつて出てきた結果がなくなったりする経年変化がある。普通の社会文化的な状況の変化が差を縮めているんだろうとも思うんですが。で現在、しかし、メンタルローテーションテスト、心理でよく使われるテストですが、このテストで出てくる一貫した性差はいったい何なのだろうとずっと喉に突っかかっている感じでいたのです。ちょっと前に実はこの会で、空間認知能力の性差は生得的かどうかという話をさせてもらったことがあって、そのときは基本的にほとんど性差は無いんだというスタンスでしゃべったんですね。」
坂東「それで考え方が変わったんですか(笑)。何年前ですか。」
竹内「6年くらいまえだと思います。それから徐々に観点が変わって、性差が出てくる場合もあるのかなともやもやしてて、今回これを読ませていただいて、すっきりした感じがあるんですね。あるものはあるものとして認めた方がよいというそこの所はあとで心におちたというか、胸に響いたんです。ただ、で、いいのかなというところがもう一回自分の中で呼び戻した部分で、つまり、空間能力とか数的能力とか色んなものを敢えて取り上げている部分がありやしないかと。つまり、その科学的、あるいは理数科的問題解法能力に、空間認知能力は影響はしてそうだ。少なくとも相関関係ではあるんですね。はっきり相関関係としてはあるんで、因果関係としてはあるのかどうかはわかりませんが。」
坂東「相関関係があるということが、そのまま因果関係があると言うことにはならず、どちらかが原因でどちらかが結果である場合もあるし、あるいは別の原因で相関関係が出てきたのかもしれませんからね。」
竹内「ええ、で、相関関係がある。そこまではいいんだ。しかし、そういものを特に理数系で進路を取る人間が圧倒的に多いという現状の中で言った時に、敢えて性差を取り上げて、『あるよ』という客観的事実だけポンと投げ出すことが今の社会に与える影響というのはどうなんだろうと思うんですね。だから、科学が持っているものの意味というのは、客観的事実を明らかにするという、そこが大事という核心の部分だと思うんだけど、例えば、何をとりあげるのかとか、それをいかに取り上げるかと言うようなところには価値観が入ってこざるを得ないものだろうと思います。その能力ということに関して、性差に関してそうですが、人種差とかもまで含めて、心理学なんかは悪行の限りをつくしてきたと言ってもいいかもしれない(笑)。20数年前、アメリカのジュンセンという研究者がちゃんとした学会とかで、黒人・白人でIQの差が15もある、これは標準偏差値にほぼ等しい、それゆえ、これは生得的な差だという主張をした。とんでもない、実はなんの根拠もない議論なんだけども、個々の事実としては実際にあることを積み重ねているという問題がある。だから、こういう形で客観的事実としてあるけど、そこをどう提示するかという所でよく考えないといけない。しかし人間には、結論だけ言われて、たとえば、男と女は違うよって言われたら、あっ、そうだねと思っちゃうところがある。それから、これが原因じゃなくて、「環境の影響」と言っているけど、原因、結果だと思ってしまう。あるいは還元論として見てしまう。空間的な能力に性差があるということも、脳に傾向性の差がだとかがある程度あるかもしれないけど、ひょっとしたらそれは社会化の過程の中で、そういう事に引っ掛かり易い様な行動系統とつながって、それがまた間接的に関わって関係しているだけの関係かもしれないと。そこの所を勘違いすることもあるよ、ということだって言わなきゃならないと思う。以上、感想だけですが。」
池内「いや、さっき言われた坂東さんのこのスタンスでね、僕はかなりネガティブにものを言ったでしょう。それはおっしゃるように、ああいうのはまず俺は信用せんていうのがあるわけです。多様な側面があるだろうと。」
坂東「確かに相関関係があるからといって、すぐ因果関係とはいえないと思います。しかし、そこをつめて本当に因果関係があるかどうかを調べる方法はあるわけですから、それがはっきりしたら、本当に因果関係があり、法則がはっきりするんだと思うんですが。そこをきちんときりわけるだけの力量がいるんじゃないでしょうか。そうしないとだまされてしまうわけでしょう?」
池内「言語能力といったって、喋る能力、書く能力、言葉として表現する能力、色んな能力、があり、言語能力といっても多様でしょ。だから、その中のどれをどのように調べたかということで差をつけても意味ないんじゃないかなと、いうのが正直なところなんですよ。だから、あまり強調するのは僕はちょっとヤバイなというのは、そういうことなんですよね。」
 
[科学的事実とその評価]
 
坂東「ある一部のデータや資料だけで科学的事実であるかのようにに使われるのは困る、これはみんなの一致しているところですね。」
中道「使われるんじゃなくて、実はその、実際に出てきた結果をどういう風に見せるかっていう時に、そういう言葉で表現していくわけですね。言葉というのはその時代とか、その社会とかが反映されていて、そこで使われる形に表現するしかないところも多いのだけど、どういう風な事実をどういう風に見せるかっていうのがすごく大事です。私もすごく問題だなと思っているのは、因果関係が全然わかってないということですよね。関係だけが今のところ分かっている、例えば、相関関係だけが分かっているんだけれど、その相関があたかも男性であるとか女性であるとかいう、自然の性によって生じてきたような結果であるような、つまり、因果関係のようにみせられてしまうっていうかがね。」
坂東「そんなことにだまされないぐらいの勉強はしないといけないんじゃないかな。いいですか。データを見せられて、『ほらね、男と女と違うでしょ、だから生得的な性差があるでしょ』って言われた時に、『そのデータだけでは、そんなこと言えないじゃないですか』ってぐらいの反論が出なくてはだめですねっていいたいのです。」
中道「でも、そのデータがおかしいじゃないですかって言う為には、先ほどからみんなが言ってるように、そういう調査というか実行というか、もっとその詳細な実験をしないといけないじゃないか。つまり、男性であるとか女性であるとか以外にも、たとえば白人と黒人の問題で見られた地域性とか色んな要素を加味した調査が必要になるではないですか。あやまった結論を当たり前みたいに言われるのは、実際は詳細なデータが欠けているからと私は思ってるんです。」
坂東「でも、『相関関係から即座に因果関係と断定するのはおかしい』ぐらいは言わないと。私たちは、このことは統計学では良く知られた事実で私も大学の授業では教えていますが。この本の中で、そういう誤った事例をあげて、その誤りを具体的に分かる範囲では言及したつもりなんですけどね。あやまった議論をこの本で展開しているってことですか?」
中道「いや、この本というわけではなく、社会全体がこういうあやまりを科学的と称して、よく展開しているってことです。」
坂東「確かにそうかもしれません。それでこの本では、できるだけそういう問題を正確に見るように、努力したつもりです。脳の問題にしても今までいかにでたらめな議論が横行していたかを明らかにしたつもりです。特に脳の問題では、功刀先生もいろいろ調べて下さって、今まで当たり前のように言われていることでも、もう一度きちんと捉え直さないといけないねってそういう問題提起をしたつもりなんです。もちろん性差がどこまであるのかという事を押さえる事から始めているわけですが。むしろ、これからどう検討していかねばならないか、議論をどう発展さしていったらいいか、それを呼びかけた本なのです。逆にあるならあったで、客観的に差があるんならですよ、今までの教育の在り方はこれでよかったんかいう問題もでてくる、と私は思っています。例えば、女の子には、こういう風にしたら、もっと数学もよくわかったのに、男の子を対象とした教え方しか今まで検討されていないかも知れないではないですか。色々考えてみようではないですかといっているのです。答えを出したわけではりません。」
H(?)「ただ、その場合にね、男の子なら女の子なら、て言われる中に自分も入ってしまうのかなていうのは、少しやっぱり残るんですよね。つまり平均値ていうか。」
坂東「平均値だけでものをいっているわけではありません、赤松先生が『個性は性差を越える』となんべんもあのなかで強調されてますでしょう?」
H(?)「個体差はあるんでしょう?」
坂東「ええ、もちろんです。生物の特徴は、どれを見ても2度と同じ物はないという事です。そのなかで、しかし、やはり種という仲間でくくれる同種の生物集団があって、異種間の差は、同種内での個体差を無視できるほど大きいのが普通ですね。オスメスというのは種を同じくするが、しかし外見上も機能も、どこか違いがある2つの集団ですよね。例えばね、ラットの話がでてきましたが、メスの実験は今までなかった、ということもあるんです。スポーツのトレーニングの話を聞いてびっくりしたのですが、実は女性のデータはほとんどとってないんだそうです。女性の場合はとりにくいらしいんですね。ということは、今のトレーニングのやり方は、男性用のデータかを基にしているわけで、それを当たり前のように女性にも適用しているらしいんです。もし身体的な性差がある、或いは更に脳の認識の仕方に違いがあるってことになったら、それに応じた訓練や教育方法がでてきてもおかしくはないと思いますね。」
竹内「その場合に個性の差をどこまで考慮できるか、つまり、」
坂東「いえ。ここでは、今までは個性というのは、男性に偏った個性にウエイトをおいていたかもしれないだろうといっているのです。性差も一種の個性の表われですからね。」
池内「そのデータを集めて、そこまでやるというのは僕はわかるんですが、それで男には男、女には女の子のやり方いうのは・・・。いや、そこまで考えるのなら評価します。」
坂東「竹内さんは、多分、そういう事も含めて教育論としてやりたいとおっしゃったのではないかと思います。」
 
[脳のどの段階で性差があるのか]
 
池上「ちょっとその時に気になることがあるのですが、先ほど池内さんの方から脳と心ということが出たのですが、脳というものも非常に重要な大脳皮質もあれば、間脳の部分もある、ということで、この本の中でも脳のどの部分が男性化したとか、細かく書かれてないので、脳の男性化と先ほどから話を聞いてても、脳の男性化というのは、みんな脳のどの部分を考えてられるのかと不思議に思ってたんです。こういう場合にもやっぱり脳のどの部分かをはっきりさせてほしいと思います。私も性ホルモンによって脳が男性化しているのか気になってるので、色々読んでみますと、いわゆる性的な行動に対する脳の男性化がすごく進んでいるというような形で、非常に細かく指摘されていたのもあるし、非常に大まかに書かれている場合もあり、この本の中でも、細かくどの部分が男性化されているかというような事が幾つか指摘されてます。これから議論される時にも、どの部分が、という所まではっきりしないと、例えば、脳の機能といっても心というのは脳の機能だと思ってますけど、脳というのは階層的で、先ほどおっしゃった空間認知というのは脳の一体、どの部分で担っているのかと、もしわかってる場合には、どの部分かおっしゃってほしいですね。少なくとも脳の機能というのは3つに大きく分かれてますから、それに対応する機能をさすと思うんですけど、だから教育する時も脳のどの部分を教育するのか、体育と自然科学とか人文科学では違ってくると思いますが、そういう意味で、みなさん、それぞれ頭の中で脳のどの部分を思い浮かべられているのかなど思ってしまいます。もしわかっている場合には、脳の部分をいってくださるようにお願いします。それで質問なんですけど、空間認知能力というのは脳のどの部分が担っているのですか。」
竹内「一般的にいえば、空間認識といっても脳全体だと思うんですけど、問題によって使い方がかなり違っているとか言われています。といっても、女性は、左右の脳どちらかっていうと左脳を使う傾向があって、男性は右脳を使う傾向があるという話がある。実際ここでも引用されている、確か164ページ、そういうのは言われてはいるけど、本当のところまだまだわかっていないことの方が多いのではないでしょうか。」
坂東「ここは差があるかないかという問題じゃなく、どこの部分がどうなっているかいう、もうちょっと正確に言わないといけないということですね。」
池上「できるだけ、という事で。」
L(?)「文系と理系の接点という事で具体的に質問があるんですが、生殖と性欲という話で、男から女に対する性欲という傾向があるとよくいわれますが、このことと男が買春する事が多いというような、そういう状況までつながっているのでしょうか。」
宇野「そこまで持っていっていいのかな。」
L(?)「持っていってはいけないという議論もあるんですか? これを読んでいる限りでは、攻撃手順が子供に対する虐待というものと同じ、つまり単に一般的な攻撃性というのと、男からの攻撃から社会の中で現れる攻撃性まで、いろいろなレベルがありますね。私が間違って読んでいるのかもしれませんが、性差のこんなところまでテストステロンで決まっているのかどうか、そこを理解できなかったので・・・。」
坂東「実はね、そこの部分、あんまり長谷川真理子先生と私たちとは意見が別れたところです。それは、本の討論の部分で議論しているので、お分かりだと思います。池内さんはさっき討論形式の欠点をあげられましたが、そういう意見が分かれたまま問題をオープンにできるところが長所でもあります。例えば、色々なデータを挙げて、男が男を攻撃するのは多いけど女は人を殺したりしないとか、男でもテストステロン値が高い20歳前後で犯罪が多いとか、長谷川先生は主張されました。それはどこまでテストステロンが決めてるのかとひつこく質問したものです。」
功刀「だから、池内先生が『そうですね』て言って別の話題に移しているのは確かにそうですけど、実際にはそれ以上の突っ込んだ議論をやったんですけど、本当の事書き出したらこの1冊全部使っても足りないですから・・・。」
坂東「でも両方の意見があるという事は、わかるように書いてあるますよね。」
功刀「ええ。むしろちゃんと読んで頂いたなら、かなり意見が食い違ってるな、というのはよくわかるように書いたつもりなんですが。実際そういう感想も寄せられています。だから討論ていうのは、元々最初からある方向性へ持っていこうということで、なあなあでやっている事が多いけれど、この本読んだらいったいどっちなんだといわれていますよ・・・(笑)」
 
[性差にも階層性がある]
 
N(?)「男女差の問題は、グラデーションで考えるべきだっていうのも、面白いですね。生物学的性差の方が意外にグラデーションで、社会とか文学とかってなると、どっちかしかない、という主張が多いのでしょうか。ジェンダーっていうのは、社会学的な性差だと言う時、それ以前に、生物学的に正確な分類ができるという前提があるような気がしていたのですが、それは間違いなんでしょうか・・・。」
宇野「生物として言う時は、個人とか人種とかそういった中間的な分類もありますね。例えば、種によってその差がはっきりしてない、はっきりしない場合もあるし、ヒトと、例えばサル・ゴリラ、例えばチンパンジーなんかとか、チンパンジー同士でも普通の並チンパンジーと、ピグミーチンパンジーではだいぶそれぞれ違うわけです。その辺は便宜上分類したオスとメスといってる時と、だいぶ違う事もあるんじゃないかなと思うんですよね。」
坂東「動物だって多様です。一生の間に何度か性転換するのもあれば、環境が変わるとオスが出現するといったものまで、色々あるわけですね。」
宇野「状況によって魚あたりは、性転換ていうのはありますけどね。」
O(?)「一つだけこれ、すっごく馬鹿な話なんですけど、前から疑問に思っているんですけど、生物学的に男と女で、オスかメスかしか実際にはないんですか。」
坂東「馬鹿な質問ではなくて、性的に二型がほとんどであるのは、本当は説明を要する問題なのです。多少理屈は考えられていますがまだ仮説の段階です。例えば、ゾウリムシなんて(笑)・・・」
O(?)「人間にはそれが適用できないものなのかていう・・・。」
坂東「何を適用するの。ゾウリムシを?(笑)」
O(?)「いや、ゾウリムシ的な考え方っていってもいいんですけど。オスとメスしかないという考え方で、実験とかすべてやるのかな、って、そこの所なんです。オスメスという分類で片づけて全てやってるんかなあって。」
宇野「高等な生物になると、例えばマウスは性的二型が分化してはっきりしています。その辺はそう分けてしまう方が、はっきりするからそうやっているわけで。」
O(?)「一応実験とか測定とか言うときには、確かに、極端な区別が出来るところで私たちもやっている気がするんですが、本当は別の分類したほうがいい場合でも、男女で分けてアンケートを取ったり・・・。」
坂東「それは私も疑問に思うことがよくあります。どう分類するかという、そこにすでにある種の考察が入り込んでいることは事実ですね。」
宇野「ただね、実際ゾウリムシなんかで8つの性があるとかね、そういう話もあるくらいで、ただ現実には圧倒的な多数の生物というのは2つの性という形をもっていて、まあそういう形で進化してきたという言い方でしか答えられないんじゃないかなあという気がするんです。それが進化にとって有利であったからということになっている。」
 
[生物の戦略とは]
 
小野「それでちょっと質問があるんですけど、池内先生が先ほど戦略的という言葉を使われました。戦略ていうのは目的があって立てると思うのですが、ヒトっていうのが生物として進化し、繁栄していくためにそのオスとメスっていう2つの性になったというお話をなさったんですが、それは戦略なんですか? 池内先生が言われた中で、例えば、わからないこと、今まだ到達してないところはしょうがないとして、だけども子供を産む性としての、つまり特性を配慮した女性の扱い方ていうんですか、社会構造となってるのかどうか非常に大事な事やということ、この辺りは非常に良くわかるんですけど、その戦略ていう言葉ちょっとわからなかったんでその点を教えて頂きたいです。」
池内「えっとね、これはかなりレトリックかもしれません。というのは、我々結果から見てモノをいってるんですね。はじめの分化段階からね、戦略的にこういこうと、そういう意味の戦略じゃなくて、結果から見て生き残って、実に多様に進化し、遺伝子の安定性を保ってきた。そういう結果的に生き残って多様なものを残してこれたのは、オスとメスに別れた方が有利であった。そういう結果、それを導いてきたという意味で使ってるだけであって、はじめから何らかの意図をもってやったっていうことではありません。」
小野「それは池内先生がつけられた言い方ですか?」
坂東「いや違います。進化生物学では、一般に戦略いう言葉を使われます。先ほど紹介されましたが、優生学も進化論と深く結びついて出てきました。フィッシャーあたりから始まった、進化遺伝学を統計学的に有意な処理する手法、方法論が発達したんです。その時、戦略という言葉が使われるようになったのです。例えば ESS(Evolutionally Stable strategy 進化的に有利な戦略)などという言い方が使われます。」
「歴史的には、そうなんですが、戦略などどどうして経済的な言い方をするのですか? 英語で言ってもおんなじですか?」
坂東「同じでしょうね。経済的というのは、子孫をたくさん残すこととかエネルギーが最小で最大の成果を得るとか、まあ、そういうのをあらわす言葉です。ゲーム理論などという言葉も使われますが、これもいかにも人間的ですが、擬人的に、勝つ戦略をさすのです。別に意志があってそういう戦略を取るのではなく、生き残った方法が、この戦略だったということでしょうか。」

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